煙の通り道はきちんと決めましょう
家令の声は、ゼルダの背中をきれいに通り越した。十三年分の手当も、同じ道を通ったらしい。彼女は天井の隅を見上げたまま、焦げ跡のある払い柄を親指でなぞった。
「煙道は皆の場所ですから、特定の者へ手当をつけるのは後でよろしいでしょう」
後ろにはディアドラ・ベクスリーがいる。ケアロン・フィスクの声は奥方へ向けると半段低くなり、いかにも家中を無駄なく整えた男の声になった。無駄とは便利な言葉だ。だいたい、切られる側へ相談に来ない。
「これまでゼルダへ別に渡していた分でしょう」
「はい。ですが払い手は六人おります。部屋数を割れば、誰にでも同じように回せますので」
六人。なるほど、煙は人数を数えて遠慮してくれるらしい。ゼルダは払い置きの札を数え直し、北側の客間の札だけを一枚下へ移した。
札の木口には去年の煤が残っている。雨の朝に先へ火を入れ、引きを温めてから客間を使った印だが、数字だけをご覧になる方には、ただの汚れである。汚れなら拭けばよい。記憶まで落ちれば、控え帳もたいそう見栄えがよくなる。
「任せます」
ディアドラが衣擦れを残して出ていくと、ケアロンは一歩ぶん前へ出た。奥方の前で控えていた足が、よく伸びる。これも人数に入れて差し上げたいくらいだった。
「ゼルダ、東棟の三本を今日中に済ませろ。その札はもう要らない。あとで新しい順を出す」
「北側は」
「東棟からだ。返事は一度でいい」
返事を待たず、彼は次の戸口へ声を飛ばした。ゼルダは「承知しました」を背中へ渡し、払い柄の焦げ跡にもう一度だけ親指を当てた。十三年触れても、そこだけは滑らかにならなかった。
朝食は台所の隅で、立ったまま済ませた。冷えたパンを茶で流し込むあいだにも、頭の中では東棟の三本が勝手に並び替わる。仕事は食べ物を待たない。食べ物のほうも、たいていゼルダを待たなかった。
* * *
翌日、ケアロンは柱から今月の払い順を剥がした。釘に引っかかった紙が途中で裂けたが、彼は残った端も爪で掻き落とした。ずいぶん念入りである。風向きにもその爪を立てていただければ、ゼルダも口を挟まずに済んだ。
「これで古いやり方は終わりだ」
ボイド・タッカーが、その横へ大きな紙を貼った。客間十二、寝室十八、食堂二、台所三。右には払い手六人。足し算と割り算が堂々と柱を占領し、ボイドは紙の端をぺしりと叩いた。
「これなら俺たちでも回せる。なあ、一人何本か書いてくれりゃ迷いようがねえや」
若い衆が目を合わせ、片方が鼻の下を擦った。笑うほどではないという顔で、きちんと笑っている。二人の肩が、同じ拍で揺れた。
「雨が三日続いた週は、北側の引きを先に見たほうがよろしゅうございます」
「今月はこの表で回す」
「同じ本数でも、湿りと風で順を変えます。煙の通り道は、きちんと決めておいたほうがよろしいのです」
ケアロンは柱の紙を叩いた。ゼルダは、外の風までその紙を読んでくれるのなら結構なことだと思った。
「順など、上から落とせばよい。六人が勝手に動くから手間になる」
「へえ、家令さんの言うとおりだ。上から五、六本ずつ、はい終わり」
ボイドは箒を肩へ担ぎ、紙の数字を指で追った。ゼルダの話は柱と若い衆のあいだへ落ちたが、拾う者はいない。煤なら拾わせるのに、忠告は掃除の対象にもならないらしい。
昼前、薪を積んだジャイルズ・ネップが裏口へ来た。ケアロンは商人たちにも聞こえる声で、新しい表は自分が家中の順を整えたものだと話し、控え帳の部屋数を見せた。評判は手当より先に受け取る。じつに素早い差配だった。
ゼルダは荷台の端へ寄り、三枚の小さな紙をジャイルズへ渡した。近隣三軒への言伝で、雨が続く週は北側の薪を一段乾かしておくこと、最初の束を細くすることだけを書いた。
「こっちは?」
ジャイルズが四枚目を指した。
「こちらのお屋敷の分です。今週の薪は、北側へ入れる束だけ別にしていただけますか」
「家令さんの表に書いてねえぞ」
「風も、あの表には書いてございません」
老人は口の片端を少し上げ、四枚を上着へしまった。ケアロンがこちらを振り向く前に、ゼルダは東棟の札を持って戻った。言うことは言った。あとは煙と数字で相談してもらえばよい。
* * *
翌朝、机の上に過去十三年分の払い順が積まれた。雨の日、北風の日、祝宴前、長く閉めた部屋を開く日。日付と順だけの控えで、理由は書いていない。理由まで紙へ移せるなら、ゼルダの頭はとうに空になっている。
彼女は刷毛を洗い、布で毛先を揃えた。掻き棒の煤を落とし、長い柄から順に壁の金具へ戻す。曲がったものは曲がったなりに収まり、最後の一本だけが手に残った。
根元に焦げ跡がある。十三年前、初めて一人で客間を任された朝、火の近くへ置きすぎた跡だった。親指がそこへ乗り、動かなくなった。
「何の真似だ」
入ってきたケアロンが控えの束を持ち上げた。二枚ほどめくり、記された順の細かさに眉を寄せる。読めないものへ腹を立てる方は多い。読めない自分へ腹を立てる方は、めったにいない。
「過去の払い順でございます。今朝までの分も、一番上へ置きました」
「そんなことを聞いているんじゃない。東棟が残っている」
「新しい表では、ボイドたちの分になっております」
「口答えをするな。おまえは今日、そこへ入れ」
昨日までなら、その命令で足が動いた。ゼルダは柄を布でもう一度拭き、焦げ跡を上へ向けて壁へ立てかけた。ほかの道具と同じ間隔に揃える。そこまでして、ようやくケアロンを見た。
「わたくしはこの一本を、十三年、わたくしの火だと思うて払っておりました」
ケアロンの指が控えの紙をめくるのをやめた。廊下ではボイドが誰かを急かしている。朝の火が入り、遠くの煙道で低い音がした。
「ですが、皆の場所でございましたね」
「それがどうした」
「誰の持ち場でもないところへ、わたくしが居続ける理由はございません」
「勝手に持ち場を決めたのはおまえだろう。家の命令を受ける身で——」
「今朝まででございます」
ゼルダは一礼した。言葉を足せば、十三年が引き留める側へ回りそうだった。柄から離した指を握り、外出着の袖へ隠す。
部屋へ戻り、一番よい服に着替えた。襟は少々高すぎ、歩くには裾も重い。けれど家を出る日に煤だらけの仕事着では、あちらの言い分まで着ていくようで面白くない。見栄で結構。見栄は手当を後回しにしない。
門番が開けた扉の向こうには、朝の道があった。ゼルダは振り返らずに門を出た。背後で何本の煙が上がっているか、数えもしなかった。
* * *
夏のあいだ、ベクスリー伯爵家では何も起きなかった。暖炉は冷え、客間の火も飾りにすぎず、ボイドの表は柱の上で得意げに平らだった。煙なんぞ、人を増やせば片づく、とケアロンは思った。
ゼルダは近隣の家で、台所の引きを見たり、古い煙道の曲がりを確かめたりした。大きな屋敷の十三年に比べれば、どれも半日か一日で終わる仕事だ。けれど戸口では「煙道を見ていただくゼルダさん」と呼ばれた。皆の場所を払う女ではない。名前というのは、思ったより耳にくすぐったい。
「ゼルダさん、こっちの火も見ておくれよ。鍋をかけると、煙がわたしばっかり追いかけるんだ」
「煙にも好みがあるのでしょう」
「だったら亭主を追わせるよ。あれは外で干しても構わないから」
講の女衆が声を上げた。ゼルダも煙道の口を覗きながら、亭主を吊るす金具は別料金だと返した。仕事の相談と亭主の処分が同じ調子で進むあたり、世の台所はたいへん忙しい。
払いが終わると、女衆は庭先へ車座になった。空いた場所へ椀が一つ置かれ、白い豆と刻んだ根菜のスープが湯気を上げた。
「冷めるよ。道具は逃げやしないから、座んな」
「まだ柄を拭いておりません」
「柄は腹を空かせないだろ」
まことに正論だった。十三年、冷えた朝食を立って飲み込んできた者が、柄の心配をして座るのをためらっている。笑うなら煙道より、こちらの癖である。
ゼルダは膝を折り、空いた場所へ収まった。椀を両手で持つと、豆の匂いが鼻へ上がる。一口目を飲み込んでも誰も次の仕事を命じず、二口目はまだ熱かった。
* * *
冬の雨は三日でやまず、四日目の朝も北窓を細かく叩いた。ベクスリー家では客を迎えるため、柱の表どおり上階から火が入れられた。北側の客間は最後だった。
北側の客間でも、ボイドがほかの部屋と同じ太い薪を二本組み、焚きつけへ火を移した。炎は素直に上がったので、彼は炉縁を一度叩いて次の部屋へ行った。しばらくして暖炉の奥で低い息が詰まり、灰色だった筋が白く膨れた。
白い煙は煙道へ上がらず、客間へ戻った。絨毯の上を這い、卓の脚を巻き、座っていた客の顔まで届く。客は目元を押さえて立ち上がり、椅子が後ろへ倒れた。
「窓を。すぐに火を落としなさい!」
ディアドラが自分で布を取り、客の目元へ差し出した。裾が煤で汚れるのも構わず膝をつき、短く頭を下げる。
「わたくしどもの不手際です。申し訳ございません」
ケアロンは戸口で足を止めた。ゼルダへ命じるときの硬い語尾が、煙を吸ったように痩せている。
「急な冷え込みと、私どもの手配した人数が足りなかったためかと。すぐ増員いたします」
「今いる者で、まず火を消しなさい」
「はい、奥様」
翌朝、ゼルダのところへ使いが来た。客間を見ろとの言葉だったので、彼女は仕事着ではなく、夏から依頼先へ着ていく外套で向かった。命令と依頼は形がよく似ている。代金の話をすると、たいてい見分けがつく。
客間には白い匂いがまだ残り、天井近くの壁が薄くくすんでいた。ボイドとケアロン、ディアドラが彼女の顔を見る。以前なら、ゼルダの目は戸口をくぐる前から天井の隅へ走った。
そのときだけ、動かなかった。
焦げた絨毯の縁を見た。消された薪を見た。柱から持ってこられた部屋数表と、机に広げられた過去の払い順も見た。全部ある。
「ああ、わたくしはもう、この煙へ駆け寄らなくてよい」
胸の内へ落ちた言葉は、思ったより静かだった。勝ったというには白すぎる部屋である。それでも、ゼルダの不在がようやく煙になって見えた。十三年ぶん、実に遅い。煙まで払い順を守ったらしい。
「原因を申せ」
ディアドラの声に、ケアロンがゼルダを見る。答えを取り込む準備だけは、今も早い。
「正式な見立てのご依頼でございましょうか」
「ゼルダ!」
「わたくしは、もう家の命令を受ける者ではございません」
ディアドラは机上の紙からゼルダへ目を移した。何かを言いかけ、先にケアロンを見た。
「この順は、あなたが作ったものですか」
「いえ、以前の控えを基に、私どもが部屋数と人数を——」
「では、あなたの仕事の結果です」
ケアロンの口が閉じた。ゼルダは帽子をかぶり直し、外套の裾を払った。客間の火は消えている。もう誰も危険ではない。そこから先は、皆の場所を任された皆で考えることだった。
* * *
翌週から、ベクスリー家の招きへ届く返事が減った。商人たちは以前より短く頭を下げ、長居をしなくなった。ボイドは柱の紙を自分で剥がしながら、「あの家は人数じゃねえ、順が抜けたんだ」と語尾を伸ばした。隣で聞いた商人も同じ言葉を持ち帰った。
紙の端が釘に残った。今度のボイドは笑わず、爪で取ろうともしなかった。人の口は風より早く向きを変えるが、柱だけはよく覚えている。
ディアドラは客間へケアロンを呼んだ。煤の跡は薄くなっていたが、壁紙は張り替えられていない。客へ詫びた場所に立ったまま、彼女は手を差し出した。
「家令の鍵を」
「奥様、冬場の人数を倍にすれば立て直せます。今回の件は、私どもの手配に一時的な——」
「その複数形から、わたくしを外しなさい」
ケアロンは鍵束を握ったまま、理由をもう二つ並べた。薪の湿りと、ボイドの不注意。ゼルダの控えが説明不足だったこと。ディアドラが手を下げなかったので、やがて金属の鳴る音がした。
「ボイドに任せたのも、控えを読めずに使ったのも、あなたです。席を空けなさい。ゼルダが使っていた払い柄は、本人へ返すように」
鍵束は彼女の掌へ渡った。ケアロンは家令の机から控え帳をどけ、椅子を引いた。廊下を通るとき、使用人たちは壁際へ退いたが、誰も頭を下げなかった。
同じころ、ジャイルズがゼルダの新しい依頼先へ薪を運んできた。雨を吸っていない束だけを屋根の下へ積み、一本割って中の色を見せる。ゼルダが頷くまで、彼は代金の控え帳を開かなかった。
「ベクスリー家へは、もう卸さないのですか」
「卸すさ。頼まれて金を払うならな」
「では、なぜこちらを先に?」
ジャイルズは割った薪を束へ戻し、手袋についた木屑を払った。
「奥さん。おれたちはあの家に売ってたんじゃない。あんたの目に売ってたんだ」
四十年も薪を売った老人は、それだけ言って控え帳を開いた。世辞を百並べるより高い値が、その一言にはついていた。しかも支払いはゼルダ持ちである。うまい商売だ。ありがたくて、少々腹が立つ。
その日の午後、修道院から二人が訪ねてきた。炊事場と客用の部屋、施療室の煙道を、季節ごとまとめて預かってほしいという。
「払い手ではなく、順を決める方をお願いしたいのです。ゼルダ・プレスコット様を、と伺っております」
名前を最後まで呼ばれ、ゼルダは返事が一拍遅れた。さらに近隣三軒から、雨の週の言伝どおりにしたら煙が戻らなかったと依頼が来た。どれも家の名ではなく、ゼルダの名へ届いた。
「三軒と修道院を一人では回せませんよ」
講の女が言うと、ゼルダは日取りを書いた紙を並べた。部屋数だけなら、たしかに回らない。けれど火を入れる日も、風を嫌う場所も、それぞれ違う。
「順を決めます。上から落とすのではなく」
「じゃあ、わたしたちは何をすればいい?」
「まず、スープを鍋から下ろしてください。底が焦げます」
「仕事の話より先に言いな!」
鍋が持ち上がり、女衆の声が重なった。ゼルダはようやく笑って、修道院の依頼書へ自分の名を書いた。
* * *
修道院の炊事場にある細い窓へ、朝日が差していた。窓辺には焦げ跡のある払い柄が一本、まっすぐ立っている。ベクスリー家から包みで返されたとき、煤はあの日のままだった。余計な親切で磨かれなかったことだけは、褒めてもよい。
壁には部屋数ではなく、火を入れる日と薪の具合、雨の印が並んでいた。一番上には「煙道預り ゼルダ・プレスコット」と書かれている。名前の下へ仕事がぶら下がる眺めは、まだ少しこそばゆい。
戸口を叩く音がして、ケアロンが入ってきた。もう家令の上着ではなく、古い外套を着ている。帽子を両手で持ち、つばの同じところを何度も押していた。
「少し、話がしたい」
「火を扱っておりますので、手短にお願いいたします」
「ベクスリー家へ戻ってくれ」
謝罪はなかった。十三年の手当も、剥がした紙も、客間でゼルダへ向けた声も出てこない。代わりに、冬までに客を戻さねばならないこと、ボイドたちでは順が組めないこと、新しい家令が見つからないことが並んだ。
「条件は改める。手当も出す。おまえが以前どおり差配すれば、家は元へ戻る」
ケアロンは帽子を持ったまま顔を上げた。ゼルダを見ているようで、その後ろの払い柄と壁の印を見ていた。欲しいのはやはり、彼女が守っていた火ではない。煙の出ない客間である。
「以前どおりでなくてもいい。おまえのやり方で構わない。だから戻ってくれ」
十三年前、焦げ跡をつけた朝より、彼の肩は近く見えた。小さくなったのではない。家令の席と借り物の断定がなくなり、ようやく本人の寸法になっただけだ。
ゼルダは窓辺の柄を取り、焦げ跡へ親指を置いた。今度は指が止まらない。そのまま柄を持ち上げ、朝の火が待つ煙道へ向いた。
「煙の通り道は、きちんと決めておいたほうがよろしいのです」
ケアロンはしばらく帽子を握っていた。忠告の続きを待つ顔だったが、ゼルダはもう彼の家の順を考えていない。
「あの家は、皆の場所なのでございましょう」
「ゼルダ」
「わたくしの持ち場は、こちらです」
炊事場の奥から、講の女衆が薪を運んできた。ケアロンは道を空けるため壁際へ寄り、誰にも見送られず戸口から出た。帽子は最後まで、頭へ戻らなかった。
ゼルダは修道院の最初の火を見た。細い炎が煙道へ吸われ、窓辺の布がわずかに揺れる。一本目、次に施療室、客用の部屋は日が上がってから。自分の名で預かる火は、命令より静かで、ずっと重かった。
朝の仕事が終わると、女衆が窓のそばへ車座になった。空いた場所へゼルダの椀が置かれ、白い豆のスープから湯気が上がる。
「今日は立ったまま食べるんじゃないよ」
「柄を拭いてからでは」
「ゼルダさん」
「はい。座ります」
椀を両手で包むと、豆の匂いが上がってきた。誰かが今日の薪を相談し、別の誰かが塩を寄こせと言い、その横でパンがちぎられる。座って食べる朝食は、思っていたより長く温かかった。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。




