7、詐欺師との契約
目が覚めたとき、最初に鼻腔を突いたのは、無機質な石鹸の匂いだった。
泥の腐臭も、野兎の生臭い血の味もしない。
数日ぶりに触れる清潔なシーツ。暖炉でパチパチと薪が爆ぜる音。
ヨハンは重い瞼を持ち上げた。
そこは、簡素だが手入れの行き届いた丸太小屋の一室。
「ああ……起きたね。君、丸二日眠り続けていたよ。あと一日寝ていたら、そのまま森に埋め直してやるつもりだったけれど」
部屋の隅、暖炉のそばの椅子に腰掛けたシードが、本から目を上げずに言った。
眼鏡に炎の光が反射し、表情は読み取れない。
「……ここは」
「俺の隠れ家。土の上で寝るよりマシだろう?」
ヨハンは起き上がり、自分が何も身に着けていないことに気づいて、シーツを掻き寄せた。
「……服は」
「洗濯中。泥と血で汚れたボロをこの部屋に置きたくない。身体は俺が隅々まで検分したけど……。骨格は頼りない、筋肉は皆無。痩せ細った素材だ」
シードの視線が、シーツ越しにヨハンの体をなぞる。
値踏みされるような感覚に、背筋がわずかに強張った。
その瞬間、ヨハンの脳裏にあの光景が蘇る。
自分を逃がすために、カトラの右目から溢れ出した、あの鮮烈な赤。
「カトラ……カトラは……どこに……」
「カトラ? 君の世話係のメイドかい?」
シードは本を閉じ、椅子から立ち上がった。
「俺が森で見つけたのは、君一人だけだよ」
「……っ! 探しに行く……!」
ヨハンはシーツを体に巻き付けてベッドから降りた。
だが足元が覚束ず、床に膝をつく。
「無理だよ。その足でどこへ行くつもり? また森で迷って、今度は、自分が狼に食われるつもりかな?」
「うるさい! カトラは、カトラだけは僕を見捨てなかったんだ! 家族さえ僕を捨てたのに、あいつだけが……っ」
ヨハンの叫びは、震える嗚咽に変わった。
自分を「ガキ」と呼び、鼻で笑い、それでも最期の瞬間に自分を蹴り飛ばして「逃げろ」と叫んだ、たった一人の味方。
「……ねえ、ヨハン。君はその彼女が、あの程度で死んだと思っているのかい?」
シードの声が、冷たく、そして甘く響いた。いつの間にかシードは目の前に屈み込み、視線を合わせた。
「……え?」
「そのメイド……元格闘技場の戦士だったらしいね。君の兄上が調査済みだったよ。十歳そこらで『格闘技場の黒曜石』なんて呼び名がつくほど、強い子供だったとか。そんな女が、片目を失った程度でくたばるとは思えないけどね」
「……格闘技場の、黒曜石……?」
知らなかった。
その名は、ヨハンの耳に届くはずのない、血と砂にまみれた世界の称号。
ヨハンは愕然として、言葉を失った。
自分を着飾らせ、影のように控え、時折生意気な口を叩くメイド。その華奢な肩のどこに、そんな凄惨な過去が隠されていたのか。
(……僕は、何も見ていなかった)
彼女がなぜ、あんなにも冷めた目で世界を見ていたのか。
なぜ、貴族たちの虚飾を「ガラクタ」と切り捨てるのか。
彼女は一人の戦士だったのだ。そんな戦場を生き抜いた彼女に、『右目』を差し出させてしまった。ヨハンの胸に猛烈な後悔が渦巻き、シードはそこへ更に、残酷な現実を突きつけた。
「で、今の君が彼女を探してどうなるの? 見つけ出して、また彼女の『左目』も差し出させるつもりかい? 君を守るために」
「…………」
「今の君は無力だ。金どころか力も、服さえない。全てを失った出来損ないのお坊ちゃん」
シードの手が、ヨハンの頬をなぞる。その指先は驚くほど冷たい。
「彼女を探したいなら、まずは君自身が『人間』にならないとね」
ヨハンは悔しさに唇を噛み、血が滲んだ。
シードの言うことは、正しい。
今の自分は、カトラの犠牲の上に立っているだけ。
「……僕は、どうすればいいんだ」
「カトラという女を救いたいなら、まずは僕と『契約』しよう。君のこれからの時間を、全て俺に預けるんだ」
シードの唇が、三日月のように吊り上がる。
「もっとも、授業料は高いけどね。君の人生を、僕が支配し、磨き上げる。……これは、君の兄上への報告書には書かない『特別レッスン』の追加契約だ。いいかな、お坊ちゃん?」
「……兄様から給料が出てるんじゃないのか」
「もちろん、しこたま貰った。でも、君を『人間』以上に仕立て上げるには、それでは足りないのさ」
ヨハンは震える手で、シーツを握りしめた。
カトラ、必ず生きていて。君が「生きろ」と言ったこの命を、僕は絶対に武器に変える。僕を泥に突き落としたすべてを、今度は僕が踏みにじってやるために。
「……いくらでも、払ってやる。……この、詐欺師」
「いい返事だね。取引成立だ」
シードは満足げに、獲物を手に入れた悦びに目を細めた。
ヨハンが初めて、その瞳に「人形」ではない、自らのどす黒い意志を宿した瞬間だった。




