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4.リリースタイム

 あれから8年ほどが経った。

 俺は新卒で入った中小の食品メーカーで、相も変わらず馬車馬のように働かされている。

 給料も高くない。休みも少ない。ついでにいつも誰かと誰かが揉めていて、社内の人間関係だって決して良好なものじゃない。

 それでも俺は身を粉にして働き続けている。これが俺の人生だ。それにいまは、仕事を頑張る理由もある。


「本当に大丈夫なの? いくらか出すわよ」

「だからいいって。そのためにずっと貯金してきたんだよ」


 就職と同時に一人暮らしを始めたが、最近は年に数回帰省する。このときもちょうど連休だった。

 だがこのところ、帰る度に主に母親から鬱陶しい心遣いを言われるばかりで、正直うんざりしている。


「もうすぐ“お姉さん”ができるのかあ。なんか実感湧かないなあ」


 同じタイミングで帰省していた泉海が、リビングのソファで寛ぎながら呑気に言った。母親はダイニングのテーブルで、俺が渡した書類に判子を押している。


「はい」

「どうも」


 書類が俺に返ってくる。『婚姻届』と書かれたそれには、証人欄に母親の署名と押印が記されていた。


 28歳になる年、俺は結婚することになった。その相手はなんと、バンドマン時代に俺たちを追いかけてくれていた数少ないファンの子だった。

 元々俺たちのファンなんて片手で数えても指が余るくらいしか居なかったが、それも解散と同時に泡と消えた。その子以外は。

 バンド末期で活動がグダグダになっていた時期も、解散後、音楽も辞めて底辺企業で扱き使われ精神を病んでいたときも、その子だけは何故だかずっと俺を追いかけてきてくれていた。さんざん「ダサい姿」を見せつけてきたというのに。


 下世話な話、ちゃんと付き合い始めたのは割と最近のことだ。それまでは言い寄られても付かず離れずな距離感だった。というより俺がいまいち彼女を信用していなかった。

 何せバンドでの俺なんていうのは、カッコつけて偶像を演じている痛い上っ面しか見せていなかったからだ。それがうまくいかず解散した時点で、俺にとってはその頃の自分像など黒歴史でしかない。

 そんな俺を見て好いてくれたなんて女、信用できるわけがなかった。俺ごときの薄っぺらいメッキに騙されてしまうような奴なんだから。

 そのメッキが剥がれた姿を見れば、どうせ勝手に失望してどこかへ消えるだろう。そう思っていた。

 でもそうはならなかった。社会の歯車としてはみ出した個性を削がれた俺を見ても、彼女は失望した様子など見せなかった。どうやら彼女が見ていた俺の姿には、最初からメッキなんてついていなかったらしい。

 俺たちの偶像は、熱心なファンすら騙せてなどいなかったようだ。


「何があるかわかんないもんだね。あんなにバンドがうまくいかないって悩んでたのに、そこから結婚相手見つけてきちゃうんだもん」


 泉海が物珍しそうに婚姻届の用紙を覗き込みながら俺に言った。そこにはもうかつての気まずさは無くなっていた。

 お返しに俺も敢えてデリカシーの無い軽口を叩く。


「他人のことはいいから、お前も早く彼氏の一人くらい連れてこいよ」

「は、はあ!? うるさいな、結婚するってなった途端にマウント取るのやめてくんない!」


 泉海は顔を真っ赤にして怒り始めた。面倒なので俺は自分の部屋へと退散したが、泉海も何故か追いかけてきた。まるで小さかった頃を思い出す。昔は俺がどこに行っても、すぐ後ろから妹が付いてきたもんだ。

 久しぶりに入った自分の部屋は、綺麗に掃除されていて生活感の欠片もなかった。ベッドにはシーツが被せられ、床には脱ぎ散らかした服も、遊びかけのゲームソフトも、ボードから外したエフェクターやパッチケーブルも何も無い。


「……あれ?」

「クローゼットの中じゃない?」


 何も言っていないのに、泉海は俺が何を探しているのかすぐにわかったらしい。

 言われた通りにクローゼットを開けると、探していたものが出てきた。湿気でややカビ臭くなったそれのチャックを開け、中身を取り出す。


「さすがに弦錆びてんなあ。音出るかなこれ」

「うわー、そのジャガー久しぶりに見た」


 かつてメインで使っていたエレキギターだ。実家を出るとき、もう音楽はやらないからと置いてきた愛機。休日の暇つぶしでギター自体はたまに触っていたが、いまの住居用に中古の安ギターを買っていたから、こいつに会うのは本当に何年ぶりだろう。

 何しろ今日俺が実家に帰ってきたのは、こいつを取りに来る目的もあったのだ。


「披露宴はそれで弾くの?」

「さすがにな」


 披露宴の余興で何をするか。選択肢は色々あるが、俺にできる芸なんてやっぱりこれくらいしかない。

 むしろこのときのために中学生の頃から練習してきたんだと思えば、バンドの未練に思い悩んでいた自分への供養にもなるだろう。

 といっても、弾かなさ過ぎてもうすっかり下手くそになってしまった。また一から練習し直しだ。


「教えてほしかったらいつでも聞いてね」

「うっせー。一人でなんとかしてみせるわ」


 生意気を言う妹を尻目に、俺はジャガーをケースへ戻した。そして他の荷物もまとめて、ひと足先に出発する。


「お兄ちゃん、いってらっしゃい。気を付けてね」

「おう。お前もあんま無理すんなよ」


 互いに手を振って、玄関口で俺たち兄妹は分かれた。

 背中に当たるボロボロのギターケースの感触が妙に懐かしい。でもどこか新しい、不思議な気持ちを抱えて、俺は駅に向かって歩き始めた。


 長閑な晴天の住宅街。線路沿いに歩く駅までの道。このギターを背負って、重たいエフェクターボードを引き摺って、この道を何度歩いたことだろう。十年以上前から何度も。

 バンドを辞めて、就職して、社会における自分の足りなさを嫌というほど思い知らされてきた。その度に、何十万歩と歩いてきたあの道は無駄足だったんだと、俺は十代の貴重な時間を棒に振ったんだと、後悔ばかりしてきた。

 いま、同じギターを背負って、また同じ道を歩いている。でもきっとこれは無駄足なんかじゃない。過去に歩いてきた道だって、ぜんぶ今日に繋がっていたんだ。

 辿り着く先は、たしかに昔思い描いていた景色とは全然違うものだった。自分自身の姿だって、社会への反抗心を叫んでいた「はみ出し者」のあの頃とは、まったく変わってしまった。

 リハビリ練習をしてまた俺がギターを弾けるようになっても、きっと出力される音は前とは違う。角が取れて小ぢんまりまとまった、実につまらないサウンドになることだろう。

 でもいまの自分には、そんな落ち着いた音の方が何故だか心地良いんだ。いま俺に吹きつけている、静かな片田舎のそよ風みたいに。


 我ながら年老いた考え方になってしまったものだ。そんなことを思いながら、俺は最寄り駅のホームで電車が来るのを待っていた。真っ直ぐな線路の向こうの消失点。何度も見てきた他愛のないその景色を、しっかりと目に焼き付けながら。


〈完〉

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