第6話
顔を上げた。
彼女は、内陣の祭壇に腰かけていた。
まるで居間の椅子にでも座るみたいに。
小柄な体。
むき出しの裸足が、石の上でぶらぶらと揺れている。
白い髪が絹のカーテンのように背中を流れ落ちていた。
儀式用のローブ……のはずだった。
だが、あちこちが緩く、金糸の装飾もどこか投げやりで、
胸元は「神聖」を演じるのに疲れたみたいに片肩からずり落ちている。
肌には古い象形文字が淡く揺らめいていた。
手首と足首には、
人形の装身具みたいに繊細な金の輪。
真紅の瞳が、面白そうに俺を見下ろしていた。
俺はナイフを握り締める。
「……誰だ」
彼女は微笑んだ。
ゆっくり。
柔らかく。
そして、危険な笑みで。
「ネフェレット。暁の女神よ」
……だろうな。
「どうりで」
俺は吐き捨てる。
「神様ってのは、いつも手遅れになってから顔を出す」
彼女の笑みは崩れなかった。
祭壇から軽やかに飛び降り、裸足で着地する。
「小さくて必死な声が聞こえたの」
「だから、できるだけ急いで来たわ」
一瞬、笑みが陰る。
「でも……着いた時には、もうみんな死んでた」
「だったら、なんで救わなかった」
「救う?」
彼女はぱちりと瞬いた。
「もう終わってたじゃない」
「なら、殺せ」
彼女は本気で困惑した顔をした。
「殺す? どうして?」
「私たち神は、すべてを等しく愛しているのよ。あの子たちも、今でも私のもの」
声が割れる。
「だったら瘴気を浄化しろ!」
彼女は一拍、考えてから——
小さく、納得したように言った。
「ああ……それで、君はここに来たのね」
俺に近づき、
珍しい生き物でも観察するみたいに覗き込む。
「かわいそうに。もう終わってるわ」
「……何?」
「さっき吸い込んだでしょう」
彼女は指先で俺の胸を軽く叩いた。
「無駄だったの」
「君、死にかけてるわ。ラフェル」
自分の名前を呼ばれた瞬間、
何かを剥ぎ取られた気がした。
膝が崩れ、血を吐く。
床が傾く。
ネフェレットは、ただ見ていた。
心配でも、嘲笑でもない。
――興味。
「すぐには死なないわ」
「人間って、だいたい綺麗には死ねないもの」
「……知ってたんだな」
「それでも、俺にやらせた」
彼女は首を傾げる。
「君が選んだのよ」
「誰も答えなかったからだ!」
沈黙。
神殿は相変わらず、温かく、静かで、空っぽだ。
「ここで、人は祈った」
「誰かを傷つけないよう、自分を鎖で繋いで……」
彼女の表情が、少しだけ和らぐ。
同情ではない。
理解だ。
「ええ。よくあることよ」
胸の奥が歪む。
「……それで、お前は何をした」
彼女は軽く肩をすくめた。
「できることだけ」
「瘴気が広がるのは止めた」
「でも、救ってはいない」
言葉が、灰みたいに落ちた。
俺は足元の石を指差す。
「お前の“教会”は人を焼く」
「浄化だと言ってな」
「それを、放っておいた」
彼女の笑みが、鋭くなる。
「私たち神は、教会とは無関係よ」
「火刑台を作ったのは人間」
「彼らが火をつけるのは、私を愛してるからじゃない」
「支配を失うのが怖いだけ」
俺は鼻で笑う。
「じゃあ何だ」
「今は高みから眺めて楽しんでるだけか?」
「奴隷、戦争、疫病……人を家畜みたいに刻んで“慈悲”だと呼ぶ世界を」
「放っておいてるだけか」
「あら」
彼女はくすっと笑う。
「もし私が指を鳴らして、奴隷制度を消したら——」
「次は、あなたたち全員が私の奴隷になるわよ?」
「でしょう?」
裸足のまま、俺の周りをゆっくり回る。
「人間は、互いに傷つける」
「でも選択を奪ったら……」
胸に指を当てる。
「愛も、痛みも、全部消える」
「あなたたちは、ただの操り人形になる」
「……つまり、何もしない」
「見ているだけだ」
「答えられる時には、答えるわ」
「ほら、私は来たでしょう?」
「もし誰かが苦しみを消してくれと願ったら、どうする?」
「それが、耐えるという選択を奪うことでも?」
「……相手によるな」
「いい答えね」
彼女は満足そうに頷いた。
「人間はすぐ簡単な答えを欲しがる」
「でも、君は違う」
背後で、何かが動いた。
ネフェレットの視線が影に向く。
「もう出てきていいわよ、子猫ちゃん」顔を上げた。




