第4話
朝は、鈍くて重たい色をしていた。
廃墟を、やけに正直に見せる光だ。
台所の死体は、動いていない。
――臭いだけが、変わっていた。
甘ったるく、濃い。
皮膚の下で、何かが気長に育っているみたいな匂い。
瘴気が、ゆっくりと花開いている。
俺はアリステルを見ずに荷をまとめた。
彼女は出入口の近くに立ち、腕を組み、
顎を必要以上に持ち上げ、
苛立ちを隠すように尻尾を細かく振っている。
――待っていたんだな。
運が悪い。
「朗報だ」
すれ違いざまに言う。
「自由になった」
耳が、ぴくりと動く。
「……自由?」
「おめでとう。鎖なし。護送なし。
首の後ろで息をする商人もいない。
行き先は好きに決めろ」
一度、瞬く。
二度。
ほんの一拍、仮面がずれた。
困惑と恐怖、むき出しの何か。
すぐに、叩き戻される。
「契約を……放棄するのですか?」
声は、やけに落ち着いていた。
「ああ。終わりだ。
アルデルヴァルには連れて行かない」
「……あなたの指示も、
護りも、必要ありません」
「結構」
即答する。
「なら話は早い」
彼女はレイピアを突き出し、出口を塞いだ。
「……本当に、行くのですね」
俺は刃を押しのけ、雨の中へ出る。
最初は、ついてこなかった。
背中に、迷いが重たく張りついているのが分かる。
――行き先がない。
――会う相手もいない。
――命令もない。
――決闘場と行進以外の道を、知らない。
市場からは逃れた。
だが、道は容赦しない。
森へ向かう分かれ道を選ぶ。
背後で、泥を蹴る音。
……やっぱりな。
自由は、本来、贈り物だ。
だが彼女にとっては、虚無だった。
「どこへ行くつもりですか!」
振り返らずに答える。
「お前から離れる。
……で、なんでついてくる」
尻尾が膨らむ。
「ち、違います!
わ、私は……ただ、この方向へ歩いているだけです!」
「瘴気が広がってるなら、誰かが祠を確認する必要がある」
「それは教会の仕事でしょう!
彼らの義務で――」
「死体を見るだけで、年収分を取る」
遮る。
「北まで来るのは、儲けが出る時だけだ。
次に起きることは……
お前一人売ったところで、足りない。」
唇を噛む。
「……なら逃げましょう。
走って、遠くへ――」
「お前は行け」
きっぱり言う。
「自由だ」
殴られたみたいに、身を震わせた。
……甘くはしない。
俺は外套の内から、火属性の魔晶石を取り出した。
小さく、ひび割れ、
何度も俺を生かしてきた代物。
――赤魔導士が、身の丈を越えた力を借りるための道具。
「な、何を……!」
「時間を買う」
握り潰し、術式を引き込む。
熱と焦げた煙が弾けた。
止める間もなく、俺は吸い込む。
炎が喉を引き裂き、肺を焼き、
胸の中の空気を奪い去る。
膝をつき、血を吐く。
「ラフェル!!」
叫び声。
無理やり立ち上がる。
息が乱れ、胸が燃える。
「……胞子は殺せる。
しばらくはな」
「自殺行為です!」
「保険だ」
「今日を生きられません!」
「元から、予定にない」
耳が伏せられる。
「……狂っています」
袖を掴まれた。
俺は、彼女を見た。
ちゃんと。
命令に従うよう育てられた少女。
生き延びるより、義務を優先するよう教え込まれた少女。
そして――
選ぶことを、知らない少女。
「神に感謝して……使え」
途切れ途切れに言う。
「これが最後だ。
綺麗に立ち去れ。
自由に生きろ」
息を整えながら、続ける。
「……もう死んでる人間の近くに、居続けるな」
指の力が、抜ける。
肺に、焼けた魔力の味が残る。
呼吸のたびに、痛みが走る。
俺は森へ向かった。
祠へ。
終わっていないものの方へ。
背後の足音が、遠ざかる。
止まる。
そして――向きを変えた。
よし。
俺と一緒じゃ、長生きできない。
ここで起きたことは、終わっていない。
まだ、全然だ。
赤魔導士。
いつもの朝。




