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白鳥の巣

作者: 沙華やや子
掲載日:2026/06/06

 

 ウィーン、シャーッ。ベルトコンベアーが回る機械音の中、濃厚な甘いチョコの香りが漂っている。


 細里渡(ほそざとわたる)32才。彼は大手菓子工場のライン作業に従事している。担当は高級クッキーの箱詰め・梱包だ。


 甘い菓子よりもイカの塩辛が好きな渡は、繊細でどうかすると割れてしまう極上のクッキーを無表情な顔をして今日も手早く美麗な箱に詰めて行く。


 仕事に不満はない。高校生の時から交際している恋人の(かおり)にもストレスがない。面白くない程に。



「お疲れ様~。細里君、上がってね」 肉付きの良い男性班長が声を掛ける。


「はい、班長」


 少し長めの黒い前髪をした横顔に憂いを見て取ったか、班長が言う。

「どうしたの、細里君。この頃、疲れてる? 大丈夫。それにちょっと痩せた?」


「あ、筋トレをサボっちゃってるから。大丈夫ですよ。なにもないです」


「そうか」 

 班長は安心したような声で「明日と明後日の休み、ゆっくりして」と言った。


「はい」


 ――――明日は香とデートだ。恋人の香が珍しく有休を取った。


(毎回ワンパターンでマンネリ気味だな。たまには遠出してみるかな)


 与田香(よだかおり)。彼女は渡の同級生で、高校2年生の頃から渡と付き合っている。ベテランの域に入る美容師だ。

 渡と香は、会おうと思えばいつでも会える近隣に住む家族のような感覚を互いに持っており、それぞれ一人の時間を大切にし合っている。

 しかし、最近ではたまのデートも兄弟か友達のようなムード。渡の家で二人、くつろぐことが多い。



 ――――デート当日。


 車で香をマンションまで迎えに行く渡。今日はドライブへ誘い出そう。


 玄関チャイムを押す。


「渡、お迎えありがとう」


 ダークブラウンのセミロングヘアーにゆるりとしたスタイリッシュなパーマ。流石美容師だ。香はいつ見てもクールである。今日は濃いブルーのスッキリとしたデニムのスキニーパンツにベージュの大人っぽいブラウスを合わせている。


 渡はというと、ゆったりした黒のカットソーにスラックス素材のクロップドパンツで足首を見せている。

 まだ5月だというのに今日は夏の暑さだ。


「香、今日はさ、久しぶりにドライブでも行かない?」


「あ、良いね。行こうよ。どこに行く?」


「うん。色々考えたんだけど、夢園湖畔(ゆめぞのこはん)行ってみない?」


 ゆうべざっとだがインターネットで渡は調べてみたのだ。水辺に行きたいなと感じた。

 夢園湖畔は素敵な観光地らしい。



 早速二人は渡がハンドルを握る車に乗り込み出発した。平日なので道が混んでいない。


「……でね! どう言ったと思う? 渡」


「え、あ。ああ、御免、香。なんだったっけ」


「もー、渡~?! 聴いてなかったの? こんなの、つけているから」

 断りもせず香は車内を流れていたカーラジオのスイッチを切った。


 渡は特にそれに対しなにも言わない。怒る理由もない。怒る理由もなければ笑う理由もない。最近では香と一緒にいてもそんな風だ。


「渡、一見さんの文句よ。『ちょっとブラシとドライヤー貸して頂戴』ですって! 仕上がりが気に入らないから自分でセットし直すって言ったのよ」


「そうか」

 渡は心に浮かぶままそのまま返事した。


「『そうか』って、それだけ? 渡。変わったお客さんじゃない?」


「うん、まあそうだね」


 香は少し不貞腐れた顔をして溜め息をついた。

「この頃くたびれた感じね、渡。仕事は旨く行ってんの」


「ああ、相変わらず順風満帆。呆れるぐらいにね」


「なにそれ。結構なことじゃない」


「うん」


 渡はなんだか流れ行く優しい景色に追い越されそうだ。なにかわからない苛立ちと、しらけたムードが自身に内在されているかのような焦りに絶望している。

 現在の職場にはすでに13年間問題なく勤めており、周りから頼りにされている。 香は朗らかで料理も掃除もそつなくこなす綺麗な女性だ。

 そこに渡がコンプレックスを感じているかというとそんなこともない。

 渡はルックスも良く女性社員から人気があることを自覚している。しかしそれを鼻にかける気もなければ、魅力を押し殺す気もない。


 渡と香が築き上げた15年間の信頼関係はしなやかでいて固い。だから香は変な嫉妬心は全く起こさない。


 香は要らぬことを黙るように、自然豊かな森を助手席の車窓から眺めている。

 カーラジオはもう誰もつけない。



 ――――『ようこそ白鳥の安らぎ、夢園湖畔へ』

 パーキング手前の横断幕に歓迎の言葉としてそう書かれてある。


『白鳥』……ネットでざっくりと『水辺・観光』とここを見つけ、デートの先を即決した渡には白鳥がいるという情報は入っていなかった。


「わー! 白鳥がいるんだね、渡。見たい、見たいっ」

 はしゃぎ出す香。


「うん。そうみたいだね」


「え、調べたんじゃなかったの? 渡」


「うん、白鳥のことは見なかった」


 しかし子ども連れの家族が多く遊びに来ているあたり、白鳥は目玉なのかもしれない。


 渡と香は車を降り、美味しい空気を吸い込んだ。


(やっぱ街とは違うな。なぜだろう。気持がス――――っとするな)

 渡はンーと伸びをした。


「フー」


「あ、パンフレットもらおうよ、渡」


 駐車場から暫く歩くとすぐに土産物売り場があり、そこに『ご自由にどうぞ』と書かれた薄い冊子がラックにしまわれている。


「ああ、そうだね」

 手を繋いで歩く訳でもないサバサバとした二人はラックへ嬉しそうに歩み寄り、パンフレットを1つもらい広げた。湖周辺遊歩道の案内がわかりやすく地図として載っている。

『白鳥スポット』という文字に香が目を光らせ「行こう、行こう」と張り切る。


 水辺の安定した包容力と、白鳥という非日常への好奇心が渡を魅了した。


 白鳥がよく見える場所へ行くには20分は歩く。ちょっとした距離だ。しかし、左に揺らぐアイオライトのような水の息吹を感じるその時間というものは、安らかであり爽快だ。


 悲しいことにこの美しさと静けさが、渡にとって香の声を余計に小さくしてしまう。湖畔に抱かれ、一緒に来ている恋人の存在すら忘れてしまうのだ。


「……と思っていたらね……あれ? もしかして、また聴いてない。渡?!」


「え! ン?」


「もー、どうしちゃったの? 渡。悩み事はしまっておかないでよ」


「ありがとう、香。そんなんじゃないさ。御免ね、ボーっとしちゃって」


 香の話はたいして答えを求める内容の類ではなかったらしく、急に目をキラキラさせ水辺へ駈けて行った。

 ゆっくりと付いて行く渡。


「ああっ……」

 渡は思わず小さく声を上げた。


 渡の工場でおなじみのマシュマロなんかよりも真っ白な羽毛。優雅な動きをする曲線美。愛らしい黄色のくちばし。チョコレートよりもスウィートな暗褐色の瞳。それらを兼ね備えたカップルの白鳥が眼前に現れた。

 1羽は巣に、もう1羽は見張り番をするかのように湖面に浮かんでいる。恐らく雌が卵を温めているのだろう。


 驚くことに、遊歩道からわずか1・5mの湖面に彼らの巣がある。


「可愛いね」

 囁き声に喜びが滲む香。


「ああ、本当だ」

 渡も小さな声で答えた。


 二人は遊歩道と水辺の間に群生している真菰(まこも)に身を隠している。


(綺麗だ)

 久しぶりに渡は誰かに、なにかに心からそう感じた。


 香も静かに見入っている。


 数分後、雄が雌のほうへ向き、雌が巣を立ち上がった。その時彼らは胸と胸、くちばしとくちばしをくっつけ、見事なハート型を作り上げた。ハートの額縁に神秘の湖と溢れる緑がおさまった。


「キャ」と小さく香がスマホをそっと取り出した。


 渡は写真なんかよりも今この瞬間が欲しい。


 見ていると、どうやら抱卵を雄が交代するようだ。巣から雌が出た時、5つの卵が見えた。少しくすんだクリーム色のそれらは、鶏の卵の6倍はあるだろう、大きい。


 鼓動を感じる。

 渡は自分があそこから生まれるような錯覚を憶えた。


 見張りをしていた雄が卵を温め始めると、巣を出た雌が毛繕いをしたあとすぐに顔を水面に突っ込み始めた。食事であろう。


 渡は、白鳥の協力的な行動、深い愛情が伝わって来、嬉しくなった。


 何十分も渡と香はそこにいたのではないか。

 渡は随分し、自分達の後ろにスマートフォンのカメラを湖面へと向ける人々が立ったりしゃがんだりしていることに気づいた。


「行こっか」と渡は促し、湖畔の散歩を香と楽しんだ。


 空は清しく、ウグイス・シジュカラ・オオルリなど、小鳥たちの高音域の歌声が賑やかで胸躍る。

 街での平坦な毎日。抑揚のない自分の日々、香には悪いが……恋人といても今一つ燃え上がらないこの心が躍っている、と渡は、性格上表にこそ出しはしないが少年のように喜んでいる。



 とても素敵な一日だった。


「行く時より良い顔をしているね、渡。良かった」と香が言う。


「うん」


 カーラジオをつけていない。

 渡は湖畔でのオーロラのカーテンに包まれるかのような感動に、帰り道の今も酔いしれたい。


「明日は仕事だ~、あたし。予約、けっこう詰まってるし」


「そか。頑張ってね、香。香は人気の美容師だもんな」


「ウフフ。いつかテレビに出るようなカリスマ美容師になりたいよ」


「応援してる」


「明日のお休み、渡はどうするの?」


「ンー、まだ決めてない」


 渡は『今』を感じる経験を久しぶりにしたし、香から質問されている今も『明日のことなど考えていない』

 今日目にした光景は鮮やかに渡の脳天を蹴り上げた。

 渡は時間に終われ、ベルトコンベアーの速度に終われ、淡々とタスクを時間内にこなし、休日にはお決まりに恋人を抱いている。

 会社からも彼女からも、ただ求められるから。抗う理由が見つからないから、約束を守り、遅れないように過ごしている。


 自分はなにかを求めているか?


「じゃあね、渡。今日はありがと。また連絡する」


「うん。こちらこそありがとう。おやすみ、香」


 香をマンションへ送り届けた後、脳裏に焼き付いて離れない白鳥の美。


 自分は積極的になにかを、誰かを欲してはいなかった。

 でも今夜渡は(明日、必ずまた白鳥を観に行こう)と強く誓いのようなものを持った。



 ――――翌朝。


 珍しく朝からシャワーを浴び、湯船につかり、バスルームを出るとおしゃれする渡。

 気もそぞろだ。そう、白鳥のつがいに会いに行くことで胸がいっぱいなのだ。


(彼らの情愛を与え合う仕草は綺麗だ)

 支度をしている間中渡はきのうの心地を想い起こしていた。


 年代物のデニムを穿き、少しだけゆったりとした白のロングTシャツを着た。

 いつもはシャンプーの後適当に乾かす髪も、今日は念入りにセットした。

 誰に見せる訳でもなくただ自分がそうしたいのだ。そんな感覚、忘れていた。


 出発すると、車のハンドルを握る手もなんだかくすぐったい程ワクワクする。

 今日は渡一人だ。香は出勤日なので。


 土曜日だ。夢園湖畔へやって来る観光客が多いことだろう。渡の頭の中を、あの極上のスポットに人だかりが出来ているシーンがふと浮かぶ。


(ちらとでも白鳥たちを見られればそれで良い)


 渡はそう思いカーラジオをつけた。丁度大好きなミュージシャンの音楽が流れていた。

 幸運が舞い降りそうな予感がした。


 天気予報だと明日が雨だという。空は薄日がほんのりと差し、口ごもった駄々っ子のような表情だが、今日は持つだろう。


 夢園湖畔の駐車場に到着すると、灰色の空であるゆえ、殊に淡いピンク色の儚さを際立たせているツツジが出迎えてくれた。

 きのうはこの控えめな美に気づかなかった渡だ。


 きのうの遊歩道を辿って行く。

 きのうと違い一人だったのと、あの麗しさに早く会いたいと急いたせいか、今日は15分で目当ての場所に着いた。


 時刻はまだ朝の9時だったが、予想した通りそこは人だかりが出来ていた。

 人と人の間から湖面に目を凝らす渡。


(見えた!)


 今日もつがいの白鳥2羽は健やかな様子だ。

 実は渡、今日は双眼鏡を持って来ているのだ。これは大好きなミュージシャンのコンサート用に購入したものだった。


 早速鞄から取り出しレンズ越しに彼らを見てみる。小枝や枯草で上手に造られたマイホームは立派だ。あの大きな白鳥が乗っても壊れないのだから職人技だなと渡は感激する。

 上へとレンズを向けて行くと、横向き卵を温めているらしい雌が見えた。そうとは限らないが、つぶらな瞳が自分のほうを見てくれているような気分になる。

 雄はきのうと同じよう、辺りをゆっくり見回し、たまに湖面のなにかをついばんでいる。


「ママ―、白鳥さん、可愛いね! あたし触りたい」


 突然声が聞こえ、渡は双眼鏡を下ろした。


「し! 小さなお声でおしゃべりしましょうね。白鳥さんは赤ちゃんを育てているから、静かに見てあげよう?」


「はーい。ママ、白鳥さん、触れないの?」

 ヒソヒソ声になった5才ぐらいの女の子が母親にもう一度尋ねる。


「うん……残念だけど触れないわ。それが白鳥さんに優しくしてあげるということよ」


「ふーん」

 女の子は少し残念そうな顔をした。


 実にほのぼのとする光景だなと渡は微笑んだ。


 渡は30分はそこにいた。他の人はいても10分程度。入れ代わり立ち代わりする人々。いつしか最前列・特等席で白鳥を観察出来ることとなった渡。


 今度は肉眼で彼らを見る。雄は天敵から家族を守る見張りをしつつも、時々雌に擦り寄って行く。白鳥なので笑う訳ではないが、渡には雌白鳥が幸せそうに見える。


(本当に美しく温かい)


 その日、渡は存分に白鳥を愛でた。昼食を土産物コーナーの食堂で食べた後も、再びあの場所へ戻り彼らの動きに魅せられていた。



 ガシャン! ガシャン! ウィーン。

 無機質な機械音の中、今やときめきを宿した生命体である渡が仕事に精を出している。

 今日は新商品のクッキーの箱詰め作業だ。


「あ」

 マスクの下で思わず声を漏らす渡。


(これは……アヒルか? それとも白鳥を模したお菓子だろうか)

 アヒルにしてはスマートで、白鳥にしては首の短い鳥の形をしたキュートなクッキー。ホワイトチョコで美しい網目模様が描かれいる。


 まさか作業中にこんな沸き起こる幸せを感じるなどとは思いもよらなかった。渡のマスクの下の口角はキュッと上がっていた。

 生活になんとなく疲弊していた彼がこのような感覚を持つことは珍しい。それも職場で。


 ――――その次の香とのデート、香は渡のマンションで過ごしたがったので、渡は夢園湖畔へ行く希望を諦めざるを得なかった。


 淋しいのは、白鳥たちに会えないことよりももはや、香のそばにいても愛着を感じ得なくなってしまった自身の心持ちに対してである。


 それでも渡は、自宅デートでいつものように振る舞った。いつものようにシャワーを浴びて、いつものように香とベッドでもつれ合う。

 断る理由が見当たらないから。渡はそんな自分がずるいようで嫌気がさす。はっきり言って性欲もたいしてない。香になにかを求めようとも思わない。


(いつからかな……)

 今に始まったことではないと、嬉しそうな香とソファーに並び、ぼんやりとテレビを観ながら他人事(ひとごと)みたいに考える渡。


「渡~?」


「ん」


「愛してるぅ?」


「うん。愛してるよ」


 菓子工場でデポジターから生クリームが自動的に絞り出されるかのような上の空の言葉。お芝居の舞台のため台本を手にし、何度も練習し切った後のようなセリフ。

 渡はチクリとした痛みを憶えつつ、痛みのままそっとしている。



 ――――「お疲れさん、細里君。上がって下さいね」


「はい、班長。お先です」


 明後日は休日だ。もうひと頑張り。明後日は香と休みが重ならないことにほっとしている渡。

 独りで過ごしたい。


 もちろん夢園湖畔にドライブへ行く気だ。


 通勤ラッシュの駅構内は足早に家路を急ぐ人で溢れ返っている。工場の最寄り駅は都会の大きな駅だ。


 渡が改札を目指すためエスカレーターを見ると、今まさにエスカレーターを上り切ろうとする香の姿を見つけた。


(今日、香の奴仕事だったはずだが……予定が変わったのかな)


 声を掛けようと階段を使い改札階へと急ぐ渡。そして上り切った時、香を見ると連れがいた。香の勤める美容院の男性店長だ。腕を組み、彼は香の右頬にキスをした。


 渡は……驚いたが、嫉妬や怒りや悲しみの類は全く感じなかった。

 自分はなにも悪くないのに、その自身の無感覚さに罪の意識を憶えた。


 無論渡は彼らから距離を置き、階段を1度下りウロウロと歩き回り時間を潰した。 面倒だと思ったからだ。見つかっては。


 男と女の猿芝居など見る気もしなければする気もさらさらない。


 さ迷うように駅の食堂街を歩きながら胸に浮かんだのはあの美麗なる白鳥のつがいの姿だった。そのシーンが今の渡を清らかにしてくれた。クリアーにしてくれた。


(オレは悪くない。香も悪くない)

 そう感じた。


 香からその夜連絡はなかった。渡と香は毎日必ず連絡し合うような付き合い方ではない。とても信頼していたから……。少なくとも渡は。

 でも、なによりも渡は己の心を信頼していなかったと気づいた。背を向け、目をつぶっていたのだ。

 大切な人だ。大切な人ではあるけれど、とっくに香を愛してはいなかった。


 満員電車に揺られ、吊り革を持ち、黒い鏡に映る自分をぼんやりと見ている。いつもは車窓に映る自分など意識したことなどなかった渡だが、今夜は見返されているような気分になった。


(これはオレなのか?)

 それは恐怖心や不快を伴わない、ただの不思議な心地だった。



 ――――翌日も工場内作業をコツコツとこなした。

 そして渡は帰宅し、食事や入浴を済ませてから香に電話を掛けた。


『ああ、渡! あたしも電話しようと思ってたの。お疲れ様』


 いつも通り、変わらぬ香の明るい声。


「うん。香、話したいことがある」


『え? なぁに? 唐突に』


「うん。オレ、香と別れたい」


『ち、ちょっと待ってよ! なに、急に! 嫌よ、あたしは』


 渡は悲しくなった。香を好きだった。対人間として。二股をかける女だ! と(いか)った訳ではない。

 一途さを強要したからこそ今の香に失望したのであろう自分自身に対して悲しんだのだ。


「ずっと考えていたんだ。きついことを言うようだが、オレは香を求めていないと気づいた」


『渡! あたし達、何年付き合ってると思う? 15年よ?! ねー、聴いてんの? ずっと一緒じゃなかったの』

 電話の向こうで泣き叫ぶ香。


「ごめん、香。大事に思っていた。今もそうだ。だからこそだ。正直に言う。オレは香をもう愛していない」


 男性店長の件を言う必要はない。渡は自分の素直な気持ちを伝えるだけだ。


 香が泣き続けるだけの通話が何十分間にも及んだ。


『わかった。あたしのことはもう心配しないで、渡。あたしも本当のことを言う。実は好きな人が他にも出来てしまい悩んでいたの。御免なさい……。だからあたし、独りぼっちじゃないから大丈夫』

 絞り出すように香が声を出す。


「そうか……」


『バイバイ、渡』


「ああ香、さようなら」


 電話を切った後、香の泣き声が暫く耳にこびり付き離れなかった。自分はあんなに大きな声を上げて泣いたことが生まれて来てこれまで、あっただろうか。答えはノーだ。



 翌朝少しゆっくり目覚めたが、渡は湖へ行こうと決めていた。

 しかし前回までのように弾む気持ちだけがある訳ではない。胸に巣食う他人の涙。乗用車のスマートキーは鬱屈とした思いを映すかのように、いつもより鈍い光を放っている。それら全部を自分の掌で握りしめ、車を出発させた。


 昼過ぎには夢園湖畔に着いた。

 渡はいつもよりゆっくりと歩きたく、脇道に咲く射干(しゃが)の花などを眺めては歩を進めた。


 いつもの白鳥スポットに着いた。


 だが、1羽しかいない。


 雌か雄かわからぬが、懸命に巣で卵を温めている。

 見張り係の姿がない。いったいどうしたのか。あんなに仲良く互いをかばい合い、気遣いしていたペアーだったのに。渡は自分の心が引き千切られるような感覚を憶えた。

 ゆうべ香が泣いたって、ここまで自分は動揺しなかった、などと渡はきのうのことを思い出したり、目の前の1羽の哀れさが可哀相だったりと、気が気じゃなくなった。


 平日のせいかそこにいるのは渡一人だけだった。

 渡は声を出した。


「どうしたんだい? 君は母鳥なのか? 父鳥なのか? もう1羽はどこへ行った」


 答える訳もない。相手は白鳥だ。

 チラリとこちらを見た気はしたが、白鳥は時々ゆっくりとまばたきをしながら、大切そうに卵を抱いている。


 たまらず渡は土産店へ行き情報を掴もうとした。

 今度は駆け足だ。10分もせぬうちに土産店へ着いた。


 店員の中年女性に尋ねる。

「こんにちは。あの、あそこの」とさっきまで自分がいた方角を指さす渡。

「あそこのつがいの白鳥が1羽しかいません。もう1羽はどうしましたか?」


「ああ、こんにちは。ここのところいらっしゃるお客様ですね」


 渡は必ずこの店で食事をしたし、香と来た時はソフトクリームも食べた。


「はい」


「可哀相にねぇ。雄が死んじゃって。病気だったのかなあ。でもね、ここの湖では保護はしないのよ。生態系をあるがまま保つためとか言ってね」


 次の瞬間渡は、顔に違和感を感じ手で触った。

 知らぬ間に涙を零していたのだ。

 渡が直近で泣いたのは恐らく20年振り以上前だ。渡が10才の時、飼い犬のコロが死んだ時ではなかったか。


「じゃあ、その、亡骸も拾い上げてあげないのですか?」


 女性は眉間にしわを寄せ、悲しそうに答える。

「そうみたいです。2日前までは巣から少し離れた場所に浮かんでいたのよ。雌が巣から必死で首を伸ばしてね。引き寄せようとしていたのかなあ。でももう流されて行ったか、他の動物に食べられたか……」


「そうですか」


 すぐにトボトボと白鳥のもとへ戻り、居たたまれぬ気持になりつつも、独りぼっちになった白鳥を、しゃがみ込み見守る渡。


 今日は不思議なことに観光客が来ない。

 そのことは泣いている姿を見られると恥ずかしい渡にとっては好都合ではあったけど、白鳥を今こそ多くの人に見てやって欲しいのにと胸が痛みもした。


 せめて餌だけでも与えてやりたいと思ったが、先程土産物売り場の女性が言っていた。

「あるがままの動物の生活を壊さないようにするため、ここでは餌やりは禁じられているのだ」と。


 渡が思い出すのは、あの立派な雄が愛おしそうに雌とバトンタッチをし卵を温めていた時のこと。その時に雌は食事をしていたなあ、と。

 雌はあのままでは恐らく餓死するのではないかと心配になった。


「君は元気でいてくれよ」

 小さな声ではない。1・5m先の白鳥に届くような大きさの声で渡は呼び掛ける。


 白鳥はそれに答えるかのように首を伸ばした。

 渡は自分の都合に良いように解釈しようと必死だ。白鳥に想いが届いた。そうおまじないを自分に掛けなければよろけてしまいそうな程、今の渡はダメージを受けている。


「また1週間後に来るからね。元気でいるんだぞ」

 そう言い残し渡は、肩を落とし駐車場へ向かった。


 薄い西日の輝きじゃ、渡がエンジンをかける力を出すには足りない。渡は暫くハンドルを握り締めたまま、俯いていた。


 ようやくエンジンをかけアクセルを踏み込んだ時、静かにしていた奥底の涙が再び現れた。

 途中、渡は路側帯に車を停め思いきり泣いた。わー! わー! という慟哭に自分自身衝撃を受けている。

 恋人と別れても、会社でたとえ理不尽なことがあった日も、親戚の葬式でも泣きやしない渡。

 心が動かないからだ。しかし今、白鳥の死にこんなにも揺さぶられ辛い。



 ――――翌週、渡は白鳥との約束を破った。


「来週また来るからな」と白鳥に告げたが、体が重く憂鬱で湖へ行く気分になれなかった。

 悲しい、とはっきり思った。



 その次の週、やはり水辺の空気が恋しくなる渡。

 今日は休日。目指すは夢咲湖畔。車の窓を開け、5月下旬の濃厚な緑色の風を受けている。


 車を降りると急ぎ足で、白鳥のいる場所へ向かう。今日は数名の観光客がいる。

 あるカップルの女性が「お父さん、いなくなっちゃったのかなー」と彼氏らしき隣の人物に向け言っている。

「うん。仲良しだったのにね」とその男性は答えた。


 見ると、相変わらず健気に卵を温めている雌白鳥の姿があった。先週より少し瘦せている。双眼鏡まで駆使し、抜かりなく観察していた渡にはわかるのだ。

 皆静かに1羽だけになった白鳥を見守っている。

 元々つがいだったと知らないらしい6才ぐらいの男の子は「わー、パパ! 凄く可愛いねっ」と無邪気にはしゃいでいる。


(元気がないな……)

 渡は、先週破った白鳥との約束について罪悪を感じた。白鳥に心が通じるなんてなさそうだが、それでも白鳥が淋しかったのではないかと思えてならない。


 前よりも弱っている様子の白鳥を見ているのが苦しくて、渡は早々に土産物売り場の食堂へ逃げた。


 俯きがちに店へ入って行った。


「いらっしゃいませ」


 その美声に心を瞬時に奪われ顔を上げ立ち止まる渡。

 そこには赤いエプロンを付けた非常に綺麗な女性がいた。まるで爽やかな朝露のようであり、それでいて、結い上げた長い髪から垂れている後れ毛がしどけない。自分より若い女性だな、と渡は思った。切れ長の黒目がちの目。小さな鼻。艶やかな唇……。


「あ、いらっしゃい」

 続いて奥からいつもの中年女性の安心させる笑顔が見えた。

瑠璃(るり)ちゃん、おしぼりとお冷やをお持ちしてね」


「はい」


『瑠璃』その音楽のような妙なる響きは彼女にピッタリの名前だ。


 彼女がおしぼりとお冷やを準備している時、つっ立ったままである自分に気づき、渡は慌てて窓際の席に腰掛けた。


「いらっしゃいませ」


 彼女はストレートの水色のデニムパンツを履き、レモンイエローの涼しげなカットソーを着ている。

 テーブルにお冷やとおしぼりを置くため少し体をかがめると花のような香りが漂って来、渡はソワソワとした。


「あ、ありがとう。アイスコーヒーを下さい」


「はい、かしこまりました」

 優しい視線、柔らかな物腰……。渡らしくなく、女性に対し気分が高揚している。


 手と手を組み合わせテーブルに置き、草花の中を舞うように飛ぶ紋黄蝶を眺めていた。


「お待たせいたしました」


 少しするとすぐに注文の品がテーブルにやって来た。


「ありがとう」


「どうぞごゆっくり」


「あ、あの」

 咄嗟に渡は彼女を呼び止めていた。なにか言いたいことがあった訳ではない。呼んだ後にしゃべる内容を探した。

「あの、新しくこちらのお店へ?」


 彼女は呼び止められた刹那キョトンとしたが、すぐニッコリと笑い「はい。先週からです」と答えた。


「頑張り屋さんなんだよ~、お客さん、瑠璃ちゃんはね。よろしくお願いしますね」 

 前からいる中年女性が、再び奥から出て来て小さくお辞儀をし、笑顔を見せた。


 夢園湖畔は観光地と言っても派手な場所ではない。穴場のような所で、知る人ぞ知るオアシスなのだ。夢園湖畔がもっと宣伝すれば、この土産物店ももうかるだろうに、と渡は考えながらコーヒーでのどを潤す。

 しかしゴクリと飲んだ後、素敵な場所だからこそ人に教えたくないような独占欲が湧いた。


(瑠璃さん……か。蝶のような名前だな。ルリシジミ、ルリタテハにオオルリシジミなんていたよな。なんにしても、名前通りに美しい女性だ)


 店内にお客は渡一人だ。瑠璃は消毒用アルコールの容器を持ち、シュッシュとテーブルに吹きかけては布巾で丁寧に拭いて行っている。華奢な体を精一杯伸ばし生き生きと働く瑠璃から目が離せない渡。

 アイスコーヒーを飲み終えると、おもむろにウォーターピッチャーを手にした瑠璃がそばに来て「お冷や、お入れいたしましょうか」と言う。


「はい、戴きます」

 のどは乾いてはいなかった。渡は瑠璃とコミュニケーション出来たら良いなと淡い期待を持ったのだ。


「じゃあ、瑠璃ちゃん、あたし、今日はもう帰るけど大丈夫?」


「はい、ママさん」


 どうやら中年女性……ママさんは退店するらしい。瑠璃と二人切り。瑠璃と話がしたいと渡は考えた。


「アイスミルクティーをお願いします、瑠璃さん」

 顔から火が出る思いなんぞこのかた、経験したことがなかった渡がこういうことかと思い知った瞬間だった。瑠璃の名を呼んでみるととても照れた。


「あ……」

 瑠璃は瑠璃で名を呼ばれたことにはにかんでいる様子だ。

「かしこまりました」


 アイスコーヒーの時より少し時間が掛かった。ママさんがいないからだろうか。


「お待たせいたしました」

 控えめな薄桃色のネイルがチャーミングである瑠璃がコースターとグラス、そしてミルクピッチャーとガムシロップをそっとテーブルに置いた。

 所作に雅を感じ、渡は黙っていられなくなった。


「あの、オレは、いや、僕は細里渡と言います」


 クスッ。

 決して嫌な笑いではなかった、瑠璃は嬉しそうに笑んだ。

「『オレ』で良いじゃないですか」と言う。


「あ、アハハ。はい。オレは夢園湖畔が大好きです。まだ数回しか来ていませんが虜になっています。白鳥がいるでしょう」と言った時、渡には目の前の愛らしい瑠璃が後回しになるほど胸がヒリヒリとした。そう、雄が死んでしまったことを思ったのだ。


「白鳥、いますね」

 穏やかな微笑みを湛え、耳を傾ける瑠璃。


「オレが初め来た時は1組のつがいの巣が遊歩道近くにあったんです」


 真面目な表情で聴き入る瑠璃。

「はい」


「でも、ママさんに訊くと、雄が亡くなってしまったそうで、可哀想でたまらない」  

 下を向く渡。


「お優しいのですね、渡さん」


「いえ。オレはドライな人間ですよ。でも、ここへ来て20年振りに泣きました。死んだと知って、白鳥の家族のことを思いました。悲しくなった」


 瑠璃は話を遮らぬよう黙って聴いている。


「それと、ママさんから雄白鳥が亡くなったことを聞かされた次の週、来てやれませんでした。雌白鳥に約束していたのに『必ず来るからな』と」


 瑠璃の声がしない。

 そこまで話し、やっと顔を上げた渡。


 瑠璃はハンカチで両眼を覆っていた。涙を拭いていた。少しし口を開いた。

「きっと、きっと赤ちゃんも元気に孵りますよ。雌白鳥も大丈夫です」


 そこへ家族連れのお客がお土産コーナーへやって来た。この店はお土産を売るのと飲食の提供を同時進行でやる店舗だ。


「失礼します、渡さん」


「はい、すみません、長々とオレが」


「いえ」

 赤くなった目のまま笑顔を作り、エプロン姿の瑠璃が白鳥の形をしたおもちゃやお菓子などを売るコーナーへと急いだ。


 実のところそんなにのどが渇いていない渡は、ゆっくりとアイスミルクティーを味わった。残しては悪いを思い、飲み切るためにいつもは入れないガムシロップを入れ、味を変化させた。

 そうすると意外にも美味しくて、渡は何気なく土産物売り場に目をやった。舌に残る甘味(あまみ)と瑠璃の白い肌がイメージの中で重なった。


(なにを考えてるんだ、オレは。初めて会ったばかりの女性に、こんなに……)

 自分が肉に飢えたカラスになった心地がした。


 家族連れのお客が引いた時を見計らい渡はおあいそをお願いした。


「はい、ありがとうございます。1000円ちょうどです」とレジに立った瑠璃。


 渡は財布を取り出し1000円札を1枚瑠璃に渡した。

 両手で丁寧に受け取る指が程良く細い。


「また来ます。ごちそうさまでした」


「はい。ありがとうございました」

 清々しい笑顔に渡は見送られた。



 喪失した思いに支配されていた渡の胸に、一輪の花が咲いた気がした。渡は雄白鳥の死に打ちのめされている。でも瑠璃の温みが鼓動を嬉しく速める。


 ――――次の休みも渡が向かうは夢園湖畔。


 渡は、先週白い羽毛が少しバサバサし弱って見えた白鳥のことを気にしている。そして、その心配事と共に瑠璃に逢える喜びも明確に持っている。


 湖に到着した。


 向かうは白鳥の巣だ。

 ところが、巣には数個の卵だけ。親鳥の姿が見えない。遥か遠くの湖面には20羽くらいの白鳥たちがそれぞれに泳いでいる。


 まさか、雌の白鳥も亡くなってしまったのだろうか。この卵の中の雛たちはどうなる。猛禽類に浚われてしまうのか。

 渡は焦るような心地に襲われ、走って土産物売り場へ駈けて行った。


「ママさん!」と店に飛び込んだ。

 彼女なら、雄が亡くなった時のように事情を教えてくれるのではないかと渡は考えたのだ。


 でも彼女はいない。すぐに「いらっしゃいませ」と可愛い声がし、暖簾から美女が顔を覗かせ出て来た。瑠璃に他ならない。


「こんにちは、瑠璃さん。あの、白鳥が巣からいなくなっています。卵だけが残されている」


 瑠璃の表情が曇った。

「はい。公園の見回りの人から聞きました。母鳥がいなくなったことを……。自分が生きるためだそうです」


「というと?」

 訊き返す渡。


「はい。白鳥は父鳥がいてこそ、毛繕いや食事の時間を取れるのだそうです」


「あっ……」

 渡は香と見たつがいの『ハート型』を瞬時に思い出した。

 胸と胸をくっつけ顔を寄せ合っていた。そして抱卵を交代したのだった。


「そういうことですか。生きるために雛を諦めたのですね」


「ええ、そうでしょうね。本当に可哀想」


(沈んだ表情さえ美しい)


 渡は残酷で自分は不謹慎だと思った。気の毒な白鳥家族の話をしているのに、瑠璃の俯いた顔に魅了されたのだ。


 渡はさっきいた白鳥の巣に戻ることが出来ない。万が一目の前で猛禽類が卵を咥えようものなら、突こうものなら、なにもできない自分は絶望に襲われる。


「瑠璃さん、今日は帰ります」


 今となっては白鳥の優しさを拠り所にしていた渡。くだらない毎日に燈を灯してくれたあの白鳥の巣。どうして良いかわからなくなり、そう告げた。


「嫌です」

 瑠璃が突然そんなことを口走った。


「なぜですか?」


「あたしは……」と瑠璃が言いかけた時、若いカップルが手を繋ぎ土産物を買いに来た。

「ちょっと待っていて下さらない、渡さん」


「わかりました」

 魅力的な瑠璃の思惑が知りたい渡。なにゆえ自分を引き留めたのか。


「ありがとうございます」

 丁寧にお辞儀をし、お客を見送った瑠璃が渡の所へ戻って来た。


「あたしは……渡さんが好きです」


 あまりにも唐突でいささか面食らった。

 しかし自分にも気持ちのある渡。


「オレも同じ気持ちです。オレも瑠璃さんを初めて見た時、魅かれていました」


 頬を染める瑠璃は恋が成就したというのにどこか悲しげだ。


「今日はママさんがいないの。あたしの我儘を聴いて下さるなら、今夜一緒に過ごして下さい」


「夜までお店にいれば良いのかい?」


「いいえ。ホテルに連れて行って」


 大胆な発言にビックリする渡。しかし、瑠璃の物言いはセリフに相反しなんて品のあることだろう。


 渡は答えた。「うん、わかったよ」



 ――――その日、お客はちらほらとやって来た。1人で一生懸命働く瑠璃。


「大きなエプロンはありますか?」

 渡はせわしなく頑張る瑠璃の所へ行き尋ねた。


「あ、はい。ママさんのエプロンは大きいですが」


 渡はすぐに見つけエプロンを身に着けた。そうして食堂の料理や飲み物をお客に運んだ。


「ありがとう、渡さん」


 お客がいない時は、店の奥で二人は他愛のない話をした。天気予報の話、ここに住まう蝶の話など。込み入った内容ではない。なぜなら瑠璃は自分のことをほとんど話さないからだ。それで渡は踏み込むようなことはよしておいた。

 その代わり、自分が普段工場勤務をしていることや東京に住んでいることなどを話した。

 どんな話でも嬉しそうに聴く瑠璃からは純粋さが滲み出ていた。



 夕方5時だ。店を閉める時刻。


「渡さんが手伝って下さったから、あたし、凄く助かりました。ありがとう」


「どういたしまして。瑠璃さん、行こうか」


「はい」


 瑠璃が土産物店の鍵を閉め、シャッターを下ろそうとした時、すかさず「オレがするよ」と渡がちょっとした力仕事を手伝った。


「本当にありがとう、渡さん」

 そう言った直後瑠璃は渡の左手をそっと握った。渡は強く握り返した。

 駐車場へ向かう間、二人の掌はどんどん熱と湿り気を帯びて行く。


 瑠璃の手は小さく儚げで、あまり強く握ってはいけない気がした。


「瑠璃さんのお家の近くの場所が良いね」

 ラブホテルを決めるにあたり、渡は瑠璃を気遣った。もちろん瑠璃の安全のため送り届けてやる気だ。


「どこだって大丈夫です。渡さんと一緒なら」

 助手席の瑠璃が澄んだ、それでいて色香を持つ声で告げた。


「そうなんだね。わかったよ、瑠璃さん」


 渡は男性として待ちきれない気分になり、東京都に入ってすぐのホテルへ車を駐車した。


 車を降りた後、思い切って瑠璃の肩を抱いて歩いた。痩せた肩だ。しかしバストや足が肉感的で、瑠璃は匂い立つような色気がある。

 一瞬瞳を閉じ、渡にもたれるようにする瑠璃。恍惚の表情だ。

 渡は瑠璃をめまいがするほど美しいと感じた。

 これが小説であるなら、こう表現したいと彼は思った。讃美歌が聴こえるような神聖のエロティシズム。


 ――――二人は結ばれた。


「嬉しい」


 ピロ―トーク。渡の腕の中で瑠璃が震える声で言う。

 抱き締めて、抱き締めて、抱き締めても足りないから渡は震える唇を唇で塞いだ。


 渡は幸せに包まれている。


 男女の仲として香しか知らなかった。なにせ高校生の時から香と交際して来たのだ。比べるものではないが、渡は世界が裏返ったような感覚がした。


(これまでオレが経験して来たこと、見て来たもの、聴いて来たものはいったいなんだったんだ?)


 決してこの女性を手離したくはないし、辺りにやっと色が付いた感覚。


「愛しています、渡」


「オレも、愛してる。瑠璃」


 ――――存分に二人は愛を確認し合いホテルを跡にした。


「瑠璃、家まで送るね、こんな時間だし」と渡。


「ええ。お願いします、渡」


 瑠璃は都心に住んでいた。渡は東京郊外に住んでいる。


「御免なさい、渡、明日お仕事なのでしょう。マンションまで送ってもらって」


「気にすることないさ。今度は食事をしようよ、瑠璃。美味しいお店に連れて行ってあげるよ」


「うん」


 二人は携帯電話の連絡先を交換し合ったのだ。



 ――――「班長、おはようございます」


「お、細里君、おはよう。なにか良いことあったの? 嬉しそうだね」


「いえ、特になにもないですよ」

 しかし顔が満ち足りている渡だ。


「今日もさ、父の日に向けた特別商品がいっぱい流れて来るからよろしくね」


「はい、班長」


 黙々と仕事をこなす渡。それはこれまでと変わらない。しかし自分を取り巻く世界がこれまでより鮮やかに見えるのはなぜか。朝起きた時の窓辺の雀の囀りにすら情が湧くのはなぜか。そんなことはこれまでなかった。

 ラインの機械音すらメロディーのようだ。


(オレは香に惚れていなかったのか? これは初恋なのか)


 渡はそんなことを考え付きもした。


 特別商品はハートの形と星の形をしたクッキーだ。それらを、心を込め箱詰めする渡。


(父の日か。オレにもいつかは子どもが出来るのかな。瑠璃の子が欲しい)


 ――――退社時刻だ。


「お疲れっす」


「あいよ、お疲れさん。ほんと今日の細里君はいい顔してるね。今度飲みに行った時にでもまた事情を教えてよ!」

 高らかに笑う班長。


「なにもないですよ」

 まんざらでもない渡だ。


 早く帰宅し瑠璃に電話を掛けたい。今日は瑠璃の仕事休みの日だ。


 ――――「もしもし、瑠璃」


『渡、お疲れ様です』


「うん、ありがとう。瑠璃、連休だね。オレ、有休を取ったんだ。明日食事に行かないか? ごちそうさせておくれ」


『ウフフ。嬉しい! お食事に連れて行って』


「ああ。じゃあ電話の後に予約をしようと思うよ。おしゃれなピザ屋なんだけどイタリア料理がそろっているよ。ピザは食べられる?」


 瑠璃は即答した。『うん、大好きっ』


「良かった」


 その後少し沈黙があった。


『今日、ずっと想っていたわ』と瑠璃が溜め息のような声を出した。


「ン、なんだい、瑠璃」


『はい……。渡とのゆうべのことばかり考えていたの』


 電話の向こうで頬を桜色に染めている瑠璃が渡にはすぐ浮かんだ。


「好きでたまらないんだ、瑠璃」


『あたしもです』


「瑠璃、明日食事のあとうちに来ないか。もちろん帰りは送るよ」


『うん、そうします』



 お昼にマンションまで瑠璃を迎えに行った。

 瑠璃は桃色の半袖カットソーを着、フェミニンな黒いフレアスカートを纏っている。今日はグレーのハイヒールだ。いつも結い上げている長い髪を下ろしている。緑の黒髪は輝き、光に誘われ思わず手櫛を通す渡。

 瑠璃は小さく笑った。


 渡はダークグリーンのポロシャツにデニムパンツだ。お気に入りの紺のスニーカーを履いている。


 二人の外食デートはまるで十代の恋人同士のように、見つめ合っては笑い合った。口にボリューミーなピザを含んでいる時も、オレンジジュースのストローに口づける時も。

 恐らく二人のそばには華やかな笑いを創り上げる天使がいて、悪戯していたのだろう。


 ――――食事の後、渡は瑠璃を自宅に招いた。


 渡と瑠璃は仲良くお風呂に入る。

 こういうことを香と一度もしたことがなかった渡。とても楽しい。次第にセクシーな波が渡と瑠璃に押し寄せ、深く愛し合った。


 茜色の夕暮れがやって来た。

 二人はもっと燃えていて、ベッドでおしゃべりをし、触れ合っている。


「今週も湖に来られる? 渡」


「もちろんさ、瑠璃。明後日だよ」


 渡にしがみ付く瑠璃。


「どうしたの、瑠璃」

 少し顔を離し、瑠璃の瞳の形を確かめようとする渡。


「ううん。急に淋しくなるの、あたし。なぜかはわからない」


「そうか」

 それ以上は言わない。なにも言えない。


 自分のことを話さない瑠璃に対して、無理に根掘り葉掘り訊いては可哀想な気がする渡。


「なにも訊こうとしないのね、渡。あたしのこと。あたしのことを知りたくないの? あたしは自分のこと、なんにも言ってない」


 少し渡は困った。瑠璃を大事に想っていることを誤解がないように伝えたい。そう思えば思うほど口籠る。


「あたしは、冴木瑠璃(さえきるり)。25才です。それだけでも知って欲しかった。本当はもっと知って欲しい。でも旨く言えないの! わ――――!」


 こんなに取り乱した瑠璃を渡は初めて見た。普段の瑠璃からは想像もつかない乱れようだ。ダブルベッドに跪き、2つの拳をマットに叩き付けている。


「瑠璃、瑠璃! やめるんだっ、手が痛いだろう。オレの瑠璃!」


 すぐさま大きな力で抱え込まれた瑠璃。渡は、なにか事情があるのだろうと思った。聴いて欲しいのかもしれない。でも聞き出すような、誘導するような話はしたくなかった。

 渡にとっては、それが今瑠璃に対して出来る精一杯の誠意だと感じたから。


 裸で暴れる瑠璃を後ろから抱き締めると、動けなくなった瑠璃は次第に泣きながら力を失って行った。


「わあ――――! わ――――! あ――――」

 声だけがパワーを放ち、止むことがない土砂降りのような涙。


(放っておけない)

「瑠璃、泊まって行かないか」


 もはや声も嗄らし、鈴が転がるようないつもの美声には程遠い彼女の呻き声が必死で「そんなことをしたら、渡に御迷惑をお掛けします」と絞り出す。


「オレにとって一番大切なのは目の前の愛だ。瑠璃、なにも心配しないで」


 瑠璃は力なくコクリと頷いた。


 ――――急遽渡は職場の班長に電話を掛け、緊急事態ゆえ明日の担当をバイトの人に代わって欲しい旨を伝え了承を得た。


 瑠璃もすぐにママさんの携帯電話に電話をし、体の不調を訴え休むことにした。


* 


 ――――翌朝。


 美味しそうな匂いに目覚める渡。


「ん、ん~……」


 トーストの香ばしい香り、コーヒーの芳醇な香り。


「おはよ、渡」


「瑠璃」


「ンフ、借りちゃった。渡のTシャツ、勝手に探して御免なさい」 自分の白いTシャツが、好きな女性にダボッと被さっている。なんともくすぐったい心地。 なによりも、瑠璃の笑顔が見れて心安らぐ。瑠璃が笑ってくれるならそれで良い。


「ううん、そんなの構わないよ。フワ~、よく寝た。凄く良い匂いがするね、瑠璃?」


「はい。朝ごはんも、冷蔵庫を勝手に開けて作っちゃいました」 幼い妖精のように微笑む瑠璃。


「ありがとう! 腹減ったー」


「うん。食べましょう」


 キッチンテーブルには、ハムエッグの載ったトーストとドリップしたホットコーヒー。


「ン! 美味い! このトースト最高だね」 ケチャップとマヨネーズと塩コショウの味付けがなかなか美味だ。


(こんな幸せがずっと続くと良いな)


 きのうの瑠璃の狂乱には驚いた渡だが、ゆっくり彼女を理解して行こうと誓っているのだ。

 もうすぐ梅雨が来る。暑い夏も来る。色づく秋も、凍る冬も、瑠璃がいればそれで良い、それで景色は何百倍も広がりを見せる事を予感する。それでこの世が完成されるという、来たる予知を感ずる。爆発的な感動を体感するには、二人が共にいることで事足りてしまう。渡は瑠璃の虜だ。


「良かった。渡が喜んでくれて、あたし、嬉しい」


 ――――「しなくて良いよ」と言ったが、お皿を洗った後瑠璃が「空気の入れ替え、しましょう」と窓を開け掃除機をかけ始めた。

「ンフフ」と笑ってやめないので、渡は洗濯を始める。


 和やかな一日だ。 でもいつまでもこうしてはいられない。瑠璃は、明日は出勤すると言う。渡は明日はシフト上休みだ。


 夜になり、満月のもと瑠璃をマンションまで送り届けた渡。


「じゃあ、明日夢園湖畔へ行くからね、瑠璃。待っていてね」


「はい。おやすみなさい、渡」


「うん、おやすみ、瑠璃」


 目映い月明かり。


 ――――家に帰って来た渡の頭を『プロポーズ』というスウィートな文字が駆け巡る。


(瑠璃といつも一緒にいたい。毎晩一つのベッドで眠りたい)


 そんなドキドキとする悦楽と共に、拭いきれない感情がある。


 あの興奮状態の瑠璃を思い出し(どうしてやれば真に瑠璃を守ってやれるのだろうか)と思うのだ。


 それを考えると、もっと瑠璃の心の扉が開かれて行くのを待ってやるほうが良いような気もしている。



 ――――翌朝。空はこんにゃくのような色をしている。今にも一雨来そうだ。


 渡は1秒でも長く瑠璃のそばにいたい。朝早くに出発した。

 はやる気持ちを抑え安全運転。


 駐車場に着くと、なぜだかわからぬが……瑠璃に逢う前に白鳥の巣のもとへ行きたくなった。

 卵が勝手に孵ることなどありもしないのに、捨てきれぬ希望から夢を見てザッザと遊歩道を歩いて行く。


 卵はまだあった。少し色がオリーブ色に変色している。たくましく生まれてくれたら良いのに! 渡は祈りを込め、卵を見つめていた。

 渡が卵を見始めて5分もしない内のことだ。2羽のカラスが大きな声でギャーギャーと鳴きながら渡の頭上に飛んで来た。

 そうして彼らはなんと、渡が願いを込めた卵の上に降り立ち、殻を突っつき始めたではないか。

 これが自然の摂理なのか。むごく非情。しかしカラスとて生きている。

 半ばあっけにとられ呆然と目の前で繰り広げられる光景を渡は見つめている。なにかに見せつけられているかのような感覚がする。


 卵は割られ、中から息絶えている灰色の雛の死骸が見られた。内臓が飛び出し、腐敗しているのが渡に判断出来た。カラスは束の間死骸をついばむような行動を見せたが、すぐに飛び去って行った。


 渡はさみしさと苦しさに胸を抉られた。


「このことは瑠璃には言わずにおこう」


 瑠璃以外に話す人間もいない。渡が話すのは、工場の班長と、土産物売り場の中年女性と、最愛の瑠璃だけと言っても過言ではない。

 実家の家族には偏屈者だととっくに愛想をつかされている渡だ。


「いらっしゃい、お客さん。今日もありがとうね」

 ママさんの慈愛に満ちたスマイルに救われる。


「あ、瑠璃さんは今日来ていませんか?」


「ああ、今日は具合が悪いって電話をもらったの。2日続いているのよ。流行り風邪じゃないと良いけどねー」


「ママさん、すみません。また来ます」


 瑠璃の体調が気になり、駐車場で車に乗るとすぐに電話を掛けた。


「もしもし? 瑠璃、大丈夫。今ママさんから聴いたんだよ。オレに言ってくれても良かったんだよ。看病するからさ」


『御免なさい、渡。通勤途中に具合が悪くなり引き返したんです』


「そうだったんだね、今すぐお家へ行っても良いかい?」


『はい。ありがとう、渡』


 ――――電話を切ると胸騒ぎがした。なにかはわからない。雛が死んでしまったことを認識したせいか? 腐った亡骸に衝撃を受けたせいなのか? わからぬがソワソワと足元から落ち着かない感覚がする。


(瑠璃、無事でいてくれ)



 ――――道が空いていて、渡は思っていた以上に早く瑠璃の自宅に到着出来た。瑠璃の部屋の玄関チャイムを鳴らした。


「渡、ありがとう」


 青白い顔をした瑠璃が現れた。


「どうした、瑠璃。病院へは行ったのかい」


「ううん。元々すごく血圧が低くてね、時々こういう状態になっちゃうんだ。上がって下さい、渡」


「うん」


 とても綺麗に片付いている瑠璃の部屋は可愛らしい部屋だ。暖色系のトーンで統一されている。小物類は花柄が多い。


「渡、麦茶を淹れるね。座ってて」


「オレがするよ。冷蔵庫、開けても良い?」


「うん。じゃあお願いします」

 渡は、倒れそうな瑠璃を抱きかかえるようにし、ソファーに座らせてやった。


 瑠璃のスマートな体、今にも消え入りそうで怖い。お茶を淹れるとすぐ瑠璃の隣に腰掛ける渡。幻影なんかじゃないよなと、確かめるように手を握る。


「渡、卵を見たのね。今日……」

 ビクッとする渡。なぜそれを瑠璃が?!


「わかるんだ、あたし」


 渡は黙っている。一つも瑠璃を気味悪いなどとは感じない。瑠璃の話を聴こうと思っただけ。


「白鳥はね、渡……一夫一妻。生涯1羽のパートナーとだけ暮らすのよ。死ぬまで」


 渡は夢園湖畔で死んでしまった可哀想な雄白鳥、そして遺された雌白鳥と孵ることのなかった雛たちを思った。黙ってはいられなくなった。


「そうなんだね、瑠璃……。じゃあ、あの子はとても淋しかっただろうね、遺された雌の白鳥さ」


 ギュッと頼りなくも恐らく力の限り渡の大きな手を握りしめる瑠璃。そしてこう言った。


「ええ、とても淋しいことよ。あたし、とても淋しかったわ。夫に先立たれ」


「え……。瑠璃……そうだったんだね。旦那さんと死に別れたのか。なんて悲しいことだろう。オレなんかにはわかりっこない辛さだ」


「あたし、渡のことずっと見てた」


「え、どういうこと?」


「『来週必ず来るからね』と湖で声を掛けてくれたでしょう」


 渡は愕然とした。

 こんなことがあるのか。まさか。これは夢の中だろう?


「あたしね、待ちぼうけだったけど良いやと思えたの。あんなに優しくしてもらったことがなかったから。それだけで嬉しかったよ」


 渡は耐え切れずに夢中で瑠璃を抱きしめた。恐怖からではない。

 白鳥の瑠璃が自分にくれた世界。あの温かなつがいの様子で魅せてくれた胎内にいるかのような安心感。輝き。愛情。

 真実の幸福感だ。


「あたしは生きるために卵を捨てたのよ。そうするしかなかったの」

 頬をツーと伝った瑠璃の涙。


「うん、うん」


「あたし湖に帰るのよ。さっきのは、噓。血圧の話。もうあたしが人の姿でいるタイムリミットなの」


「――――そうか。わかった」


 渡には失うものはもうなにもない。後にも先にも。

 ほんの1カ月も経たない時間、全部の輝きを手に入れた。後悔がない。この瞬間に瑠璃がここにいる。


「今夜、湖まで送って下さいますか? 渡」


「うん」



 ――――翌日。 忽然と細里渡が姿を消した。冴木瑠璃もいなくなった。


 そして1年が過ぎた。

 夢園湖畔の遊歩道の白鳥スポットと銘打たれた湖面に、再び白鳥の立派な巣が出来た。

 優しくいたわり合うつがいの白鳥がいる。

 やがて雛は孵り、観光客が前よりも増えた。

 2羽の親である白鳥が雛6羽を挟み1列になり泳いで行くところがなんとも健気で愛らしい。


 二人の愛が結実した。




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