第四話:歪み始める人間関係
――テーマ:心の闇の広がり
人間関係が壊れるとき、それはいつも「音のしない崩壊」から始まる。
月曜の朝。
教室に入った花音は、最初の違和感を“空気”で感じ取った。
おしゃべり好きな女子グループの輪の中に、珍しく沈黙があった。
いつも花音に話しかけてきたクラスメイトの男子が、目を合わせずに席に座る。
それは彼女への反応ではなく――**「教室そのものが不安定になっている」**という空気だった。
「最近、黒田先生、なんか変じゃない?」
誰かがつぶやいたその言葉が、花音の耳に届いたとき――
彼女の中のどこかが、ゆっくりと満たされていく。
昼休み、花音はあえて一人で過ごした。
教室の後ろで本を開きながら、視界の隅にクラスの“歪み”を映す。
――女子の一部が、黒田が通うスナックについてひそひそと話す。
――男子数人が「アイツって女の生徒にだけ厳しいよな」と話している。
――ある生徒が、黒田のことを「あいつ、女見る目エグくね?」と笑いながら言った。
噂はすでに、花音の手を離れて歩き出していた。
(もう私が何もしなくても、燃えていく)
その“手応え”が、花音に陶酔にも似た感覚を与える。
だが、教室だけではない。
職員室でも、わずかながら変化が起きていた。
「……黒田先生、この前の保護者対応、ちょっと強すぎませんでした?」
「まあ、彼なりのやり方なんでしょうけど……生徒との距離、気になりますよね」
学年主任と若手教師のささやき声は、職員室のコーヒーの香りにまぎれていた。
それでも、当の黒田はいつも通りを装っていた。
「……そうですか。気をつけます」
声の調子は変わらず。だが、その背中はわずかに硬直していた。
一方で、**“観察者”**も生まれ始めていた。
花音の後ろの席の女子――三谷さくら。
彼女は物静かで目立たないが、誰よりも「空気の変化」に敏感なタイプだった。
放課後、帰り支度をしていた花音の横にそっと近づいてきて、囁くように言った。
「花音ちゃん……先生に、何かされた?」
花音は、本当にわからないという顔で首をかしげた。
「どうして?」
「ううん、なんでもない。最近、教室がなんか……変だから」
さくらの声は優しい。
だからこそ、花音は無意識に、その言葉を切り捨てた。
「みんな、気にしすぎだよ。先生も、普通じゃない?」
それは、演技だった。
だが、嘘をつくたびに、自分の中の“どこか”がすり減っていくのを感じていた。
夜。ベッドの上。
今日もまたノートを開く。
《教室の空気:成功段階に到達》と、自ら記す。
しかしその手が、ページの端で止まった。
(――あの子、どうしてあんな風に聞いてきたんだろう)
疑いの目ではなかった。
探るようでもなかった。
あれは、「心配」のまなざしだった。
復讐は、静かに、着実に進んでいる。
黒田の居場所は、少しずつ揺らいでいる。
なのに、胸の奥のどこかが、ほんの少しだけ“痛んだ”。
(私のしてることは……間違ってない。
でも、もし――誰かが、私を“心配”してくれるとしたら)
その“もし”が、静かに心の隙間に忍び込んでいた。