第七話:それぞれの思惑
――テーマ:心の闇の交錯
人は皆、自分だけの“正義”を持っている。
そしてそれは、他人の“正義”と必ずしも重ならない。
――三谷さくらは、花音の異変に気づいていた。
最初は小さな違和感だった。目を逸らす回数、教室での沈黙の時間、ふとした仕草。
何より、あの「観察するような視線」。
(花音ちゃん……何を見てたの?)
彼女は決して声を荒らげたり、感情を露わにしたりしない。
でも、静かに見つめ続けるその目は、いつも真っ直ぐで、痛いほどだった。
ある日、さくらは職員室の前で立ち止まった。
黒田が他の教師と小声で話しているのが見えた。
「小山……彼女は、何か……いや、なんでもない」
その呟きを聞いた瞬間、さくらは確信した。
(何かが起きている)――と。
彼女は、誰かを責めたいわけじゃなかった。
ただ、誰かが“苦しみを抱えている”なら、放っておけなかった。
けれど、それを言葉にすれば壊れてしまうような気がして、黙っていた。
――一方、クラスの男子・田所圭介は、全く別の視点で事態を見ていた。
「なんか、最近の黒田って、やばくね? 前まであんなに偉そうだったのに、今マジでビビってるじゃん」
「あれだろ? SNSで噂流れてるやつ。どっかのスナック通ってるとか」
「ウケる。キモくね?」
彼にとって、それは“退屈な日常に起きたエンタメ”だった。
けれど、噂を拡げることが誰かを傷つける、という想像力はなかった。
ただ、「教師をネタにする」ことで、自分が優位に立てるような気がしていた。
そんな空気に、教師側も徐々に飲まれつつあった。
「黒田先生、最近ちょっと様子がおかしいですね」
「保護者対応もトラブってるって聞きましたよ」
「前任校でも、なんか問題があったって噂が……本当なんでしょうか?」
職員室に漂う、“当事者不在の会話”。
それは、まるで風評が形を持って歩き出すように、噂に“実体”を与えていった。
だが、学年主任・宮野だけは沈黙を貫いていた。
彼は、過去に一度だけ黒田と酒を飲んだことがある。
そのとき黒田は酔いながらこう呟いた。
「教師って、“正しさ”のふりをするのが仕事なんだよな。ほんとは誰だって、不完全なのに」
あの言葉が、ずっと引っかかっていた。
そして今。
彼は思う。
(黒田を追い詰めているのは、誰だ?
生徒か? 噂か? それとも――“正しさ”を期待し続けた俺たち自身か?)
夜。
花音のスマートフォンには、さくらからの短いメッセージが届いていた。
《私は、花音ちゃんのことが心配です。何があっても、味方でいたい。》
画面を見つめながら、花音は深く息を吐いた。
(私は、誰かの“味方”になんて、もうなれないと思ってた)
それでも――
ほんのわずかに、心が動いたのを感じた。
一方、黒田の自宅では、机の上に一通の書類が置かれていた。
《自己申告によるカウンセリング希望届》
そこには、彼自身の筆跡で名前が書かれていた。
物語は今、少しずつ“境界線”を越えようとしている。
それぞれの思惑が、善意と悪意のあいだで、静かに揺れ始めていた。