4、躾の行き届いた獣は、鎖を噛み切る
王都を囲う白亜の城壁はすでに、はるか遠くなり、石畳を叩く規則正しい蹄の音も、いつしか土道の不揃いな振動へと変わり、華やかな街の喧騒も背後へと消え失せた。
馬車の揺れに身を任せながら、カトラは膝の上で丸まって眠る「坊ちゃん」を見つめ、小さく、重い溜息をついた。
(……やっぱり、こうなるのね)
カトラは自嘲気味に口角を上げた。
わずか三ヶ月前、彼女は前世の記憶を取り戻した。この世界がかつて読み耽っていたBL小説『宝石の行方』の世界であると言う事を。まだ全てを理解しているわけではないが、ずっと胸に刺さっていた小さな棘が、ようやく名前を持った。
この物語の舞台は、魔力による生殖が可能であり、異性婚と同性婚が法的に等価値とされる多様な世界。貴族と平民の婚姻すら認められる自由な風潮がありながら、王家だけは違う。
魔力の保存という名目で、血に執着している。
そして、目の前で眠る主、ヨハン・フォークス。
彼は物語の序盤で「王太子の傲慢な婚約者」として登場し、断罪され、無様に退場するだけの哀れな「噛ませ犬」
(本来のシナリオ通りなら、この子はわずか数日で野垂れ死ぬ運命。……誰にも惜しまれずに)
ヨハンと王太子ジョージの婚約は、公爵家と王家の均衡を保つための純然たる政略結婚だった。
ジョージにとって、ヨハンは最悪の伴侶候補だったことだろう。なぜなら、ヨハンは、公爵家の息子でありながら、魔力を持たなかった。それでも、王子の婚約者となったのはその血筋ゆえだろう。血筋さえよければ、その子孫に強力な魔力を持った子供が現れる。そんな未来に希望を託した政略結婚。
おまけに、本人は宝石と厚化粧で本来の顔を隠し、性格は意地悪く我儘で、虚飾にしか興味のない「頭の悪い白粉人形」だった。ヨハン自身はジョージを慕っていたようだが、人形のような彼に向けられる王太子の視線は、どこまでも冷酷だった。
なぜ、彼がこれほどまでに救いようのない男に育ったのか。
その元凶は、間違いなく今は南領で眠る亡き「奥様」にある。
彼女が果たせなかった王家への輿入れ――その夢を、息子が叶えることを、彼女はどうしても許せなかったのだ。
婚約が決まったのは、王子が五歳、ヨハンが四歳の時。王家からの正式な申し入れを受けた瞬間、奥様が幼い息子に向けた冷え切った眼差しを、カトラは今も鮮明に覚えている。
『なぜ、私が叶えられなかった夢を、この子が叶えるの?』
瞳の奥で渦巻いていたのは、母性ではなく、昏い嫉妬だった。
その歪んだ感情は、やがて「教育」という名の虐待へと姿を変えた。
少年の彼に少女のような衣装を纏わせ、その顔には白粉を厚く塗らせて表情を殺す。叱ることはせず、ただ甘やかし、同年代の子達とは遊ばせず、望むままに与え続け、思考する力を奪う。
それを、誰も「異常」だと口にしなかった。
旦那様は愛する妻に盲従し、二人の兄は、母の執着を一身に受ける弟を「寵愛されている」と誤解し、疎んだ。
しかし、決定的な終わりが訪れたのは、彼が十一歳になった年。奥様の死だった。
公爵家の財力をもってしても、彼女の病は治らなかった。
『私に罰が下ったの……』
死の床で、痩せ細った奥様は初めてヨハンを壊したことを悔いた。
枯れ木のような手でカトラの手を握り、涙ながらに訴えた懺悔。
だからこそ、カトラは奥様の「後悔」を死なせるわけにはいかない。
なぜなら、カトラは亡き奥様に恩がある。
かつて、カトラは貧民街の地下格闘場で、見世物として戦わされる「獣」だった。
暇を持て余した権力者たちが子供同士を殺し合わせる、血と泥に塗れた地獄。その場所を力ずくで叩き潰し、陽の当たる場所へ引き上げてくれたのが当主アルマン・フォークスであり、獣だった自分を人間にしてくれたのが奥様だった。
(恩人である夫婦が道に迷い、間違えて作り上げてしまった、この惨状……)
カトラは、膝の上で無防備に眠るヨハンの、白粉が剥げかけた頬を静かに撫でた。
その寝顔だけは、まだあどけない子供だ。
前世を思い出した自分は、前世の記憶という「毒」が脳内に回るまで「躾の行き届いた獣」に過ぎなかった。
旦那様に拾われ、奥様に人間としての形を与えられた。その恩義に報いるために、主の命に従い、邪魔者は排除する。
自分にあるのは、敵を噛み殺すための牙と、主への盲目的な忠誠だけ。そこに高尚な思想も、ましてや「慈愛」などという感情は一滴も混じっていなかった。
だが、今は違う。
自分がこの「噛ませ犬」の従者であり、この膝の上の少年が悲惨な死を遂げると知ってしまったその時から、胸の奥に消えない火が灯った。
元の「私」なら、旦那様の命令通り、彼を王家に届けるための「商品」として扱っただろう。
だが、奥様が壊してしまったこの白粉人形に、生きてほしいと願った。
「運命、なんてふざけた言葉でこの子を殺させはしない」
そう呟いた。瞬間。
世界が裏返るような衝撃と共に、轟音が鼓膜を突き破った。
――ガシャァァァンッ!!
「――なにっ!?」
次の瞬間、激しい衝撃が走った。馬車が大きく跳ね、片側の車輪が悲鳴を上げて折れる。車体は斜めに傾いたまま、道脇の木に激突して止まった。
「うわあっ!」
ヨハンの身体が内壁に叩きつけられる。
視界が白く弾け、息が詰まった。
悲鳴を上げる間もなく、上側に傾いた扉が、外から激しく蹴られた。
ドンッ! ドンッ!
留め金が悲鳴を上げ、外気が流れ込む。
次の瞬間、覆面をした男たちが、傾いた扉の隙間から身を乗り出してきた。
「いたぞ! 公爵家のヨハンだ!」
「引きずり出せ! 」
「下がって、坊ちゃん!!」
カトラは即座にヨハンの前に立った。
ドレスの裾を迷いなく裂き、懐から短剣を抜き放つ。
その動きに、侍女の面影はない。かつて地下格闘場で鳴らした「獣」の動きだ。
先頭の男の喉元へ、刃を深く突き立てた。
「……え?」
間の抜けた声の直後、血が溢れた。
男は喉を押さえたまま、音もなく崩れ落ちる。
「くそっ、このアマ!」
続く四人の剣を紙一重で受け流す。
だが、所詮は多勢に無勢。狭い車内では動きが制限され、護るべき対象もいる。
「こっちだ……!」
背後から回り込んだ刺客の剣が、死角からヨハンを狙う。
「ああ!」
ヨハンの悲鳴と共に、その切っ先が少年の細い喉を貫こうとした刹那、カトラの思考より先に、地下格闘場で培われた「獣の肉体」が跳ねた。
無理な体勢でヨハンを突き飛ばし、自らの顔面を盾にする。
――ザシュッ!
鈍く、湿った音が頭蓋に響いた。
顔面を斜めに切り裂かれ、右の眼球を完全に潰された衝撃で、脳を殴られたような震盪が襲う。
次の瞬間、カトラの右側の世界は、終わった。
「……あ」
激痛よりも先に訪れたのは、猛烈な熱さ、そして視界の右半分が、どろりとした沸騰するような「赤」に塗り潰される。
右側の視界がぐにゃりと歪み、急速に深い闇へと沈んでいった。
だが、意識の混濁の中で、カトラは奇妙なほど冷静だった。
(ああ、やっぱり……「私」なのね)
泥水をすすり、他人の命を奪って生き延びてきた「獣」の本能と、愛した主のために運命を拒絶する「人間の意志」
その二つが今、失った右目の闇の中で一つに溶け合った。
「カトラ!!」
ヨハンの悲鳴が、籠もって響く。
「……っ……あああああぁぁぁッ!!」
獣のような咆哮を上げ、彼女は残された左目を見開いた。
血を噴き出し、顔半分を赤く染めたその姿は、手負いの獣そのもの。
光を失った右目から血の涙を流しながら、短剣を確実に振り抜き、刺客の喉笛を掻き切る。
「坊ちゃん! 北へ逃げて!!」
右目の光と引き換えに、カトラは「駒」であることを完全に捨てた。
そして、自分の命を賭けたその決意はヨハンを守る盾となり、敵の前に立ちふさがる。
「そ、そんな! 一人なんて嫌だよ!! カトラ!!」
泣き叫び、しがみつこうとするヨハン。カトラは血を拭うこともせず、彼に向かって絶叫した。
「クソガキ!! さっさと行けぇぇぇーッ!!」
その怒号と共に、彼女は渾身の力でヨハンの背中を蹴り飛ばした。
「――っ!?」
蹴り出されたヨハンは、半狂乱で馬車の窓から外の泥地へと転がり出る。後ろ髪を引かれる思いを断ち切り、カトラが自身の目と引き換えに作った数秒を無駄にしないため、彼は走らざるを得なかった。
「はっ、はっ、はっ……!」
枝が頬を打ち、茨が服を引き裂く。ヨハンは振り返らず、暗い森の奥へ、奥へと走り続けた。背後で響く剣戟の音が遠ざかり、やがて恐ろしいほどの静寂が訪れるまで。
そして。
足がもつれ、冷たい泥の中に無様に倒れ込んだ時、ヨハンは初めて自分が完全に「独り」であることを理解した。
「……う、うう……」
寒い。痛い。怖い。そして何より、孤独だった。
極限の恐怖と疲労の中で、ヨハンの視界が歪む。泥にまみれたその手には、もはや公爵家の栄光も、母の歪んだ愛も、何一つ残されてはいなかった。




