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第17話 あなたはわたしのヒーロー

人によっては気分を害する表現があります。ご了承ください。

「帰りたくないなぁ」


 呼び止めてほしい。


 帰らなくてもいいよと言ってほしい。


 そんな思いを込めたつぶやきは、当然ハナには届かない。カサネは、ハナと別れた後、夜の暗い街をあてもなく歩き続けた。


 真っ暗な場所は安心する。カサネを見てくる人がいないから。

 時間稼ぎをすませて、家に帰る。時間は午後9時。きっと、普通の家庭なら娘が帰ってこないと大騒ぎしている時間。


 カサネの家は一軒家だ。ちらりと駐車場の方を見る。車は軽自動車が一台だけ。父親はまだ仕事から帰ってきていない。

 家の扉はいつも閉まっている。合いかぎを使って扉を開く。「ただいま」なんて言葉は、10才になる頃には言うのをやめた。


 2階にある自室へ向かうためには居間を横切らないといけない。テーブルにはラップのかかった冷めた夕食。ソファにはぼんやりとテレビを見る母親の姿がある。芸能人のやかましい笑い声に夢中の母は、遅くに帰ってきたカサネのことを一度も見ることをしなかった。


 試しに。カサネは勇気を出して言ってみる。


「ただいま」

「……」

 数年ぶりのただいまのあいさつの返事はなかった。寂しい。弱いカサネにまた感情が降り積もる。


 *


 6畳の部屋は、カサネにとって安心できる場所の一つだ。ここには意地の悪いクラスメイトもいなければ、カサネに無関心な両親もいない。


 シングルベッドに学習机が置いてあるだけの殺風景な部屋だ。窓にかかったカーテンも白の無地。一人娘のためにかわいいものを、なんて発想はあの両親にはない。ベッドにバッグを置いて、椅子に座る。クッションのない木製の座面は、固くて冷たい。


「痛い、なぁ……」


 カサネは自分の腹部に手をやった。押し込むとずきずき痛む腹部と、ジンジン痛む下腹部。しばらくじっとしていたカサネは、自分の体から汗臭さを感じた。着替えを取って、1階に降りる。

 居間の電気は消えていた。母親は眠りについたらしい。風呂場へ向かう。


 服を脱ぐ。鏡に映るのは痩せた小さい自分の体。顔の筋肉は凝り固まったように、無表情からピクリとも動かない。


 カサネの胴体にはいくつものあざができていた。今日、暴力を受けてできた傷だ。それはいい。体が痛いのは慣れている。だが、下腹部に感じる痛みは、カサネの精神をじわじわと追い詰めていた。

 いじめっ子たちは、先輩らしく男を連れていた。最近カサネが調子に乗っている。だから罰を与えないといけない。男はカサネの上にまたがって……


 自分の体が汚らわしいものに思えて、カサネは鏡から目を背ける。苦しみ。絶望。痛み。恐怖。負の感情は、カサネを飲み込むほどに大きい。

 いつもよりも念入りに、肌が赤くなるくらいに体を洗う。下腹部はより特に念入りに。男のあれは、あの後トイレでかきだした。だから大丈夫。大丈夫。


「う……おぇっ」

 急な吐き気がこみ上げてくる。風呂場の中でカサネは吐いた。夜ご飯を後にしてよかったと思う。出てくるのは胃液だけだった。

 ふらふらの体で風呂場を上がり、電子レンジで夕食を温める。ごはんとトンカツとサラダ。半ば機械的に胃の中に流し込む。油が気持ち悪い。おいしいとは思えない。ハナと飲んだカルピスは、あんなにおいしかったのに。


「ハナさん。ハナさん」

 食事を終え、すがるように何度もハナの名前を呼ぶ。ハナからもらった言葉を頭の中で何度も繰り返す。そうだ。つらいこと、苦しいことばかり考えていたらだめだ。楽しいこと。素敵な未来を考えるんだ。

 食べたばかりの夕食を吐きそうになりながら、カサネは自室へもどった。


 部屋に戻ったカサネはベッドに倒れこむ。体を動かす気力がわかなかった。苦しい。辛い。汚い。気持ち悪い。気色悪い。嫌だ。おぞましい。寂しい。冷たい。痛い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い……消えたい。死にたい。


「おまじない、しないと」


 体は鉛のように重く、すぐ近くにあるはずの机がひどく遠く感じた。倒れこむように椅子に座りこむ。

 学習机の上には、顔が映るくらいの小さなスタンドミラーと、一冊の童話の絵本が置いてある。絵本の題名は『シンデレラ』。幼いころから何百回と読んだ本。端がよれ、黄ばんでしまっている。


 鏡には真っ青な顔色のカサネが映っていた。こわばった笑顔を無理やりに浮かべ、目の端から涙が溢れそうになっている。震える手でカサネは鏡のふちをつかむ。


「カサネのこの気持ち、この苦しい気持ちはいらないの。こんな気持ち、カサネはいらない。だから全部持ってって。切り分けて、仕分けして、カサネの中から消えてって」


 鏡の中の自分をじっと見つめながら、「おまじない」を唱える。頭の中に浮かべるのは、今日あった嫌なこと。それらの記憶から一つ一つ、気持ちだけを切り分けていく。



 殴られて痛かった。恐怖の気持ちを切り分ける。



 くつを隠された。苦しみの気持ちを切り分ける。



 母親に「ただいま」を無視された。寂しい気持ちを切り分ける。



 男の先輩にひどいことをされた。死にたい気持ちを切り分ける。



 おまじないで全ての気持ちを切り分けたあと、鏡の中のカサネはすっきりとした顔をしていた。嫌な記憶は消さない。ただ、気持ちだけ、もう一人の自分に切り分ける。



「ルイ、いつもごめんね」

 鏡に向かって言葉を投げかける。返事などあるはずがない。しかし、


『いいんだよ。それが俺の役割だ』


 カサネの頭の中から声がした。

 傍から見れば、カサネが鏡を見ながらひとりごとをブツブツ言っているだけ。しかし、カサネはルイと、もう一人の自分と会話をしていた。


『今日は随分ひどい目にあったんだな。感情がいつもより多い』

「ごめん、ごめんね。でもカサネは頑張ったんだよ」

『そうだな。カサネはよく頑張ってるよ。あいつらがあんなのを出してきたのは、そんだけカサネが頑張ってる証拠だろ』

「うん……うん」


 カサネはこらえきれなくなったのか、涙をぼろぼろ流す。感情を切り分けても、記憶は消えない。思い出した記憶で、カサネはまた苦しくなっていた。


『その感情も、俺がもらおうか』

「……大丈夫。それじゃルイに悪いよ」

『優しい子だよ。お前は本当に』

「それよりね。聞いてルイ。今日ハナさんとね……」


 ルイという人格ができたのは、カサネがいじめを受け、感情を切り分けるおまじないに気付いてしばらくしてからのことだった。

 切り分けた負の感情はルイが受け取ってくれている。なのに、ルイはひたすらにカサネに優しかった。慰め、励まし、弱いカサネの心を守る。相談できる相手が一人もいなかったカサネにとって、ルイとは信頼できる姉のような存在だった。


 イマジナリーフレンドという言葉を、カサネは知っている。カサネはルイがそういった存在に分類されることも理解している。それを誰かに話せば、おかしな顔をされる。いじめがもっとひどくなる。

 だからカサネはこれまでルイの存在を、誰かに話したことはなかった。


 最近できた大好きで、尊敬できる人、ハナを除いて。


 辛いこと、苦しいことばかりをルイに話していたカサネだったが、ここ数週間はハナと過ごしたことをよく話すようになった。


「それでね、明後日ハナさんと遊びに行くことになったの」

『楽しみだな。カサネの行きたいところに行けるんだろ』

「そうなの」

『カサネは本当に、ハナさんのことが好きだな』

「うん。だって、ハナさんはカサネのヒーローで王子様、だから。カサネを2回も助けてくれて、楽しい気持ちをたくさんくれるんだもん」


 カサネは机に置いてある絵本を手に取る。

「カサネにとって、ガラスのくつとドレスはルイで、王子様はハナさんなの。カサネがどこかに行ってもきっと探し出してくれる。カサネを幸せにしてくれる、素敵な、素敵な王子様」


 カサネは大きなあくびをした。

『そろそろ眠るかい?』

「んん、あともう、少し……」

 言いながら、カサネは今にも眠りに落ちてしまいそうだ。


『カラコン』

 ルイが言う。


「あ、そうだった」

 カサネはぶんぶんと頭を振り、目にいつも張り付けているカラーコンタクトをとった。



 カサネは知らない。魔法を生まれながらに有する人間がいるということを。



 カサネは知らない。魔法をもつ人間は、髪や目の色が変色するということ。



 カサネは知らない。自分のやっているおまじないが、魔法であるということを。



「これで、オッケー」

 眠気に負けそうなカサネの瞳は、鈍く輝く銀色をしていた。


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