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第3話

歪んだ扉枠をくぐり、かつての酒場だった場所へ足を踏み入れる。

中の空気は、濡れた木材と古い黴が混ざった重たい臭いで満ちていた。


廃墟の奥から、一定の間隔で水滴の落ちる音が響く。

忘れ去られた井戸に、錆びた管から水が垂れているみたいな音だ。


炉は冷え切っている。

屋根は半分以上が抜け落ち、

反った床板の溝に溜まった雨水が、水銀みたいに鈍く光っていた。


アリステルがくしゃみを一つして、

「野蛮な建築ですこと……」

と小さく毒づく。


俺は一番乾いていそうな隅に荷を放り、腰を下ろした。

手首をひねると、符石が灯り、内側の小さな火のルーンが脈打つ。


じわり、と温もりが空気に滲む。

快適には程遠いが、骨まで冷えるのを防ぐには十分だ。


彼女は窓際に立ったまま、腕を組み、

肩に当たる雨音を無視するように外を見ていた。

尻尾が落ち着きなく揺れている。


――見ている。

――値踏みしている。


廃墟に掛けられた絵画みたいだった。

額縁だけが崩れて、本人だけが気づいていない。


外套の留め金に、色褪せた家紋が揺れる。

かつては金色だったそれも、今はくすんでいる。


フリルグレイブ家は、戦争前までは由緒ある家柄だった。

今は――古いだけで、金がない。


「……少しは力を抜いたらどうだ」


俺が言うと、


「有能な人間に囲まれた時だけですわ」


即答だった。


「じゃあ、今が逃げ時だ。

自分のためだと思ってな」


彼女はちらりとこちらを見ただけで、答えなかった。

暗い室内を見回すその目は、

まるで建物そのものが襲いかかってくると警戒しているみたいだった。


「俺は休む」


外套を広げながら言う。

膝が、昔より大きな音を立てた。


アリステルは何も言わなかったが、

鼻先に一瞬、微かな皺が寄ったのを見逃さなかった。


彼女から見れば、

俺は“始まる前に終わった人生”のエンドロールみたいなものだろう。


「お前も休め。夜明けに出る」


「雇われの男と同じ部屋では眠りません」


「安心しろ。

俺も王女様と同じ世界では眠らない」


彼女は溜息をつき、

疫病だの品位だのと小声で文句を言いながら、

台所の名残へと消えていった。


俺は外套を目元まで引き上げ、

火のルーンの温もりが骨に染みるのを待った。


――その時だ。


アリステルが叫んだ。

大声じゃない。

喉で潰しかけた、引き攣った息。


それで十分だった。


俺はナイフを掴んで跳ね起きる。

背中が悲鳴を上げたが、無視する。


彼女は台所の入口に立ち尽くしていた。

片手で口を覆い、

目は見開かれ、焦点が合っていない。


「……今度は何だ」


押しのけるように前へ出た。


臭いが、先に来た。


腐臭。

古く、

湿って、

――間違っている。


崩れた棚の向こう、

壁際に人影があった。


足首は鎖で床の鉄環に繋がれている。


喉が切られていた。


綺麗に。

迷いなく。

争った跡はない。


――選んだんだ。


だが、最悪なのはそこじゃない。


腐り方が、普通じゃなかった。


時間のせいでもない。


皮膚に広がる灰黒色の斑。

浮き出た血管。

白濁した眼。


甘酸っぱい臭い――瘴気の匂い。


可哀想な男だ。

自分で命を絶ち、

それでも万が一に備えて、鎖をかけた。


もし変じていたら――

それ以上、被害が出ないように。


アリステルが後ずさる。

尻尾が膨らみ、耳が伏せられる。


「……あ、あれは……」


「瘴気だ」


静かに答える。


「でも……教会が封じ込めたはずでは……?」


「都合が悪くなるまではな」


俺は屈み、触れないよう注意しながら遺体を調べた。

指が何かを握っている。


血に染まった御札。


一般人が持つものじゃない。

教会に目を付けられる覚悟がなければ。


それを外す。


瘴気は“異端”の地に現れる。

――本当に、神の罰なのか?


嫌な予感が胃を締め付けた。


近くに祠があれば、

瘴気は広がる。


「……行きましょう。今すぐ。今夜のうちに」


背後で、アリステルの声が震える。


「嵐の中で移動はしない」


俺は言った。

「距離もある。今すぐ危険ってほどじゃない」


道の方へ視線をやる。

「狼は、餌が尽きなきゃ居座らない」


彼女は仮面を被り直す。


「……本当に?」


「分からん」


正直に言う。


「瘴気は進行が遅い。

ここまで自分で鎖をかける余裕があったってことだ。

だが確かめるのは朝だ」


「……まさか……」


「調べる」


言い切った。


「なぜ……!?」


声が裏返る。


「誰も傷つかないよう、自分を縛って祈った」


遺体を見やる。


「……助けを求めて。

それに、誰も応えなかった」


彼女の表情が揺れる。

困惑と恐怖、その奥の何か。


俺は御札を懐にしまう。


「休め」


「……あれが、隣にあるのに……」


「眠れないなら、眠るな」


睨まれたが、いつもの勢いはなかった。


俺は元の場所に戻り、目を閉じる。

――祠で何が待っているか、

もう分かっていた。


アリステルは入口を行き来し、落ち着かない。


「寝ろ」


「……」


「明日は、もっと酷くなる」


彼女は眠らなかった。

俺もだ。


遺体は、鎖に繋がれたまま動かない。


嵐の音を聞きながら、

俺は確信していた。


――ここで起きたことは、終わっていない。


まだ、始まったばかりだ。


赤魔導士。

古参。

浄化役。


使い捨て。

いつだって。

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