9、追放の理由
「……あの時」
掠れた声で呟く。シードは何も言わず、片方の眉を上げた。
「追放される少し前……。僕は、早朝王宮図書室の奥の書棚の影で、座り込んで本を読んでいたんだ。あそこは背の高い棚に囲まれていて、あんまり人が来ない所で……」
ヨハンの脳裏に、朝の図書室の光景が蘇る。
「……君、朝っぱらから図書室の隅で何してたの? 優等生ぶって国家論でも読んでたのかい?」
意地悪な問いかけに、ヨハンは表情一つ変えず、小首を傾げた。
「あそこ、『古代神に捧げる交合の技』を記した図説資料があるんだよね」
「…………。……はあ?」
シードの手が止まった。眼鏡の奥の目が、かつてないほど困惑している。しかし、ヨハンは講義でも受けているかのような口調で続けた。
「全四十八の型があるらしいんだけど、当時の僕はまだ、四十三番目までしか読み解けてなくて。……異性とか同性同士とかの肉体が信じられない角度で絡み合う、非常に難解な図で……。どうやったらあんなに曲がるんだろう……」
「……お坊ちゃん。それを世間じゃあ『エロ本』って呼ぶんだよ。君、早朝から、奉納図を凝視してたのかい?無垢なんだか不健全なんだか、判断に困るんだけど 」
彼はこめかみを押さえ、心底呆れたように天を仰いだ。だが、ヨハンは不思議そうに小首を傾げるだけだ。
「え? 芸術資料だろ? 僕はただ、生命の真理を探究していただけだよ」
ヨハンはそこで一度言葉を切る。
「で、あそこは神殿へ続く重厚な扉があるんだけど、扉が少しだけ開いていて、中からジョージ殿下とリッカが出てきたんだ」
シードは、本への疑問を飲み込んだ。
「リッカっていうのは、ジョージの……、現恋人なんだけど……。
朝から珍しいなと思ってたら、二人は、僕がいることに気づかずに、低い声で話し始めて……『……どうして、光らなかったんだ』。殿下はそう言ってたと思う」
その言葉を聞いた瞬間、隣の男の瞳がスッと細められた。
「リッカは殿下をなだめるように、『殿下、落ち着いてください。誰も見ていません。……光らなかった事実は、僕と殿下だけの秘密にしましょう』って言ってた。……それで、僕が持っていた本が指から滑り落ちて、音がしたんだ」
「……光らなかった、ね」
シードは、ヨハンの語る断片を脳内で組み立てた。
王宮、神殿、そして現在も行方不明の魔法石『天の瞳』
「……その時、二人がこっちを見て……。あの時の二人の顔……。ジョージ殿下は、まるで恐ろしい魔物でも見たような顔をして僕を睨んで……。リッカも、いつもの優雅な微笑みが完全に消えていて……」
ヨハンは、その時の張り詰めた空気を思い出し、肩を震わせた。
「で、僕が『……なにしてるの?』って言ったら、二人の顔が急に変わったんだ。殿下はいつもの穏やかな顔に戻って、『驚かせないでくれ、ヨハン。……今の話、聞いていたのかい?』って聞いてきた」
「それで?」
「僕は……『なにか光らないとかいってたけど宝石の話?……あ、もしかして殿下、新しいブローチでも買うんですか?』って聞いたら、二人は顔を見合わせて、おかしそうに笑い出したんだ。で、リッカが、『そうですよヨハン様、殿下は次の祝宴でダイヤモンドを購入してブローチとして披露予定でしたが、予算が合わなかったそうです。……内緒にしてくださいね? 』だって」
「……ふん」
シードが鼻で笑った。
「下手な誤魔化しだ。君が『ダイヤモンド購入』だと思い込んでいる間に、彼らは君をどう処理するか、その場で決めたんだろう」
「どういうこと?光らないってなんなの?」
シードはあきれたように吐息をつくと、地面に転がった枝を拾った。
「いいかい、お坊ちゃん。神殿に奉納されている『天の瞳』は、単なる大きな宝石じゃない。あれは、王族が触れた際、その者の王としての資質を測るための選定の魔石だ」
「選定の……魔石?」
「そう。歴代の王は皆、即位の前に『天の瞳』に触れてあの石を光らせ、王の資格を持つと神と民にその正当性を示してきた。……つまり、ジョージが石に触れたのに『光らなかった』ということは――」
シードは細い木の枝をパキリと指先で折る。
「ジョージは『天の瞳』に『王失格』の烙印を押されたということだ。」
ヨハンは息を呑んだ。
「王失格……。そんなこと、あるの?」
「通常はない。生まれた時から持つ魔力で、王の資格が決まるからな。だが、人として最悪の罪を背負ったり、隣国への侵略野望を抱いたりした王族を、平和を計るあの魔法石は、拒絶する。……つまり君が聞いたのは、ジョージという男が、石に『王失格』の烙印を押されたという会話だ」
シードは眼鏡を指先で押し上げ、冷酷な光を宿した瞳でヨハンを射抜いた。
「リッカとやらが必死だったのも頷ける。愛するジョージが『王失格』だなんて、口が裂けても認められなかったんだろう。だから君を消すことにしたのさ。君があの日、聞いたものの本当の意味に気づく前にね」
ヨハンは血の気が引くのを感じた。
「……じゃあ、僕が家を追われたのも、カトラが怪我をしたのも……全部、あの会話を聞いたせい?」
「そう。君は運悪く、王宮で最も醜い秘密を特等席で見てしまった。ただそこに居合わせただけで、生かしておけない証人になった――それだけのことさ」
ヨハンは地面を拳で叩きつけた。石の角が皮膚を裂き、じんわりと血が滲む。
(……そんなことのために、カトラは光を奪われたのか!)
胸の奥で、何かが爆ぜ、焼け付くような熱が全身を駆け巡った。
シードは不敵に目を細めると、泥に汚れたヨハンの頬を、愛おしむように指先で撫でた。
「どうだい、ヨハン。君を泥に突き落とした連中の、その傲慢と虚偽が混ざり合った『嘘の味』は」
ヨハンは顔を上げ、シードの指を拒むことなく、己の汚れた唇をゆっくりと舐めた。
鉄の匂いと泥のザラつき。それが今の自分に相応しい現実の味なのだと、刻み込む。
「……泥より酷い、反吐が出る味だ」
ヨハンの新緑の瞳から、迷いが消えた。
そこにあるのは、獲物の喉笛を狙う獣のような、鋭利で凍てつく眼光。
「必ず……僕が舐めたのと同じ泥の味を、あいつらにも骨の髄まで分からせてやる」
「そうか」
シードは満足げに唇を吊り上げ、ヨハンの喉元を軽く押さえた。
「……復讐したいなら、もっと牙を砥がないとね。まずは体力作りのために、明日から薪割りの量を二倍にしようか」
ヨハンは唇を強く噛みしめた。
「……薪割りを、二倍に……」
ヨハンは痺れる両手を見つめた。
「どうした? 無理なら今すぐ王都に戻って、ジョージに降参と泣きつくかい? 『僕は馬鹿だから、ダイヤモンドの話は全部忘れました』ってね」
「……冗談でしょう」
ヨハンは斧を拾い上げ、ずしりと重い鉄の感触を確かめる。
「カトラが……あいつが、片目を捨ててまで僕を逃がしたのは、ダイヤモンドの予算を守るためじゃない」
ヨハンの瞳に宿った静かな、だが消えない炎を見て、シードは満足げに目を細めた。
「そうか。……じゃあ、昼のレッスンを始めようか」
シードは近くの茂みから、二本の長い木刀を拾い上げ、一本をヨハンに放り投げる。ヨハンはそれを慌てて受け止めた。
「薪割りで何を学んだ?」
「……筋を、読む?」
「そうだ。どんなに硬い木でも、筋に沿えば容易く裂ける。それは人間も同じだ」
シードは棒を軽く振り、空を打つ鋭い音を響かせた。
「人間の体にも、動きの『筋』がある。重心の移動、視線の先、踏み込む足の角度。筋を読めれば、力のない君でもその喉笛を突ける」
シードが不意に間合いを詰めた。
ヨハンは反射的に木刀を掲げたが、シードの突きの速さは想像を超えていた。
カツン、と乾いた音がして、ヨハンの額を木刀の先が軽く叩く。
「……っ」
「遅い。君はまだ『目』で見てから動いている。薪の筋を見つけた時の感覚を思い出せ。思考を介さず、体が先に答えを知っている状態だ」
それから、日の光が森を赤く染めるまで、打ち合い――というよりは、ヨハンが一方的に打たれ続ける時間が続いた。
全身が痣だらけになり、呼吸が肺を焼く。だが、何度目かの打ち込みの際、ヨハンの視界がふっと奇妙な冴えを見せた。
シードが右足をわずかに引く。肩が微かに下がる。
(……ここだ)
ヨハンは棒を振り下ろすのではなく、シードの棒が通るであろう「線」の上に、自分の木刀を待ち伏せた。
パキィィン!
激しい衝撃が腕に走る。だが、今までのように弾き飛ばされることはなかった。シードの木刀を受け流し、その力が地面へと逃げていく感覚。
シードの手が止まった。
「……おお」
眼鏡の奥で、鋭い眼光が一瞬だけ煌めく。
「今の……」
「合格。君は、やはり復讐に足る牙を持ってるみたいだね」
シードは木刀を下ろすと、懐から小さな革袋を取り出し、ヨハンに投げた。中には、強い香りを放つ緑色の薬草を練った軟膏が入っていた。
「それを塗って休め。明日の薪割りは、今日よりさらに厳しくなるぞ」
ヨハンは軟膏の袋を握りしめ、去りゆくシードの背中に問いかけた。
「……詐欺師。あんたは、どうしてそこまで僕に教えるんだ? 兄様たちから金をもらっている以上のことを、している気がする」
シードは足を止め、振り返らずに答えた。
「まあ、俺も『天の瞳』に人生を狂わされた口でね。……嘘で塗り固められた玉座なんて、見ていて吐き気がするだけだよ」
その声には、いつもの人を食ったような響きはなく、深い夜の底に沈むような重みがあった。




