第三話:罠の始まり
――テーマ:復讐の実践
水曜日の朝。黒板には小さなミスがあった。
「英語プリントB」を配るはずが、教師机の上に積まれていたのは「英語プリントA」。
気づかずに配り終えたあと、生徒の一人が指摘した。
「先生、これ、BじゃなくてAですけど……?」
教室がざわめく中、黒田は無言で配り終えたプリントを回収し始めた。
そして、原因を“探す”ように、クラスの中に視線を走らせ――止まったのは、花音だった。
「小山。確認しなかったのか?」
配布係は男子生徒だった。だが黒田は、当然のように花音へ責任を向けた。
花音は瞬きをひとつし、穏やかに言った。
「私、今日は配ってませんけど」
黒田の眉がぴくりと動いた。それでも何も言わず、教科書を開いて授業を再開した。
けれどその沈黙は、教室全体に“気まずさ”だけを残した。
(いい。これでいい)
昼休み、花音はトイレの個室に入り、スマートフォンを取り出す。
画面には、匿名掲示板への投稿フォームが開かれていた。
《うちの学校の英語教師が、女子生徒を名指しで責めてたの見た。
本人は何もしてなかったのに。前も似たようなことあった。
この先生、ちょっと問題じゃない?》
投稿ボタンを押したあと、すぐに画面を閉じた。
誰が書いたかなど、問題ではない。
“そういう空気”が生まれれば、それが現実になる。
罠は、情報だけではない。
花音は次の段階へと進みつつあった。
放課後、彼女は校門から出る黒田の姿を確認すると、やや距離を取りながら後を追った。
足音を忍ばせ、電車に乗り、駅で降りる。
黒田は、そのまま駅前の雑居ビルに入っていった。
建物の入り口には、目立たぬように掲げられたネオン。
《Snack Réveil》
数分後、花音は建物の向かいにあるカフェに入り、窓際の席から入口の様子を見つめながらメモを取った。
――毎週水曜、19時10分着店
――スーツ姿のまま。仕事帰り。
――2時間滞在。店から出たとき、頬が赤い。アルコールあり。
――帰りは電車。酔って手すりに寄りかかる様子あり
教師のイメージと、夜のスナック。
それだけで「燃料」としては十分だ。
(外での姿と、学校での姿。
どちらが“本当”かなんて、周囲が勝手に決める)
人は、“期待していた像”とのギャップに弱い。
特に、子どもたちが「先生」に求める理想は、現実とはかけ離れている。
そこに“私生活の乱れ”を重ねれば、あとは自然に崩れていく。
金曜日。昼休み。
教室の一部の女子グループが、スマートフォンの画面を囲んでいた。
「見てこれ、掲示板。黒田って……マジ?」
「なんか水曜の夜にスナック通ってるとか、ほんと先生? キモくない?」
「え、それガチの話? うわぁ……」
花音は、ただ静かに読書をしていた。
けれど、彼女の耳には会話の断片すべてが届いていた。
(一つ目の“穴”は、開いた)
黒田の顔は、まだ教室で笑っていた。
だがその笑みは、微かに揺らいでいた。
表面だけをつくろう大人の仮面に、ヒビが入った音が、確かに聞こえた。