第39話: この友情、何ゴールド相当か
建国から十日が経った朝、レンは執務室で初めての予算報告書と格闘していた。
「この数字、桁が足りなくないか……?」
ダリウスが昨夜のうちに整えた帳簿を開いてみたが、正直に言ってほとんど意味がわからない。前世のスタートアップでもPLは経理に任せきりだった。レンの専門は技術であって、ファイナンスではない。
イグニスが肩口で炎を揺らした。
「また数字と睨めっこか。つまらん」
「つまらなくても国ってのは金で回るんだよ。……たぶん」
「たぶん、で国を回すのか」
「うるさい」
そこへ、ダリウスが書類の束を抱えて入ってきた。目の下のクマがいつもより濃い。
「レンハルト殿。本日十時より、第一回経済諮問会議です」
「経済諮問会議? そんなの予定に入ってたか?」
「入れました。昨夜。——商人ギルド長のマルク殿が、建国に伴う経済報告を行いたいと申し出ております」
「商人ギルド長」
レンは記憶を探った。ヴィントヘルムの商人ギルド。名前は聞いたことがある——辺境の小さな商圏を取り仕切っている、切れ者の商人だと。冒険者ギルドのガルドとは縄張り争いをしているとも。
「どんなやつだ?」
「有能です」ダリウスの声に、珍しく感情がこもった。「——数字が合う相手です」
ダリウスが人を褒めることは滅多にない。それだけで、ただ者ではないとわかった。
会議室は、ギルドの二階を間借りした仮設の部屋だった。建国したばかりのアルゴリズには、まだ専用の庁舎がない。長テーブルに羊皮紙の地図を広げ、椅子を並べただけの簡素な空間。
レンが入室した時、一人の男がすでに席についていた。
中肉中背。四十代。暗い栗色の髪をきっちりと撫でつけ、上質だが派手すぎない商人服を着ている。腰に小さな金秤をぶら下げ、指には紋章入りの指輪。手元には分厚い計算帳が開かれており、ペンが止まることなく数字を刻んでいた。
顔を上げた。
細い灰色の目が、レンを見た。値踏みするような視線だった。品定めをしている——相手の価値を、一秒ごとに計算している目だ。
口元に薄い笑みが浮かんでいた。だが、目だけは笑っていなかった。
「お初にお目にかかります、レンハルト殿。商人ギルド長のマルクです」
声は滑らかだった。耳当たりが良く、警戒心を解かせる調子。だがレンは、前世で何人ものVCと交渉してきた。この手の「丁寧で温かい声」ほど、信用してはいけない。
「マルクさん。聞いてます、商人ギルドの長だと」
「ええ。——この辺境の小さな商圏を預かっております。いえ、つい昨日まで辺境でしたが」
マルクの視線が部屋を一巡した。仮設の会議室。羊皮紙の地図。木の椅子。
「国の執務室が冒険者ギルドの二階というのは、なかなか趣深いですね」
「庁舎は建設中だ。ゴーレムが——」
「ゴーレムが建てる庁舎。概算で八百金マナ。内装を含めると千二百。税収が安定するまで、投資回収に一年半。——まあ、急がなくてもこの部屋で十分でしょう」
速い。
レンがまだ予算の話を切り出す前に、マルクはすでに計算を終えていた。計算帳にペンを走らせながら、笑顔を崩さない。
ダリウスが隣の席に座った。珍しく、胃薬を飲む手が止まっている。数字が合う相手の前では、胃も休まるらしい。
「では、始めましょうか」
マルクが計算帳の新しいページを開いた。
「まず、結論から申し上げます」
マルクのペンが止まった。テーブルの上に、手書きの帳簿が三冊並んでいた。
「都市国家アルゴリズの経済は——赤字です」
「知ってる」
「ええ、ご存知でしょう。ですが、どれだけの赤字か、正確にご存知ですか?」
レンは沈黙した。
「建国から十日。インフラ整備費用に千五百金マナ。ゴーレム維持費に月あたり二百金マナ。行政人件費——まあ、ダリウス殿の給与がほとんどですが——月五十金マナ。防衛費、食糧調達費、周辺三集落への支援金を合算して、月あたりの固定支出が約三百八十金マナ」
マルクの指が計算帳を叩いた。
「対する収入。ダンジョン素材の国内売却益が月百二十金マナ。ゴーレム製品の近隣販売が月五十金マナ。農業収穫——これはベルクハイムの合流分を含めて——月七十金マナ相当。合計、月あたりの収入が約二百四十金マナ」
テーブルの上に数字が並んでいく。マルクのペンは淀みなく、一つ一つの数字に根拠が付いていた。
「月の赤字が百四十金マナ。——現在の国庫残高は、ダンジョン攻略で得た報酬と素材の売却益を含めて、およそ二千金マナ。つまり」
マルクが顔を上げた。灰色の目が、真っ直ぐにレンを見た。
「このままでは十四ヶ月で破産です。レンハルト殿」
ダリウスの胃薬が、テーブルの上で乾いた音を立てた。
「一年強。それが、この国の残り時間です」
レンは腕を組んだ。マルクの数字は——AIに検算させるまでもなく、正確だとわかった。前世の経験が教えている。嘘をつく人間は数字を丸める。マルクの数字には端数がある。端数があるということは、一つ一つ現場で拾った一次データだということだ。
「解決策は?」
「あります。——と言いますか、選択肢は一つしかありません」
マルクが地図を指した。
「販路です」
「アルゴリズには素材がある」
マルクが地図の上に、ダンジョン素材のリストを並べた。
「深淵の迷宮産の魔石。高純度。大陸市場でキロあたり三十金マナの値がつく一級品です。合金素材も同様。鉱山村エルツの鉄鉱石と組み合わせれば、武器・防具の素材としても需要がある」
「だろうな」
「さらに、ゴーレム製品。農具、建材、日用品——品質は安定しています。量産体制も整っている」
マルクのペンが地図の上を滑った。アルゴリズの位置を丸で囲み、その周囲に矢印を描いていく。だが、矢印はすべて行き止まりだった。
「しかし——販路がない」
マルクが帳簿を閉じた。
「素材がいくら一級品でも、買い手がいなければ倉庫の肥やしです。現在アルゴリズの商圏は、周辺三集落と、リンデン街道を通過する少数の商人のみ。月の取引量は微々たるものです」
「ハンデルスの先遣商務官が来たのは知ってる。フリッツという男だ」
「ええ。フリッツ殿の報告書は、私も閲覧しております。——素材の品質には高い評価をいただきました。ですが、評価と取引は別物です」
マルクがペンをテーブルに置いた。
「大陸で本格的な取引を行うには、たった一つの条件が必要です」
「何だ?」
「ハンデルスの通商印です」
マルクの声が、ほんのわずかに変わった。それまでの滑らかな調子に、微かな硬さが混じった。
「ハンデルス——大陸最大の自由交易都市。通商評議会が統治し、あそこの通商印がなければ、まともな国際取引はできません。逆に言えば、通商印さえ取れれば——」
「大陸経済に正式参入できる」
「その通りです。素材の卸売だけで、月の収入は現在の三倍以上になります。赤字は解消どころか、黒字転換が見込める」
レンは地図を見た。アルゴリズから東へ約二百五十キロ。中央平原の交差点に位置する自由交易都市ハンデルス。フリッツが来た道を、今度はこちらから使節を送ることになる。
「通商条約の交渉が必要だな」
「はい。首席使節ペトラ・ヴァイス——『鉄の通商印』の異名を持つ大陸随一の通商外交官です。彼女を動かすには、素材の品質だけでは足りない。品質保証の制度、安定供給の体制、そして——信用が要ります」
マルクが計算帳を開き直した。新しい数字を書き始める。
「通商条約の締結まで、最短でも二ヶ月。その間の費用として——」
「待ってくれ」
レンが手を挙げた。
「マルクさん。何で、こんなに詳しいんですか?」
マルクのペンが止まった。
「辺境の商人ギルド長が、ハンデルスの首席使節の名前を知っている。通商印の取得手順を知っている。大陸市場の相場を即座に計算できる。——辺境で手に入る情報量じゃない」
マルクの口元の笑みが、ほんの一瞬だけ消えた。
灰色の目が、レンを見返した。値踏みの目ではなかった。探っている——レンがどこまで踏み込むかを、測っている目だった。
「商人ギルドのネットワークは広いのですよ、レンハルト殿。情報は私の商売道具です」
嘘ではない。だが、全部でもない。前世の交渉経験が囁いている。この男には——語っていない何かがある。
「それと」
マルクが姿勢を正した。
「ハンデルスは良い街ですよ。商人にとっては」
その一文を口にした瞬間——
マルクの指が止まった。
計算帳を持つ右手の指が、白くなるほど強く握り締められていた。ほんの一瞬だった。次の瞬間には、いつもの薄い笑みが戻っている。ペンが再び動き出し、数字を刻み始める。
レンは見た。見てしまった。
だが——追及しなかった。
前世で学んだことがある。相手が見せたくないものを無理に引き剥がしても、信頼は生まれない。相手が自分から話すまで待つ。それが長期的な関係の基本だ。
ダリウスだけが、レンと同じものを見ていた。マルクの指が白くなった一瞬を。だが宰相もまた、何も言わなかった。
会議は二時間に及んだ。
マルクは建国経済のあらゆる側面を分析した。税制の設計案。通貨の流通量。ゴーレム製品の価格戦略。ダンジョン素材の備蓄と放出のタイミング。周辺三集落との交易条件の最適化。
数字が次から次へと並んでいく。マルクの計算帳はすでに十ページを超えていた。
「——以上が、私からの提案です」
マルクがペンを置いた。
「通商条約の交渉を最優先に。ダンジョン素材の品質保証制度を二週間以内に整備。ハンデルスへの公式な使節派遣を一ヶ月以内に。これが、アルゴリズが破産を回避するための最短ルートです」
レンは、目の前の男を見つめた。
全ての発言に数字がある。感情論がない。理想論がない。損得の計算だけがある。——それだけなら、ただの冷徹な商人だ。
だが。
「マルクさん」
「何でしょう」
「マルクさんの取り分は?」
マルクの口元が、初めて本物の笑みに近いものを浮かべた。
「お気づきですか」
「商人が無報酬で二時間の分析を提供するわけがない。何が欲しいんですか」
「直球ですね。——嫌いではありません」
マルクが計算帳を閉じた。
「通商条約が締結された暁には、商人ギルドをアルゴリズの公式な経済窓口にしていただきたい。大陸との取引の仲介手数料——取引額の三パーセントで結構です」
「三パーセント」
「安いでしょう? ハンデルスの標準仲介料は五パーセントです。私は二ポイント低い。それだけの自信があるということです」
ダリウスが口を開いた。
「マルク殿。三パーセントでも、取引規模が拡大すれば相当な額になります」
「ええ。だからこそ、本気で取り組みます。私の利益とアルゴリズの利益が一致する——これほど健全な関係はないでしょう?」
マルクの灰色の目が、レンを見た。
「信用は投資です、レンハルト殿。あなたに投資する価値があるかどうか——正直に申し上げて、まだ計算中です」
「それは——」
「ですが」
マルクが立ち上がった。計算帳を閉じ、ペンを胸ポケットに差した。
「オッズは悪くない。それだけは申し上げておきましょう」
マルクが退室した後、ダリウスが低い声で言った。
「レンハルト殿」
「何だ」
「マルク殿は——目が笑っていませんでした」
「気づいてたか」
「宰相として、あの程度の観察は最低限の務めです。——それより、ハンデルスの名を出した時」
「ああ」
「何かある。あの方とハンデルスの間に」
レンは窓の外を見た。アルゴリズの街並みが広がっている。ゴーレムが建設中の庁舎。ダンジョン素材を積んだ荷馬車。朝市に向かうエルナの姿が、通りの向こうに小さく見えた。
「追及はしない」
「賢明です」
「……で、マルクの提案はどう思う?」
「数字に矛盾はありません。提案内容も合理的です。——正直に申し上げて、私が三日かけて試算した数字を、あの方は会議中に即座に計算し直しました」
「負けた?」
「経済分析においては。——ただし、行政手続きに落とし込む能力では負けておりません。辞表を出したいとも思いません。……今のところは」
ダリウスの顔に、かすかな対抗心が浮かんでいた。
昼過ぎ。レンが街を歩いていると、パン屋の軒先でエルナに出くわした。
「あんた、朝からどこにいたの。昼のパン、冷めたんだけど」
「悪い。会議が長引いた」
「会議? あんたがスーツ着て会議とか、想像できないんだけど」
「スーツって概念はこの世界にない」
「たとえよ」
エルナが腕を組んだ。
「何の会議?」
「経済の話。商人ギルドの長が来て、国の財務状況を分析してもらった」
「へぇ。で、どうだったの」
「一年ちょっとで破産するらしい」
「……は?」
エルナの顔から血の気が引いた。
「破産って——あんた、国を建てたばっかりでしょ!?」
「だから外国との取引を始めないといけない。ハンデルスっていう大きな交易都市と通商条約を結ぶ」
「通商条約……」
エルナは少し黙った。
「で、その商人ギルドの長って、どんな人?」
「全部を金で測る男。でも——」
レンは言葉を切った。マルクの指が白くなった一瞬を思い出していた。
「計算では割り切れないものも、持ってるっぽい」
「ふうん」
エルナが溜息をついた。
「あんたの周りって、変な人ばっかり増えるよね」
「俺が一番変だからな」
「自覚あるんだ」
エルナがパンの包みをレンに押し付けた。
「食べなさい。破産する前に。——冷めてるけど」
冷めたパンを齧りながら、レンは空を見上げた。
アルゴリズの空は、今日も高く澄んでいた。秋の風が、ゴーレムの建設現場から石の粉を運んでくる。どこかでカイルの声がした。鍛錬中だろう。
この国を守るためには、金が要る。金を稼ぐためには、販路が要る。販路を開くためには、信用が要る。
信用——。
マルクの言葉が頭の中で反響していた。
「信用は投資です」。
前世のVCも同じことを言った。投資する価値があるかどうか。数字で判断する。成長率を見て、市場規模を見て、チームの能力を見て——賭ける。
だがマルクの「投資」は、前世のVCとは少し違った。あの男は、数字だけで動いているのではない。数字だけで動くなら、辺境に留まる理由がない。ハンデルスのような大都市に行けば、もっと大きな商売ができるはずだ。
なのに、ここにいる。
辺境の小さな商圏の、ギルド長として。
——何かがある。あの男がここにいる理由が。
ハンデルスの名前を聞いた時の、あの一瞬の表情。
「まあ、いいか」
レンは冷めたパンの最後のひとかけらを口に入れた。
「信用は——こっちも、まだ計算中だ」
ノエルが水の球体として現れた。
「ご主人様。マルクという方の経歴について、水鏡で少々調べましたが」
「聞いてない」
「……まだ何も申し上げておりませんが」
「聞いてない。——本人から聞く」
ノエルの水面がわずかに波立った。
「左様ですか。——ただ、一つだけ申し上げます」
「何だ」
「あの方は、ハンデルス出身です。そして、現在のハンデルスには——あの方の名前は、残っておりません」
レンは足を止めた。
振り返ると、ノエルはもう消えていた。水の球体が空気に溶けるように消え、あとには秋の乾いた風だけが残った。
ハンデルス出身。だが名前が残っていない。
つまり——追い出されたか、消されたか。
あの一瞬の表情の意味が、少しだけ見えた気がした。
全てを損得で測る男。利益計算が最優先。理想主義者を信じない。——だが、そうなった理由がある。
マルクが「ハンデルスは良い街ですよ」と言った時の声。
あの声は——計算帳のどこにも書かれていない感情だった。
レンは東の空を見た。
二百五十キロ先に、ハンデルスがある。大陸経済の中枢。通商印を握る街。
そこに使節を送る。通商条約を結ぶ。アルゴリズを大陸経済に参入させる。
——その過程で、マルクは何を見ることになるのか。
計算では割り切れないものと、向き合うことになるのか。
秋風が吹いた。
建設中の庁舎の足場がきしんだ。ゴーレムの金槌の音が、リズミカルに響いている。
この国はまだ、何もかもが建設中だ。
経済も。外交も。信頼も。
だが——建設中であることは、破産を意味しない。
「オッズは悪くない」。
マルクの言葉を借りるなら——
この賭けに乗る価値は、ある。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
今回はマルクの初登場回でした。「全てを金で測る男」を書くのは、実はとても楽しい挑戦でした。なぜなら、この物語のテーマである「自動化と人間性」を、AIとはまったく別の角度から突いてくるキャラクターだからです。
AIは効率で全てを最適化する。マルクは損得で全てを計算する。一見似ているようで、決定的に違うのは——マルクには「計算では割り切れない過去」がある、というところです。
「信用は投資です」という台詞は、ある意味ではAIの言葉に似ています。でも「オッズは悪くない」という言い回しには——数字では説明できない「賭け」の感覚が入っている。計算とは別の、人間だけが持つ判断。それを「信じる」とは決して言わず、「賭ける」と表現するのが、マルクらしさだと思っています。
ハンデルスとの通商——次回、あの街から来る使節は、マルクの過去と無関係ではありません。全てを数字で語る男が、数字にできないものと再び向き合う時——物語は少しだけ、経済の話から人間の話に変わります。
次話もお楽しみに。
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