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95.馬車の中で:side.エミリア


 舗装されている道は広い。馬車がすれ違っても平気なくらい。その広さをもって、アルテンリヒトとエステマリアを行き来している。1面は平原が広がって、時折畑や牧草地が現れる。牛が点在したこの長閑な空気がエミリアは愛していた。エステマリア領と言うが、正確にはアルテンリヒト領のエステマリア地域。アルテンリヒトのように、都会では無い人々の暮らしが色濃く彩られるこの地域。風に乗る家畜の香りと、草木の香り。王都生まれ、王都育ちはこれを田舎と言って笑うだろう。


 実際に学園ではそれを馬鹿にする人たちもいる。侯爵家であるが故、あまり表立って言わないが時折陰口で言われることはある。リドクリフに対するエミリアのそれも有名な話で、随分と尾鰭え鰭がついて泳いだものだ。なまじ間違ってはいないので否定もできない。その上で暴君フィリップの話がさらに噂に花を咲かせる。


 それを紡がれる度に、アルテンリヒトは毒を飲まされている気分になった。


 エミリアの知っているフィリップは真っ直ぐすぎて融通の効かない人の認識だ。厳格で、曲がったことを嫌う。下に妹も弟も多いので、扱い方は分かるが可愛がり方を知らない人。常に冷たい瞳をしていて、あの瞳に感情が乗ることはあるのだろうかと幼いながらにも思っていた。


 人が変わったと思ったのはリアラの母、アリステアとの出会いがきっかけだ。今まで剛健実直を地に行くような人だったのに、ガラリと変わった。その瞳には熱があったようななかったような、空虚だったような気もする。それでも、アリステアを見た時にとろりと蕩けた甘い表情を酷く覚えている。感情の乗らない瞳が、酷く濁ったような色をする。アルテンリヒト特有の薄い色合いが濃くなってうっとりとアリステアを見つめる。そんなフィリップをエミリアは見てしまった。



――気持ちが悪い。この人は誰だ。



 そう思った瞬間、エミリアはその時からフィリップを避け始めた。だが、屋敷ですれ違うフィリップは至って普通で、いつもの厳しくも煩くて、優しくて大好きな兄になるのだ。アリステアがいない時だけ。しかし、アリステアの名前やそれに起因するものを聞くと咄嗟にその瞳になり、会話が成り立たなくなる。会話をしてても違和感が強く、自然と口を閉ざしたくなる。


 1度、兄が統括していた時代のエステマリアに来たこともある。その時はひどく荒廃しており、不正を嫌い、真面目を貫く兄がこんな治世をするなんて信じられなかった。きっと何かがある。そう思って、当時のエステマリア邸に足を踏み入れると、義姉のアリステアが出迎えてくれた。豊かな金色の髪に、琥珀色の綺麗な瞳。小ぶりだと言うのに赤く熟れた綺麗な口元。ツンと上向いた小ぶりな鼻。庇護欲を唆るような華奢な体つきだというのに、誘っている様に女性の象徴だけは大きかった。


 幼いエミリアでさえ、この人は絶世の美女であると分かる。兄もこの美貌に負けたのだろうかと思ったと同時に恐ろしくて足がすくんだ。こんなに美しいと言うのに、あの時はどうしてか底知れない恐怖を感じたのだ。あの日はスヴェンダとミステリアが一緒にエステマリアについて来ていたからそのふたりの後ろに隠れて、アリステアを見上げた。当時はまだ彼女が懐妊してすぐだったのだ。おめでたい事だからと、呼ばずにこちらから行ってお祝いをしたのだ。


 その日から数日滞在したエステマリア邸はひっそりとしていた。今みたいに、使用人たちで賑やかなエステマリア邸ではなかったはずだ。まるで、終末を迎えているように息を殺して、伺っているような感覚。あそこにいるだけで息苦しくて、スヴェンダとミステリアにもう帰ろうと強請った。


 数日滞在していた中で兄と出会ったのも多くなく、何故か兄は最後に見た時よりもやせ細っており、どこか虚ろだった。滞在時はずっと体調が優れないと言うことでアリステアが仕切っていたのだ。それも恐ろしく感じたひとつである。


 スヴェンダもミステリアも何か言いたいことがある様子だったが、エミリアがあまりにも怖がってしまったので、その当時はさっさとエステマリアを退散した。


 それがエミリアの知る最初で最後のエステマリアだった。


 それに比べて今回滞在したエステマリアは随分と豊かになっていた。街を歩けば人々は声を張って商売をする。王都やアルテンリヒト程の都会では無いのに活気がある。ライラックも貿易の中間地点ということもあってから随分と人で溢れていた。それだと言うのに穏やかで、心地のいい人混みで海風が気持ちよかった。


 近くの海岸を開拓するのだと聞いた時はなるほどと頷かざる負えないくらいに綺麗だったのを思い出す。あそこに別荘を作りたいとぼんやりと思ってしまうほどに景観も良かった。あれが本来のエステマリアなのだと言われてしまえば、やはりエミリアがは6年前に見たあの景色は異常だったのだろう。


 兄が没して良かったのか。義姉が没して良かったのか。幸いだったのは、王家はアルテンリヒトには一切の咎を出さなかったことくらいだろう。普通であれば連帯で何か罰があったはずだが、アルテンリヒトはエステマリアの一切の決定権を王家に託してしまうことで、その咎を逃れた。産まれたばかりのリアラを手放し、豊かなエステマリアを手放す。リアラは幼いのでその代理人としてスヴェンダとミステリアが動くことはあるが、それはあくまでも代理人であり実際は最終決定件はリドクリフにある。それを知っているのは、リアラを除くその当事者だ。


 将来リアラは伯爵としてあそこの領を統治する。その勉強を今からやっている。そして、その家庭教師を選んでいるのは全て王家。決定権も王家だ。アルテンリヒトはリアラを養子としておきたいがそれを出来ないのもそれがある。エステマリア伯爵令嬢として、彼女は国の配下に置かれる。リドクリフとの婚約は予想外ではあったが、恐らく今の王は自分の息子、同じ歳の第2王子あたりを彼女に宛てがう予定だっただろう。そうして、エステマリアを公領にする予定であったし、現状その予定である。


 今はまだ、アルテンリヒトの手を介してる部分もあるため、血縁者として彼女を可愛がることは出来るが、遠くない未来、彼女は国の所有物となる――



「――気持ちのいい話じゃないわ」



 ぽつと零す言葉にスヴェンダとミステリアはぎょっとした。同じ馬車に乗ってるのだから零した独り言は嫌でも拾ってしまうのだろう。しかしふたりは空気を読んでその独り言に返すことはない。少しだけ苦笑いを浮かべて聞かなかった事にしてくれるのだ。


 仲良くなった可愛らしい姪っ子。人を惹き付けて止まないアルテンリヒトの末娘。兄をどうやってか廃人に追い込んだ美しくも怖い義姉にそっくりな妹。その子は健やかに美しく成長するだろう。それはもう、人を廃人にさせてしまう義姉に似てしまうほどに。将来が怖くなるくらいに楽しみな子。


 義姉はアルテンリヒトを滅茶苦茶にした。それでも、エミリアは彼女には不幸になって欲しいとは思っていない。他者を巻き込んで幸せにしてくれるあの子が、領民を思いやって他を導くあの子が、義姉のように恐ろしくならなければそれでいい。それだけでいい。あそこの領が今後とも幸せであれば、そこがアルテンリヒトと離れてしまっても問題ないのだ。



「今度会う時はあの子と何して遊ぼうかしら」



 再び零した言葉にスヴェンダとミステリアは再び目を丸くしたが、エミリアの落ち着いた横顔に穏やかな笑みを浮かべた。

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