2.歯車リファレンス
数日後、俺は自宅の洗面所で鏡と向かい合っていた。まるで別人と見つめ合っているようだった。
すっかり短くなった髪。前髪が無くなって視界が広がった。入れていた緑のメッシュも黒染めした。ピアスも外して安物のリクルートスーツを着れば、どこにでもいる就活生の出来上がり。
何の実績も話術も特徴も無い。自分が品行方正な若者であると、果たしてこれからどんな嘘で尤もらしく塗りたくれば良いのか。悩ましいばかりだ。
企業の説明会やエントリーシートの提出なんかは、ライブ活動末期の傍ら既に始まっていた。今日は初めて対面での面接に挑む日だった。
ああ、嫌だ。どうせ空っぽになった自分の生き方を、歳食った面接官たちに詰められるんだろう。
何に精を出して生きてきたのか、それでどんな成果が得られたのか。その質問に答えられるような何かを、俺は持っていない。ただ場末のライブハウスでチャカチャカと弾き歌っていただけなのだ。滑稽に一生懸命なふりをして。
「駅まで送っていくから。何分の電車?」
リビングから母親の声がした。この日は土曜日で、父親も同じくリビングで寛いでいる。高校生の妹・『泉海』は2階の自室に居る。
ちょうどいい。ここで自分の生き方に一線を引こう。俺は自然とそう思い至った。
ネクタイをしっかりと締め、リビングに居る両親の前に立つと、俺はすぐに頭を下げた。
「いままでわがままさせてくれて、ありがとうございました」
「……どうしたの急に」
戸惑う母親の顔。父親も無言で俺の方を見ている。
元々放任主義な家庭だった。俺も泉海も、兄妹揃ってギターを弾き、好き勝手にバンド活動をしてきた。両親はそれに対して何も文句を言ったことなどなかった。
妹のバンドの方が上手くいき始めて焦った俺は、一世一代の覚悟で音楽専門学校に進学した。バイトして学費も自分で何とかするつもりだったが、結局両親がほとんど払ってくれた。
専門学校なんて、その先に繋がらないなら金も時間もドブに捨てるようなものだ。そして十中八九そうなるであろうことを、俺も両親も入学前からきっとわかっていただろう。
それでも両親は、俺が無謀な進学をすることも、その学費を肩代わりさせることも、何ひとつ咎めなかった。
そして俺は大方の予想通り、親の金で2年間遊んだだけの恩知らずになった。そんな親不孝者の子どもとは、今日ここで訣別するべきだと思ったのだ。
「俺、もうバンドは卒業したから。大した企業には入れないだろうけど、せめて自分一人の力で生活していけるように努力する」
「……」
「仕送りとか……できるかわかんないけど。もう迷惑はかけないようにする。その前に礼だけは言っておかないとと思って」
「生意気な。親が子どもの世話すんのを“迷惑かける”とか、大人ぶんのは十年はえーよ」
「車行ってるよ。早くしないと面接遅れるでしょ」
父親も母親も、俺の重い言い方を遇らうように軽く答えた。やっぱりウチはこういう家だ。でもきっと心の内ではちゃんと受け止めてくれているだろう。
「……お兄ちゃん」
母を追って廊下に出ると、いつからそこに居たのか、泉海が気まずそうに話しかけてきた。どうやら盗み聞きされていたらしい。
こいつは変に真面目で、義理だの何だの、面倒なものをいちいち気にする性格だった。
最初の頃は俺がギターを教えてやったり、バンドを組むのを手伝ってやったりしたこともあった。それがいつの間にか追い越され、いまや妹たちのバンドの方が事務所に所属するプロアーティストになってしまった。
その頃から泉海は、俺に対して引け目を感じるようになったらしい。きっかけは数年前、一度俺がうまくいかない鬱憤をぶつけてしまったことだ。弓削と大木に「年下相手にダサい姿を見せるな」と嗜められ、そのときの兄妹喧嘩は収まった。だが泉海自身はどんどん上のステージに登っていくものだから、いまでも俺と顔を合わせるのが気まずいようだ。
「俺もうバンドマンじゃなくなったから。変な気違うなよ」
「……ごめん」
「だから気遣うなって」
泉海は泣きそうな顔をしていた。正直泣きたいのは俺の方なんだが。
とはいえこれから面接に向かうのだから、そうも言っていられない。何に対して謝っているかもわからない妹を放って、俺は玄関を出た。




