第六話:過去との対峙
――テーマ:心の闇の根源
春の嵐が過ぎ去った朝、学校はまるで水を打ったように静かだった。
黒田はその日、いつもより遅れて教室に入ってきた。
足取りは重く、顔色は悪く、髪はわずかに乱れていた。
それでも無理やり整えたネクタイと、無表情な目元が、ぎこちない“教師”の仮面を保っていた。
「おはようございます……」
その声を聞いた瞬間、教室に微かなざわめきが走った。
(もう限界が近い)
花音は気づいていた。
教師としての彼の立場も、精神も、あと少しで崩れる。
けれど、そのはずなのに――彼女の胸の奥には、どこか虚ろな“空洞”が広がり始めていた。
帰宅後。
机に置かれた封筒を、花音はじっと見つめていた。
昨日届いた、あの問い。
《あなたがやっていることは、誰かを救えてますか?》
“誰”が書いたかは、まだ分からない。
ただ、その一文がずっと頭の中にこびりついて離れなかった。
(……救いなんて、いらない。これは復讐。正しさを証明するための……)
そう言い聞かせるほどに、心は逆にざらついていく。
その夜、ふと、花音は自分がかつて書いた作文を取り出した。
小学校五年生の時、「わたしの夢」という題で書かされたものだ。
――『わたしは、せんせいになりたいです。
せんせいは、こどもにやさしくて、こまったときにたすけてくれるからです。』
素朴で、幼い理想。でも、そこには確かに、あの頃の花音がいた。
そして彼女の記憶は、一つの出来事を呼び起こす。
小学五年生の終わり頃。
転校してきたばかりの花音は、教室に馴染めず孤立していた。
クラスでただ一人、自分に声をかけてくれた教師がいた――黒田透。
「文章、好きなんだろ。君の書いた作文、すごく良かったよ」
その言葉に救われた。
子どもだった花音は、“先生”という存在に理想を重ね、そこに信頼と憧れを抱いた。
でも――あの日、花音は見てしまった。
放課後の空き教室で、クラスの女子に声を荒げる黒田の姿を。
机を叩く音、叱責の言葉。怯えたその子の表情。
花音は、教室のドアの隙間から、それを見つめていた。
(あの人は……“ちがった”)
優しい仮面と、怒りの裏側。
それを見てしまったあの日、花音の中で「正しい大人」は死んだ。
そして今――
再び出会った黒田は、まるであのときの記憶をなぞるように、自分にだけ不公平だった。
(だから私は、過去の“裏切り”に、今の“復讐”を重ねたんだ)
次の日の放課後。
花音は意を決して、職員室の前に立った。
「……失礼します。小山花音です」
黒田は、驚いたように顔を上げる。
だが、その目には怒りも警戒もなかった。ただ、疲れ切った静かな光だけがあった。
「……話があるんです」
花音は、黒田の向かいの椅子に座り、深く息を吐いた。
「先生。小学校の時……私の作文を、ほめてくれたの、覚えてますか?」
黒田は一瞬だけ目を見開き――そして、小さく頷いた。
「覚えてる。あのとき君は、転校してきたばかりで……でも、強い言葉を書いてた。印象に残ってるよ」
花音の喉の奥が、かすかに鳴った。
「でも……私は、先生が怒鳴ってたのも見たんです。
教室で、別の女の子に。すごく怖かった」
「……」
黒田は目を伏せ、言葉を探すように沈黙した。
やがて、ぽつりと呟く。
「……教師って、人を導く仕事だと思ってた。
でも、本当は、誰よりも感情と距離を取らなきゃいけない仕事だった。
あの頃の俺には、それができなかった。今も、たぶん、できてない」
静かな告白。
責任を逃れるでも、弁解でもなく、ただ“事実”として語るその声に、
花音の心は揺れた。
「先生のせいで……私は、“正しい大人”なんていないって思いました」
「……その通りだと思う」
黒田の言葉は、あまりにもあっけなかった。
だからこそ、強く響いた。
帰り道。
花音は、いつもの公園のベンチに腰を下ろした。
桜の花が、枝先に小さく膨らんでいる。
季節は、気づかぬうちに、少しずつ前に進んでいた。
(私は、あのときの“先生”に裏切られたんじゃない。
“子どもだった私”が、大人に勝手に理想を押しつけてたんだ)
その考えは、花音にとって“赦し”ではない。
けれど、“呪い”から少しだけ遠ざかる手がかりになった。