第47話 世界の窓辺から(下)
――どこかの大陸。人の世から切り離されたかのような、地の底深くにて。
太古の神を祀っていたとも、禁忌の儀式に使われたとも噂される、黒曜石の祭壇の間。無数の燭台が青白い炎を揺らし、その中心に、黒冠――世界最悪と恐れられる闇ギルドの首魁たち、十葬が集っていた。
沈黙を破ったのは、感情を抑えきれぬ怒声だった。
「――ふざけるな……!あのジェイドが捕らえられただと!?そんな話、冗談にもならねえ!!」
拳が石卓を叩き、鈍い音が地下空間に反響する。名を叫ばれた男、捕らわれたジェイド。各国に潜伏し、数え切れぬ裏取引と破壊工作を成功させてきた、古参にして兄貴分。黒冠随一の潜入能力を誇り、組織の懐を潤し続けてきた最高の稼ぎ頭だった。
影に潜む黒冠を代表する、それほどの男が――捕らえられた。
「当然、救出に行くだろう!?なぁ!」
「……落ち着け」
低く、重い声が制した。中央、豪奢な装飾が施された椅子に身を沈める十葬の一人が、深く息を吐く。
「ジェイドはカリオン王城の中、地下深層の強固な牢と結界に幽閉されている。監視は恐ろしく厳重……鼠一匹通れない程だ」
別の男が言葉を継ぐ。
「動いているのはカリオン王国だけじゃない。各国が人員を派遣し、冒険者ギルドまでも総動員だ。国境関所では徹底した身分審査、都市への出入りも念入りに記録されている」
「救出に向かえば――」
中央の男が、苦虫を噛み潰したような表情で呟いた。
「一国と真正面から戦争になる。いや、複数の国々と冒険者ギルドまで相手にすることになるだろう」
「それから、我々の情報が洩れていることも忘れるな」
沈黙が落ちた。炎の揺らめきだけが、重苦しい空気を揺らす。
「……クソッ」
誰かが歯噛みする。
「つまり、手はねえってことか?」
「少なくとも“今は”な、手立てが無い」
中央の男は視線を伏せ、低く続けた。
「無理に動けば、ジェイドの命も、我々自身も危うくなる。今は機を窺うしかない」
血も涙もなく、裏切りと殺しが日常の世界最悪の闇ギルド、黒冠。しかし――その悪道の果てに結ばれた仲間同士の絆は、決して薄くはなかった。
だからこそ。
「……エリュシェル・フォールン……!」
怒りを噛み殺した声が、闇に滲む。
「俺は、絶対に許さねえ」
「……奴は策士だ」
別の十葬が静かに警告する。
「ジェイドを嵌めるほどのな。感情で動けば、逆に絡め取られるぞ」
「情報を集めろ」
中央の男が、断を下すように言った。
「奴の過去、繋がり、弱点――すべてを洗い出せ。万全の準備を整え、確実な報復を成し遂げる。これもまた、機会を待つ戦い」
その瞬間。闇の帳簿に、新たな名が刻まれた。
――エリュシェル・フォールン。
黒冠最上級。決して生きては終われぬ者だけが載る、最悪のブラックリストに。
――ルヴァニア王国、辺境の大森林の中央深部にて。
ルヴァニア王国の地図において、名すら記されない大森林の最奥。人の足が滅多に踏み入らぬその場所は、昼間でも薄暗く木々の枝葉が絡み合って空を覆い、わずかな木漏れ日だけが地面に斑を落としていた。
その光の円の中心に、一人の美しい少女が佇んでいた。
身の丈程もある宝石に彩られた金色の大きな十字架を携え、ドレスのように装飾された漆黒の修道服を纏ったその姿は、森の深緑と対照的に際立ちまるでこの場だけが異界として切り取られているかのように見える。銀糸のような長い髪は背に流れ、白磁のごとき肌は光を浴び輝く。まるで神が丹念に彫り上げた彫像を思わせる程の完成度だった。
少女は膝を折り、胸の前で両手を組み、祈っていた。
「おお……神よ……女神よ……」
震える声は、森の静寂に溶けるように小さく、それでいて不思議なほど美しく澄んでいた。涙が頬を伝い、顎の先からぽたりと落ち、苔むした地面に吸い込まれていく。
「女神よ……なぜ……なぜあなた様は……私に、このような試練を……お与えになられるのですか?」
その姿は、あまりにも美しく、あまりにも神聖だった。祈る少女の周囲では風すら息を潜めているかのようで、鳥の声も虫の羽音も聞こえない。ただ彼女の嗚咽混じりの祈りだけが、ゆっくりと空気を震わせていた。
「私は……ただ、正しく生きたいだけ……なのに……」
小さく首を垂れ、少女は涙に濡れた睫毛を伏せる。その横顔は、慈悲と純潔を象徴する聖画そのものであり、もし誰かがこの光景を目にしたなら迷いなく「聖女」と呼んだだろう。
「おお、神よ……女神よ……!」
その声がわずかに上擦った次の瞬間。
少女の美しい顔がゆっくりとひどく歪んでいく。先ほどまで柔らかく潤んでいたヴァイオレットの瞳は急速に光を失い、底知れぬ淀みを湛える。口元は引き攣り、快楽とも苦悶ともつかぬ形に裂け、唇の端から涎が糸を引いて垂れ落ちた。
「……ああっ……」
吐息混じりの色の混ざった声が漏れる。
「このような……このような……」
こくりと喉が鳴り、少女は興奮し自らの大きな胸を抱きしめるように両腕を絡め、身を震わせた。
「悲哀も……憎悪も……激痛も……」
言葉を重ねるごとに、その声音は甘美な熱を帯びていく。
「歓喜も……快感も……至福も……」
瞳が見開かれ、焦点の合わぬまま天を仰いだ。
「こんなにも……こんなにも……お与えになられるだなんて……!!」
その瞬間、張り詰ように何かが音を立てて弾けた。
「キャーアーーーー!アーッハハハハハハッ!!!」
狂気の笑い声が森を切り裂いた。甲高くねじ曲がり理性という枷を完全に振り払った嗤いが、木々の間を跳ね回り、反響し、増幅されていく。少女は立ち上がり、両腕を広げ陶酔し狂ったように身体を仰け反らせる。
「素晴らしい……素晴らしいです……!」
その足元に広がる光景は、あまりにも異様だった。
木々の影に横たわる無数の死体。盗賊と思われる男たちは皆、無惨にも手足を失っていた。いずれも抵抗も逃走も許されなかったことを物語っている。血の匂いすらどこか甘く錯覚させるほど、異常な静けさがその場を支配していた。
少女は、死体の一つに近づき、しゃがみ込むと、愛おしむようにその冷えた頬に触れた。
「ねえ……とても怖かったでしょう……?恐ろしかったでしょう……?」
返事はない。
「でも……それだけ……私、いっぱい……感じられました……」
うっとりと熱を帯びた眼差しでくすりと甘い音を転がすと、少女は柔らかな曲線を揺らしてゆっくりと立ち上がる。
「おお……神よ……女神よ……!」
その呼びかけは、もはや祈りではなかった。狂気と恍惚を孕んだその声は、深い森の奥へと溶けていった。
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