1.アタックタイム
幕間の薄暗いステージの上で、重たいエフェクターボードを広げた。部屋の片付けは苦手だが、このボードの上だけは整然としている。複雑な回路もスノコや結束バンドを巧みに使えばすっきり見える。
場内に薄く流れるBGMを掻き消すように、センドリターンで繋がれたJCのアンプが金属音を鳴らし始めた。
ギャラリーはとくに何か反応を見せるでもなく、気ままに談笑したりカウンターでドリンクを注文したりしている。耳を劈くような鋭い音にも、この環境に慣れている彼らは動じない。
何の感慨も非日常感も無い。何百回と目にしてきた光景。ただ一つ違うのは、この景色も今日が見納めだということだ。俺たちのバンドは、今日このステージが終わった瞬間に解散する。これが最後のライブなのだ。
「じゃあ、準備できたら合図ください」
「はい」
ペンライトを手に、セッティングのサポートをしていたライブハウスのスタッフが、愛想のない声で話しかけてきた。彼にとってもこのステージは何ら特別なものじゃない。毎日の平坦な仕事のうちの一つでしかないのだろう。
スタッフがステージを降りて奥のPA席へ戻っていく。俺はペダルタイプのチューナーを踏み、振れる音名の表示を見つめながら、ギターの細かいチューニングを確認する。
ステージの下手を見ると、金髪マッシュヘアーに黒縁メガネをかけた男が5弦ベースを構えている。バンド結成時からお決まりのステージ衣装、水玉ワイシャツと蝶ネクタイを着けたメンバー、ベーシストの『弓削』だ。落ち着いた様子で指のストレッチをしている。
その後ろでは、対照的にやや清潔感の無い髭面の黒髪オールバック男が、緩いタンクトップを着てドラムチェアーにどっしり構えている。同じくメンバーである『大木』だ。目を瞑ってイヤホンでメトロノームを聴きながら、テンポ感を確認している。
いずれも緊張している様子はない。そして言葉を交わすこともなく、準備が整ったことを目配せの合図で確認する。
俺は客席側に向き直り、PAに向かって右手を挙げる。すると間もなくBGMがフェードアウトし、スモークが焚かれると同時にライブハウスの照明が暗くなる。それから間を置くことなく、大木のオープンハイハットによる4カウントから1曲目が始まった。
ハイテンポな8ビート。クランチに歪ませたギターで、オープンコードのストロークを掻き鳴らす。息を合わせるようにベースが8分音符のルート音を2本の指で刻む。ドラムはクラッシュシンバルを4つ打ちしながら、力強くリムショットのスネアとバスドラムを鳴らす。
16小節のイントロを終え、歌に入る。
――ああ、こんなもんなのか。
前ノリで激しい曲調に反して、俺の脳内はひどく冷静だった。
がらんとしたホールが薄暗い中でもよく見渡せる。疎らな観客。俺たちを見に来た客は数人。あとは共演者とその知り合いが何人か。バーカウンターのスタッフも暇そうにしている。
これが俺たちの最後を飾るステージだ。何の感動もない。何の奇跡も起きない。誰の目に留まることもなく。誰の耳に刺さることもなく。この閑古鳥が鳴く小さなライブハウスで、俺たちの音楽は終わっていくんだ。
なまじ地下でしっかり防音されたこの環境が、自分たちの作った音楽なんて、世界のどこに広まることもなく、一瞬の雑踏のうちに消えていくのだと、余計に思い知らせてくる。
それでも演奏は安定している。こんな風に違うことを考えながらでも正しい歌詞が歌えるようになった。ギターのことなんて何も考えなくても勝手に手が動くようになった。無駄に動き回ってパフォーマンスしても、演奏がぶれることはなくなった。
でもそんな長年培ってきた特技は、このステージが終わった瞬間から金輪際、何の役にも立たなくなる。中学生の頃から自分のすべてを費やして打ち込んできたことが、ただの「お遊び」に変わる。
いや、実際には最初からずっとお遊びだったんだろう。ただ自分は健気に努力をしていると、思い込みたかっただけなんだ。
「……最後の曲です」
与えられた最後の30分枠。MCは一度も挟まなかった。最後にできる限りの曲数を詰め込んで、自分たちが作ってきた曲を供養してやりたかった……と言えば聞こえは良いかもしれない。でも実際には、もうおどけて、あるいはカッコつけて喋れるような精神状態じゃなかっただけだ。
イントロ、Aメロ、Bメロ、サビ……最後の曲も淡々とセクションは進んでいく。そしてアウトロ。曲の終盤を察して、照明スタッフが気を利かせた明るめのライティングにフェードさせていく。飛び散った自分の汗が照明を反射して眩しい。メンバー二人と目が合う。最後のキメを合わせる。
「ありがとうございました」
人数にしては大きめの拍手が響き渡る。温かいギャラリー。もしそこで事切れることができたら、幾分か気休めになったかもしれない。
でも実際にはその後すぐ、息を吹き返すようにBGMと観客たちの喋り声が再開される。その中で俺たちは惨めに自分の機材を片付けるのだ。
そして出番を次に控えたバンドのメンバーたちが、「早く退け」と言わんばかりの視線を送ってくる。俺はとりあえず電源もシールドもごちゃごちゃと無理矢理ひとまとめにボードの上に置き、ギターも一緒に抱えて控え室へと退散する。
手狭な控え室で荷物をまとめ、余ったステージドリンクの水をひと口飲んだ。同じく自分の機材を片付け終わったベースの弓削が声をかけてくる。
「お疲れ」
返事をすることができなかった。どんな言葉が相応しいのかわからなかった。どこを褒め称えようと、どこを反省しようと、もうこの先に俺たちのステージは存在しないからだ。
笑うことも泣くこともできないまま自分のギターケースを見つめていると、ドラムの大木が俺の肩を叩いてきた。もう5年近い付き合いになる。言葉にしなくても、俺がどんな心持ちでいるのか、こいつらにはバレてしまう。言葉を紡げない俺の様子を察して気を遣っているんだろう。
「いくら?」
「とりあえず一人8千円で」
「ほい」
惨めな光景は続く。ライブが終わった後、出演費の精算だ。一時期は黒字だったこともあった。雀の涙だが、それでも自分たちの演奏で小銭が貰えて気持ちが救われたこともあった。
いまは逆だ。安物の長財布から、自分の生気とともに札が抜けていく。それも今日で最後だが。
「まあ近いうちにさ、打ち上げでもやろうや」
「就活の相談会も兼ねてな」
「いやそれは酒が不味くなるって」
「どうせロクな就職先見つからないんだから、傷の舐め合いだよ」
「縁起でもないこと言うなバカ」
俺以外の二人は妙に明るかった。俺がひと言も発せないものだから、無理して賑やかに振る舞っていたのかもしれない。
ともかくその日は飲みにも行かず、すぐ解散した。情けない限りだが、ライブ代の支払いで飲みに行けるような手持ちが無くなってしまったからだ。
虚ろな気持ちで一人帰路に就く。
カートに括り付けたシールだらけのエフェクターボード。背中には使い古してあちこち破けたソフトのギターケース。その大荷物を、バンドへの未練とともに引き摺って歩く駅までの道。
その人生の無駄な荷物を、体ごと混雑する夜の下り電車に押し込む。車内には、社会のため身を粉にして一日働いてきたサラリーマンたち。二人分以上のスペースを大荷物で潰すこの遊び人は、彼らから「無駄に場所を取りやがって」と白い目で見られる。
決して心地良いものじゃない。でもそのすべてが見納めになるこの景色を、俺はもう少し目に焼き付けておくべきだったと、後になってから思った。




