5、右目の代償、野兎の血。僕を『ただのガキ』と呼んだ君のために
「北へ逃げて」――。
カトラの叫びが、耳鳴りのように耳の奥で響き続けていた。
視界の端に焼き付いて離れない、鮮烈な赤。
自分を逃がすために、彼女がその右目を差し出したという事実が、ヨハンの胸を鋭利な刃物で抉り続けている。
「はぁ……無事でいて……っ……」
二日間、ヨハンは祈りながら、ただひたすら歩き続けた。
だが三日目には、自分がどこを歩いているのかさえ分からなくなっていた。
目の前にあるのは、無限に続くかのような、冷たく湿った森の景色だけ。
喉の渇きを癒すため、泥まみれの水溜まりに顔を突っ込むたび、水面に映る土気色の自分の顔が、血を流したカトラと重なって見える。
(……ごめん。……ごめん、カトラ)
混濁する意識の底で、記憶の中のカトラが、いつものようにニヤリと口の端を吊り上げた。
彼女は、ヨハンが生まれた時から母に仕える、影のように大人しく寡黙なメイドだった。
母の人形として、毎日厚く白粉を塗りたくられ、宝石を積み上げられていくヨハン。使用人たちがそれを「完璧な婚約者」と称賛しつつ、陰で「無能の三男」と嘲笑う声をヨハンは知っていたが、カトラだけは賞賛も蔑みも口にせず、ただ淡々とヨハンを着飾らせていた。
そんな彼女が豹変したのは、わずか数ヶ月前のことだった。
ある日を境に、何かが憑き者でもついたのように彼女の目は鋭くなり、隙あらばヨハンの虚飾を剥ぎ取るような毒舌を投げつけるようになったのだ。
『坊ちゃん、その白粉、いらないんじゃないですか? 鏡を見てください。痩せすぎて今にも折れそうな、ただの白い箒ですよ』
いきなり発せられた暴言に、ヨハンは驚愕した。それまでも愛想の良いメイドではなかったが、面と向かって罵倒されたのは初めてだったからだ。
『お菓子ばかり食べてないで、たまには乗馬でもしたらどうです。今は痩せ過ぎの箒でも、将来は運動不足でぶよぶよの豚になりたいんですか?』
「無礼者!」「不敬だぞ!」
そのたびにヨハンは顔を真っ赤にして怒鳴り散らしたが、「あの日」から何かに目覚めたカトラは、どこ吹く風で「はいはい、白い箒、白い豚」と鼻で笑うようになった。
その傍若無人な物言いは、当主である父や、優秀な兄たちに対しても同様だった。父には「老眼が始まったんですか?」と揶揄し、兄たちの堅物ぶりを「古代の石像ですか?」と突き放す。厳格な父が返す言葉を失い、兄たちが苦笑いを浮かべる光景。
母亡き後、凍りついたようだったフォークス家において、ここ数ヶ月のカトラの棘のある言葉は、家族を「人間」として揺さぶっていたように思う。
ヨハンは、そんな彼女を嫌いになれなかった。
周りの大人は皆、ヨハンを「公爵家の三男」か「王太子の婚約者」という肩書きでしか見ていない。
だが彼女だけは――たった一人だけは、この自分を、手のかかる「ただのガキ」として扱ってくれた。
(……あんなに生意気で、あんなに僕を、バカにしていたのに、なぜ。)
なぜ、こんな「中身のない人形」のために、君は命を懸けたんだ。
孤独が、重苦しい霧のようにヨハンを包み込み、視界を奪っていく。
誰も、助けには来ない。
父も、兄たちも、今頃は王都を騒がせた恥さらしが消えたことに、せいぜい安堵しているのだろう。
この世界のどこを探しても、自分を必要としている人間など、もうどこにもいない。
ヨハンは絶望に沈んだ。
自分という存在に、カトラの右目を引き換えにするほどの価値があったのか。
「……あ、あはは……。さっさと死ねばよかった……」
虚無感が、飢えさえも一瞬忘れさせた。
だがその絶望の底で、カトラのあの憎たらしいほど自信に満ちた声が響く。
『生きなさいよ、このクソガキ』
――その幻聴が、ヨハンの死にかけた心臓を強く叩く。
三日目の夕刻。
ヨハンの姿は、もはや人間かどうかも怪しかった。
豪華な刺繍が施されていた衣装は裂け、土に汚れ、生気を失って土気色をしている。
亡霊のように森を彷徨っていたその時、草むらの影に、一羽のうさぎが倒れているのを見つけた。
後ろ足を獣に噛まれたのか、ピクピクと弱々しく痙攣し、死を待つだけのうさぎ。
「……っ」
脳裏に、王宮で供された「うさぎのテリーヌ」の記憶がよぎる。
銀の皿に盛られた、美しく無機質な「料理」。
だが、目の前にいるのは、血の匂いがする、体温のある「生き物」だ。
「……たべなきゃ……」
ヨハンは震える手で、カトラから渡された銀のナイフを抜いた。
数日前の彼なら、その醜悪さに吐き気を催し、逃げ出していたはずだ。
だが数日の飢えが、彼の「品性」という名の殻を完全に食い尽くしていた。
ヨハンは躊躇なく、うさぎの喉元を掻き切った。
刃が皮膚を裂き、温かい血が指先を濡らす。
「っ……、……ぁ……!!」
火を起こす術も、捌く知識もない。
それでも彼は、まだ温かいうさぎの体に顔を埋め、泥にまみれた口で、剥き出しの筋肉と血を夢中で啜り、食らった。
喉を通る、獣特有の生臭さと鉄の味。
それは、これまで口にしてきたどんな贅沢品よりも、強烈に「生」を実感させる味だった。
「……っ、うぐっ……ぅう……」
涙が溢れ、血と混ざって顎を伝う。
汚い。醜い。見苦しい。
王太子の婚約者として、最も遠ざけてきた「野蛮」そのものの姿。
だが、うさぎの命を胃に収めた瞬間、ヨハンの瞳から涙は枯れた。
(……死ねない)
どれほど泥にまみれ、何を食らおうとも。
カトラがその目と引き換えに守ったこの命を、自分から投げ出すことだけはできない。
それは、彼女への何よりの裏切りだ。
ヨハンはその場に仰向けに倒れた。
木々の隙間から見える月が、冷たく自分を見下ろしている。
その瞬間、ヨハンの中で「可哀想な人形」は完全に壊れた。
カトラの右目を奪ったこの理不尽を、終わらせるものか。
「……あはは……」
これまで自分を飾ってきた白粉も、宝石も、矜持さえも、泥と血にまみれた今となっては何の意味もなさない。けれど、この胸に宿った焼け付く殺意だけは、かつて愛でたどんな名石よりも硬く、冷たく、自分の存在を証明していた。
「このままで済むと思うなよ……。ジョージも、リッカも……僕が今啜った血よりも、もっと深い泥の中に引きずり込んでやる……」
その瞳には、暗闇の中でも消えない復讐の業火が宿っていた。熱すぎるその炎は、ヨハンの瞳から完全に涙を枯れさせた。




