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固有スキル【生成AI】で異世界全自動化 〜魔法陣はAIで組み、国はAIが建て、気づけば俺の仕事がなくなりました〜  作者: 歩人


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第41話: 条約は誠実さです

 通商条約の交渉当日。レンは執務室の机の上に、二枚の羊皮紙を並べていた。


 一枚目は、昨夜AIに生成させた条約草案。


 全二十三条。関税率から紛争解決条項まで、大陸の通商慣習法に完全準拠した隙のない文面。用語の定義は明確で、条文間の矛盾はゼロ。ダリウスが一晩かけて査読し、「瑕疵が見当たりません」と言い切った代物だ。


 二枚目は——レンが自分で書いた草案だった。


「……何やってんだ、俺」


 自分でも呆れた。AIが完璧なものを出したのに、わざわざ手書きで別バージョンを作る意味がわからない。しかも字が汚い。前世から悪筆で、異世界に来ても治らなかった。


 だが——憲法の時のことが、頭に残っていた。


 完璧すぎて議論の余地がない。ダリウスのあの言葉。グレンの「手触りがあるか」。エルナの「覚えられない」。


 条約は憲法ほど長くない。だが、本質は同じだ。相手と交わす約束だ。約束は——完璧な文面で結ぶものか? それとも、不器用でも自分の言葉で結ぶものか?


 イグニスが肩口で小さく燃えた。


「術者。また悩んでおるのか」


「悩んでない。考えてる」


「同じだ」


「違う」


「で、どちらを出すつもりだ」


 レンは二枚の羊皮紙を見比べた。


「……両方」


「欲張りだな」


「保険だよ」




 会議室は、前回マルクが経済報告を行った同じ部屋だった。冒険者ギルドの二階。仮設の長テーブルに、今度は両国の紋章旗が立てられている。アルゴリズ側は意味不明な抽象模様の旗。ハンデルス側は天秤と麦穂をあしらった銀地の旗。


 ペトラ・ヴァイスは、すでに席についていた。


 紺色の商務服に銀のブローチ。銀縁の眼鏡。きつく結い上げた黒髪に一本の乱れもない。書類鞄から取り出した書類が、几帳面に並んでいる。


 彼女の前の机には、昨日までの品質検査報告書が積まれていた。ダンジョン素材の鑑定書、品質管理規定の草稿——ダリウスが徹夜で起草した品質保証制度の原案。ペトラの赤ペンが、そこかしこに修正点を書き込んでいる。


 隣にマルクが座った。商人の仮面を完璧に被って——だが、ペトラと並ぶその姿には、どこか居心地の悪さが滲んでいた。


「では、始めましょう」


 ペトラの声は低く、滑らかだった。


「昨日までの品質検査の結果をご報告します。ダンジョン素材——魔石の純度、合金原石の等級、いずれも大陸市場の基準を上回っています。品質そのものに問題はございません」


 ダリウスが息を吐いた。品質管理規定を徹夜で書いた甲斐があったらしい。


「ただし」


 ペトラの眼鏡が光を反射した。


「品質保証の制度がまだ脆弱です。ダリウス宰相が起草された規定は——骨格として評価できますが、検査体制の人員、頻度、記録の保管方法について補強が必要です。私の方で修正案を三点、提示しました」


「拝見しております」ダリウスが頷いた。「三点とも、妥当な指摘です。即日対応いたします」


 ペトラの口元が、ほんのわずかに緩んだ。


「即日。——素晴らしい対応速度です。ダリウス宰相」


 マルクの計算帳がサラサラと鳴った。「品質保証制度の整備費用、概算で十五金マナ。人件費込みで月あたり三金マナの維持費。——投資対効果は十分です」


 ペトラがマルクを見た。


「相変わらず計算が速いですね、マルク」


「商人の基本ですよ、ペトラさん」


 マルクの口元に笑みがあった。目にはなかった。


 ダリウスだけが、二人の間の空気に気づいている。旧知であること。だが、ただの旧知ではないこと。マルクがハンデルスの名を聞いた時に指が白くなったこと——その全てが、この交渉の底流に流れている。


 だがダリウスは何も言わない。宰相として、空気を読むのは仕事の一部だ。読んだ上で、黙るのも。




 品質検査の報告が終わり、交渉は本題に移った。


「通商条約の草案をご用意いただけましたか」


 ペトラの視線がレンに向いた。


「ああ。二つ、用意した」


 レンは二枚の羊皮紙をテーブルに置いた。


 マルクの眉がわずかに動いた。ダリウスは何も言わなかったが——レンが二つ用意することは事前に聞いていなかったはずだ。


「まず、一つ目」


 レンはAI生成の条約草案を広げた。


 ペトラが手に取った。眼鏡の位置を直し、一条目から読み始める。


 レンはペトラの目を観察した。条文を追う瞳の動きは速い。三十年の交渉経験がある外交官だ。一条読むごとに、頭の中で分析が走っているのが表情でわかる。


 二分ほどで、ペトラは全二十三条を読み終えた。


「……立派です」


 声に感情がなかった。


「大陸通商法の基本原則に忠実で、関税率の設定も合理的。紛争解決条項は仲裁裁定を基本に置いており、両国の主権を尊重する構成になっています。法学的に——瑕疵はございません」


「ありがとう——」


「ですが」


 ペトラが羊皮紙をテーブルに戻した。


「この条約は、誰が書いたのですか」


 レンは一瞬、言葉に詰まった。


「AIです。俺のスキルで生成した」


「ええ。——わかります。完璧だから」


 ペトラの声に、かすかな硬さがあった。完璧という言葉を褒め言葉として使っていなかった。


「完璧な条約を、私は何百と見てきました。王都の法学者が一ヶ月かけて書いた条約。大国の官僚団が練り上げた条約。——どれも隙がなく、論理的で、反論の余地がない」


 ペトラが眼鏡を外した。


「そしてその大半が、三年以内に破綻しています」


 マルクの計算帳のペンが止まった。ダリウスが背筋を伸ばした。


「なぜか。完璧すぎるからです。条文が完璧であればあるほど、当事者は条文の隙間を探し始める。解釈の余地がなければ、抜け穴を掘る。そして——完璧な条文には、信頼がありません。信頼は、不完全さの中にこそ宿るのです」


 レンは——息を止めた。


 ダリウスの言葉と、同じだった。憲法の時と。「完璧すぎて議論の余地がない」。


 完璧さは——信頼の代わりにはならない。


「二つ目があると、おっしゃいましたね」


 ペトラの目が、もう一枚の羊皮紙を見ていた。


 レンは手書きの草案を差し出した。


「……字が汚いのは勘弁してくれ」


「条約の査読で字の綺麗さを問うことはございません」


 ペトラが手に取った。


 レンの手書き草案は——AI版の半分以下の長さだった。全十二条。関税率は「両国の協議により定期的に見直す」と曖昧に書かれている。紛争解決条項には「まずは当事者間の直接対話を優先し」という、法学的にはゆるすぎる文言が入っている。


 ダリウスなら「これは法的に脆弱です」と眉をひそめるだろう。


 ペトラは——時間をかけて読んだ。


 AI草案の倍の時間をかけて、一条一条を丁寧に読み進めた。途中で二度、読み返した箇所があった。


 そして——


「ここです」


 ペトラが指で示したのは、第七条だった。


 レンが自分で書いた条文。


 「両国の通商に関わる紛争が生じた際は、まず双方の代表が席を同じくし、互いの立場と事情を直接に述べ合うことを第一の手続きとする。文書のみによる解決を避け、人の言葉による対話を優先する」


「この条文を——なぜ入れたのですか」


 レンは頭を掻いた。


「前世の……いや、前の仕事の経験で。メールだけで揉めると、大抵こじれるんだよ。顔を合わせて話せば、三分で解決することがある。条約だって同じだと思った」


 ペトラが——笑った。


 笑ったと言っても、口元がわずかに弧を描いただけだった。だが、あの「鉄の通商印」と呼ばれる女性が見せた初めての柔らかさだった。


「レンハルト殿」


「何だ」


「私は三十年、通商条約の交渉をしてきました。二百を超える条約に署名しました。その経験から申し上げます」


 ペトラがAI草案をテーブルの左に、レンの手書き草案を右に置いた。


「こちらの方がいい」


 手が示したのは——レンの手書き草案だった。


「条約は完璧さではなく、誠実さです。完璧な条文は裁判官が読むもの。誠実な条文は、人が信じるものです」


 レンは——何も言えなかった。


 マルクの計算帳が、テーブルの下で震えた。ペンを持つ手が、わずかに力を込めていた。


 ダリウスが静かに口を開いた。


「では——レンハルト殿の第二草案をベースに、詳細条項を詰めましょう。品質保証制度の条文はAI草案から移植し、骨格はレンハルト殿のものを採用する。ペトラ殿、この方針でよろしいですか」


「異存ございません。むしろ——そうしていただけると助かります。完璧な条約を修正するより、誠実な条約を補強する方が、はるかに良いものになりますから」




 詳細条項の交渉は、五時間に及んだ。


 ダリウスとペトラが条文を一つずつ詰めていく。二人の間に交わされる言葉は——レンには半分も理解できなかった。法律用語と通商慣習の専門的なやり取りが、淀みなく続く。


「第四条の最恵国待遇条項ですが、現時点でアルゴリズが他国と通商条約を結んでいない以上、将来条項として置くのが妥当かと」


「同意します。ただし、発動条件を明記してください。曖昧なまま置くと——」


「五年以内に第三国との条約が締結された場合に自動適用。それでよろしいですか」


「結構です」


 ダリウスのペンが走る。ペトラの赤ペンが修正を入れる。二人の書類仕事の速度は——常人の三倍だった。


 レンは隣で見ているだけだった。前世のスタートアップでは契約書の細部は弁護士に任せていた。ここでも同じだ。信頼できる実務者がいる。


 マルクが横からコスト計算を挟む。


「第九条の関税減免措置ですが——ダンジョン素材に限定すれば、年間の減免額は概算で百二十金マナ。財政負担は月あたり十金マナ。許容範囲です」


「計算が早すぎます、マルク」ペトラが眼鏡越しにマルクを見た。


「褒めていただけたのなら光栄ですが」


「褒めていません。確認しています。——合っていますか」


「合っていますよ。私の計算は、いつでも」


 マルクの目が、ほんの一瞬だけ——ペトラの銀のブローチに向けられた。通商評議会の紋章。マルクがかつて所属し、追い出された組織の紋章だ。


 だが次の瞬間には、計算帳に目を戻している。


 レンはそれを見た。見てしまった。だが——何も言わなかった。




 条約の全条文が確定したのは、日が傾き始めた頃だった。


 秋の斜光が窓から差し込み、羊皮紙の上に黄金の影を落としている。


 テーブルの上に、最終版の条約書が置かれていた。レンの手書き草案を骨格に、ダリウスとペトラが補強し、マルクのコスト計算を反映した——四人の手が入った条約。


「では」


 ペトラが革の書類鞄から、小さな箱を取り出した。


 箱を開くと——銀の印璽いんじが現れた。天秤と麦穂の紋章が精緻に刻まれている。ハンデルス通商評議会の通商印。


 ペトラが印璽を手に取った。


「この通商印は、私の判断で押します。評議会の承認は事後で構いません。それだけの権限を、私は預かっています」


 その言葉の重みが——部屋の空気を変えた。


 マルクの計算帳が閉じられた。ダリウスのペンが止まった。


「レンハルト殿。あなたの署名を」


 レンは羊皮紙の末尾に、自分の名前を書いた。相変わらず字が汚い。前世から治らない悪筆。だが——これは自分の手で書いた名前だ。


 ペトラが条約書の横に、通商印を押した。


 銀の印が羊皮紙に沈み、天秤と麦穂の紋章が刻まれる。


 乾いた音がした。それだけの——静かな瞬間だった。


 だがその一押しが意味するものは、レンにもわかっていた。


 アルゴリズの大陸経済への正式参入。辺境の新興都市国家が、大陸最大の交易都市に認められた瞬間。


 ダリウスが——声を震わせた。


「これで我が国は……国として認められたのですね」


「少なくとも、商人の世界では」


 ペトラの声は淡々としていた。だが——眼鏡の位置を直す指が、ほんの少し遅かった。彼女もまた、この瞬間の重みを感じている。


 マルクが計算帳を開いた。新しいページに——何か数字を書き込もうとして、止まった。


「……この条約の価値は、何ゴールドですかね」


 呟きは、誰に向けたものでもなかった。


 ペトラが答えた。


「条約に値段はつけません。あるのは信頼だけです」


 マルクの口元に、苦い笑みが浮かんだ。


「信頼、ですか。——私が最も苦手なものだ」


「知っています」


 ペトラの声が——ほんの少しだけ、柔らかかった。




 交渉が終わり、ペトラが退室した後。


 マルクが最後まで残った。計算帳を閉じて、窓の外を見ている。秋の夕日がアルゴリズの街並みを赤く染めていた。


「マルクさん」


「何でしょう」


「マルクさんの計算は——今回も合ってましたね」


「当然です。私の計算は間違いません」


「一つだけ間違ってたことがある」


 マルクの灰色の目が、レンを見た。


「条約の価値を計算しようとしたこと。ペトラさんの言う通り——値段はつかない」


「……商人に値段がつかないものを持ち出さないでいただきたい」


 マルクが立ち上がった。計算帳を胸に抱えて、ドアに向かう。


 背中に、レンが声をかけた。


「マルクさん。ペトラさんとは——昔からの知り合いなんですか」


 マルクの足が止まった。


「ええ。若い頃の——同期ですよ」


「それだけですか?」


「それだけです。——利益計算上、それ以上の関係を結ぶ合理性がありませんでしたので」


 マルクの声は平坦だった。だが——ドアを閉める手が、少しだけ乱暴だった。


 レンは一人で、通商印が押された条約書を見つめた。


 銀の紋章が、夕日を受けて光っている。


「信用は投資、か」


 マルクの言葉。ペトラの言葉。二人の間にある——計算では測れない何か。


 それは条約の条文には書かれていない。だが——条約を本物にしているのは、たぶんそういうものだ。




 翌朝。


 レンが執務室に向かう途中、門の前で見覚えのある荷馬車を見つけた。


 小さな荷馬車に、書籍と研究道具がぎっしり積まれている。魔法学院の紋章が刻まれた木箱が三つ。丸眼鏡をかけた金髪の少女が、荷下ろしの指示を出していた。


「メイラ?」


 メイラが振り返った。少し息を切らしている。荷物の量から見て、朝一番から作業していたのだろう。


「あ——レンさん。おはようございます」


「この荷物は?」


「引っ越しの荷物です」


 レンは目を瞬いた。


「引っ越し?」


「はい。王都の魔法学院から——正式に、アルゴリズに移住します」


 メイラが姿勢を正した。学者がプレゼンテーションの冒頭で見せる、あの改まった表情。


「レンさんの生成魔法の研究は、王都では継続が困難です。データが全てここにある以上、研究者がデータのそばにいるのが合理的です。学院には休学届を提出しました」


「休学って——メイラ、学院の主席だろ。それを捨てるのか」


「捨てません。休学です。——研究を継続するための、最適な環境選択です」


 メイラの声は冷静だった。研究者としての判断。データに基づく決定。——そのはずだった。


 だが耳が、少し赤い。


「それに」


 メイラが小声で付け加えた。


「通商条約が締結されたと聞きました。アルゴリズが大陸に認められた国になるなら——ここに研究拠点を置く学術的価値は、さらに高まります」


「学術的価値」


「はい。学術的な理由です。完全に」


「……」


 レンは頭を掻いた。メイラの「学術的」は、いつも含みがある。だが鈍感なレンには、その含みの中身までは読めない。


 カイルが鍛錬場から走ってきた。朝から汗だくだ。


「おう、メイラ! 引っ越しか! 手伝うぞ!」


「あ、カイルくん。この箱、重いので——」


 カイルが木箱を片手で持ち上げた。メイラが「すごい」と小さく呟いた。


「で、どこに住むんだ?」


「ダリウスさんが、研究棟の隣に部屋を手配してくれました。書類が昨日のうちに整っていて——」


「仕事が早い男だな、ダリウスさんは」


 レンが笑った。ダリウスが「フィオ嬢の次に書類を守る人材が増える」と密かに喜んでいる顔が目に浮かぶ。


 メイラが荷物を運びながら、ふと足を止めた。


「レンさん」


「ん?」


「通商条約——レンさんの手書きの草案が採用されたって、ダリウスさんから聞きました」


「ああ。AIの方が完璧だったんだけど、ペトラさんが手書きの方を選んだ」


「そうですか」


 メイラが微笑んだ。研究者の目ではなく——友人の目だった。


「レンさんらしいです。不器用で、不完全で——だから信じてもらえる」


「褒めてるのか?」


「はい。最大級の褒め言葉のつもりです」


 メイラが荷馬車に戻った。書籍の箱を抱えて、アルゴリズの石畳を歩いていく。秋の朝日が、金髪を透かしていた。


 この街に、新しい住人が一人増えた。




 昼前。


 レンがパン屋の前を通りかかると、エルナが軒先で腕を組んでいた。


「あんた、昨日遅かったけど。何してたの」


「通商条約の交渉。五時間かかった」


「五時間? あんたが五時間も会議してたの?」


「俺は半分くらい見てただけだ。ダリウスさんとペトラさんが全部やった」


「じゃあ、あんたは何したの」


 レンは少し考えた。


「手書きの草案を出した。汚い字で」


「字が汚いのは知ってる。で?」


「採用された。AIの完璧な方じゃなくて、俺の不格好な方が」


 エルナが、ほんの少しだけ、目を見開いた。


「……へぇ」


「何だよ」


「別に。——あんたの不格好なとこが認められたんでしょ。良かったじゃない」


「褒めてるのか?」


「褒めてない。事実を言っただけ」


 エルナがパンの包みをレンに押し付けた。


「はい。通商条約締結おめでとうのパン。——あ、普通のパンよ。特別じゃないから」


「ありがとう」


「お礼とかいらないし」


 エルナは店の中に引っ込んだ。


 レンはパンを千切った。温かくて、少し焦げていて、形がいびつで——いつも通りの、エルナのパン。


 完璧じゃない。だから——信じられる。


 ペトラの言葉が蘇った。


 「条約は完璧さではなく、誠実さです」


 パンも——そうなのかもしれない。


 レンは東の空を見た。ハンデルスの方角。二百五十キロ先の自由交易都市。あの街との通商路が——今日から、正式に開かれた。


 アルゴリズの通りを、荷馬車が走っていく。ダンジョン素材を積んだ荷馬車。品質保証の印が押された木箱が、積み上げられている。


 最初の一台だ。


 ハンデルスに向かう、最初の公式な交易品。


 マルクが荷馬車の横に立って、出荷伝票をチェックしていた。計算帳にペンを走らせながら——口元に薄い笑みを浮かべている。いつもの値踏みの笑みだ。


 だが——荷馬車がアルゴリズの東門を出る瞬間。


 マルクのペンが、ほんの一瞬だけ止まった。


 ハンデルスへ向かう荷馬車を見送る目が——計算帳の数字ではなく、二百五十キロ先の何かを見ていた。


 レンは、それ以上見なかった。


 パンを齧りながら、執務室に戻る。今日からやることが山ほどある。通商路の整備。交易品の品質管理。関税事務の立ち上げ。ダリウスの胃薬の在庫確認。


 不完全な国が、不完全なまま——少しずつ、動き始めている。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


第41話「条約は誠実さです」、書いていて最も手が止まったのは、ペトラが二枚の草案を見比べる場面でした。


AIが生成した完璧な条約と、レンが自分で書いた不格好な条約。ペトラが後者を選ぶ理由は——実は現実世界のビジネスでもよく起きることです。完璧なプレゼン資料より、手書きのメモの方が「この人は本気で考えたんだな」と伝わることがある。ChatGPTで契約書を一発生成できる時代に、それでも人間が自分の言葉で書く意味は何か。この物語が問い続けているテーマの、一つの回答がこの話に詰まっていると思います。


マルクとペトラの「目だけが笑っていない」関係は、まだ表面をなぞっただけです。追い出された故郷の代表と再び仕事をする——その複雑な感情は、今後のエピソードで少しずつ掘り下げていきます。


メイラの「学術的な理由です。完全に」は書いていて笑ってしまいました。完全に学術的な理由ではないことは、たぶん読者の皆さまにはバレていると思います。

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