第二話:復讐の序章
――テーマ:復讐のための準備
月曜日の午後、教室の空気はいつになくぬるかった。
「では、プリントを回して。列ごとに手早く配ってくださいね」
黒田の声が静かに響く。花音の隣の席の男子がプリントをぞんざいに放るように渡してくる。紙は半ば机から滑り落ち、花音は無言で拾い上げた。
何も言わない。反応もしない。
ただ、心の中にひとつだけ言葉が浮かんでいた。
(“公平”は、言葉で語るほどには実現されない)
教師という存在が、無意識に「好き嫌い」を持ち、「権力」をふるい、「正しさ」を独占するとき。
それはもう、子どもにとって“支配”でしかない。
その放課後、花音は図書室の片隅にいた。
目の前にはノートが一冊。そこには、名前も書かれていない。
代わりに、上部に小さな文字でこう記されていた。
《黒田透:観察記録》
――発言のトーン
――生徒に対する態度の偏り
――無言の時間、目線の動き
――私にだけ向けられる特有の言い回し
一週間分の記録が、整然と、冷静に並んでいる。
それを花音は、ただの「事実」として書き留めていた。
けれど、観察はそれだけにとどまらなかった。
帰宅後、花音はパソコンを起動した。
検索エンジンの窓に打ち込む。
《黒田透 前任校 問題》
《教師 異動理由 不祥事》
《○○市教育委員会 通報 匿名》
出てきたのは、匿名掲示板、保護者の口コミ、学校ニュースの切れ端。
確たる証拠にはならない。けれど、ひとつだけ気になる書き込みを見つけた。
《数年前、○○中で女生徒とトラブル起こした教師が異動になったって噂あったな。名前までは出てなかったけど》
“女生徒”と“トラブル”。
不確かな言葉ほど、人の想像力をかき立てる。
それは事実を超えて、人の印象として定着していく。
(この人は、表では理性的に振る舞い、
裏では誰かの心を傷つけてきた。
私と同じように)
だから、壊さなければならない。
ただ怒りをぶつけるのでは意味がない。
感情では、大人は崩れない。
だから――証拠、状況、噂、評判、信用。
花音は“教師”という存在を、“社会人”としての側面から狙うことにした。
翌日、花音は一つの行動に出る。
学校の帰りに、コンビニのマルチコピー機を使って、ある掲示板の匿名投稿を印刷した。
《教師が特定の女子生徒に対して不公平な扱いをしている。
最近はその子がひどく暗くなっていて、心配。先生の対応を見直してほしい》
誰が書いたかはわからない。実際、花音自身が書いた。
それを、放課後の職員室前の投書箱に、誰にも見られぬように滑り込ませる。
(まずは一石を)
池に投げ込む石は、小さくてもいい。
波紋が広がり、やがて大人たちの“空気”を変える。
夜、自室のベッドの上。
花音はノートを抱えたまま、天井を見上げていた。
この感情は、ただの怒りではない。
復讐という言葉に込められた、冷たい理性と熱い執着。
それが今の彼女をかろうじて形にしている。
(“正しい大人”なんて、本当はどこにもいない。
だったら私が、あなたの“正しさ”を終わらせる)
瞼を閉じたその顔には、年相応の少女らしさはもうなかった。