8、割れ目
翌朝、ヨハンを叩き起こしたのは、顔面に叩きつけられた濡れたタオルの冷たさだった。
「……っ!? な、何……!」
「おはよう、眠り姫。明日から朝食の時間に遅れたら、抜きだからな」
そう言ってシードは、水桶をチェストの上に置くと、真新しい簡素な、リネンの服を指差した。
「ほら、それ着て」
全身が鉛のように重い。
かつては、指一本動かさずともメイドたちが済ませていた着替えだ。慣れないリネンの感触に戸惑い、袖を通すだけで数分を費やした。外へ出ると、早朝の刺すような冷気が、剥き出しの肌を容赦なく刺す。霧に包まれた森はまだ薄暗く、沈黙に支配されていた。
待っていたのは、山のように積まれた未割りの薪と、一丁の斧。
「……これを、僕がやるの?」
シードは相変わらず人を食ったように小首を傾げた。
「他に誰かいる? 嫌なら使用人でも雇えば?」
それだけ言うと、シードは切り株に水筒と黒いパンを置き、興味を失ったように背を向けた。
ヨハンは歯を食いしばり、未だ体調は回復していないにも関わらず、カトラを助けたいという思いだけで、重い斧を持ち上げる。王宮での剣術は、あくまで「優雅な嗜み」でしかなかった。実用の道具である斧の重さは、想像を超えている。
振り下ろしても、刃は薪を避けて地面を叩く。凄まじい衝撃が腕を駆け抜け、骨の芯まで痺れさせた。
「っ……あ……!」
衝撃に耐えきれず、ヨハンは斧を取り落とす。手のひらは早々に皮が剥け、赤黒い血が柄に滲む。
無力、出来損ない、人形。
自分を嘲笑う言葉が頭を回り、ヨハンは斧を投げ出して地面に座り込んだ。
『坊ちゃん、頭を使いなさいよ』
ふと、カトラの声が蘇った。
記憶の中の彼女は、固いカボチャをいとも簡単に切り裂いていた。当時のヨハンが感心して「凄いね」と賞賛したとき、彼女が返した言葉だ。
息を整え、薪の木口を凝視する。
割れているものと、割れていないもの。その違いは何か。
震える指で薪を拾い上げると、断面には中心から外へ伸びる「年輪の筋」があった。
――叩き壊すんじゃない。この「筋」に沿って、裂くんだ。
ヨハンは斧を振り上げるのをやめた。
刃を、年輪の外側にある細いひびに、そっと当てる。力を込める必要はない。ただ、そこを突くだけ。
そして別の丸太を拾うと、斧の背を叩いた。
コン。
鈍い音が響き、刃がわずかに木に食い込む。
コン。コン。
最初の一撃より、確かに深く入っていく。
「……こうかな?」
自分に言い聞かせながら叩き続けると、四度目の音が鳴った瞬間。
――パキッ。
薪が二つに裂けた。
派手ではないが、確かな手応え。
ヨハンは、自分の足元に転がる二つの薪を見つめ、震える声で呟いた。
「……できた」
コツを掴めば、あとは早かった。割れそうな場所を狙い、力を一点に集中させる。気づけば、山だった薪は半分以下になっていた。肩の痛みは消えないが、胸の奥には、これまで知らなかった「自分の手で何かを成し遂げた」という熱い感覚が生まれていた。
「……へえ」
背後で足音がした。いつから見ていたのか、シードが立っている。
「君、本当の馬鹿じゃなさそうだね」
ヨハンは斧を握り直したまま、振り返らずに答えた。
「……馬鹿だよ。何も、知らないもの」
シードは、くつりと喉を鳴らして笑った。
「うん。馬鹿だけど、本物の馬鹿じゃない」
ヨハンは返事もせず、次の薪を掴んだ。
「君のその細い腕が、いつか誰かの喉笛を掻き切る獲物になるのか。……楽しみだよ、ヨハン」
シードはヨハンの後ろまで歩み寄ると、冷たい手のひらが、ヨハンの口を強く塞いだ。そのまま茂みに引きずり込む。
「!……な、何?」
「しっ、黙って」
足音が、茂みの向こうで静かに響いた。粗末な麻の服をまとった男が、音もなく近づいてくる。初めはただの村人のように見えたが、その動きには生活感がなく、まるで訓練された影のようだった。
ヨハンは息を殺し、心臓が早鐘のように打つ。男は切り株の前に膝をつき、地面をじっと見つめた。
「……っ」
シードが耳元で、掠れた声で囁く。
「……君を探しているのかも……」
男は、ヨハンが割ったばかりの薪を一つ、手に取る。年輪の筋に沿って見事に真っ二つになったその断面を、男は値踏みするように撫でた。
(見つかる……!)
ヨハンは全身の筋肉を硬直させた。
男の視線が、二人が隠れているしげみの方へとゆっくり動き、懐に手を入れた。仲間への合図の笛か、あるいは武器を取り出すのか。
緊張が頂点に達し、ヨハンが思わず目を閉じかけたその時――。
「…………」
男はふっと、視線を薪の山に戻した。
そして、短く鼻を鳴らすと、拾い上げた薪を無造作に放り投げる。
男にとって、その薪の割り方は「木こり」の仕事に見えたのだ。
男は立ち上がると、再びキョロキョロと周囲を見渡しながら、何事もなかったかのように森の奥へと消えていった。
男の気配が完全に消えてからも、シードは数秒、動かなかった。
「ん――!」
息が苦しくなってヨハンが身をよじると、シードがようやく手を退けた。
「……行ったか」
シードは先に身を起こし、茂みを押し分けて外へ出る。
ヨハンも遅れて這い出るように外へ出たが、膝に力が入らず、その場に崩れるように座り込んだ。
胸が激しく上下し、指先が震えている。
シードはそれを一瞥し、服についた泥を払った。
「運が良かったね、お坊ちゃん。」
その表情には、恐怖の欠片も浮かんでいない。
「……あいつ、何なの……?」
ヨハンの問いにシードは眼鏡のブリッジを指先で押し上げ、冷徹な光を宿した瞳でヨハンを見下ろした。
「さあね。でも、あの身の熟し方は王宮の兵士だろうね」
シードは冷やかすように笑う。
「王宮?父上と兄様達が寄こしたんじゃ無いの?」
ヨハンは疑問だった。婚約者の身分を剥奪され辺境に追われた自分。ジョージ達がこれ以上自分に危害を加える理由がわからない。
シードは目を細めた。
「君の父親もオーガスティンとシエロも君が死ぬことなんて本当は望んでないよ」
「は?……どういう意味?僕は恥さらしとして追放されたんだ、始末したって不思議じゃない」
ヨハンが自嘲気味に吐き捨てると、シードはくつくつと喉を鳴らした。
「よく考えろよ。本当に殺したい相手に、あんな腕の立つメイドを同行させると思うかい? それに、僕みたいな『高い』家庭教師をわざわざ手配したりもしない。つまり、君の家族は、本心では君の死なんて望んじゃいないのさ」
ヨハンは言葉を失った。冷たい風が首筋を通り抜ける。
「……何、言って」
「それより興味深いのは……ジョージの方だよ。彼にとって、君は生かしておけないほど『邪魔な存在』らしい」
シードが密かに笑うと、ヨハンの前にしゃがみ込み、その泥に汚れた手をまじまじと見つめた。
「……ジョージ殿下……? 僕が、何をやらかしたって言うんだ。そもそも彼とは滅多に……」
「そこそこ」
シードが指先でヨハンの喉元を軽く突いた。
「君、無自覚なまま、彼にナイフを突きつけてるんじゃないかな? ……彼にとって不都合な『何か』を握っているとか」
シードは目を細め、獲物を観察するような顔で笑う。
「ねえ、お坊ちゃん。心当たりはないかい? 」
ヨハンは、過去の記憶の断片をたぐり寄せた。




