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迷い鯨

作者: 雉白書屋

 鯨。鯨。河口付近に迷い込んだ一頭の鯨。

 発見後、川の名前から『ミドちゃん』と誰が初めかわからないが、そう呼ばれ

近隣住民を筆頭に、日を跨ぐごとに多くの人々を呼び寄せ、親しまれた。

 潮を噴き上げれば、おおー! と歓声が上がり

それに負けじと声を張り上げるのは屋台の主たち。

 ミドちゃん饅頭。

 ミドちゃんTシャツ。

 ミドちゃんぬいぐるみ。

 ミドちゃん缶バッジ

 突貫工事感が否めないが、お祭り騒ぎにその指摘は無粋というもの。

 集まり沸き立つ人々。楽しみ半分心配半分。あるいはもっと偏りがあるか。

いずれにせよ、早く誰か広い海に返してあげてと願う。ただ願う。

 役に立たない無力な声は時間が経つほどに怒りを帯び、やがて市長のもとへと届いた。

 誰かのピンチはチャンスなり。

この問題を颯爽と解決すれば次の市長選もその次も安泰。

そうだ、選挙演説には鯨の着ぐるみを連れて行こう。

そう考え笑う市長。方々にお願いという名の圧力をかける。

 しかし、このミドちゃん。『ちゃん』などとついているが、赤ちゃん鯨ではない。

 間近で見れば恐怖心を抱く程の巨体。

力士も遠目から見れば可愛いものだが

近づくだけならまだしも相手にするとなれば愛想笑いさえ消え失せる。

 船で近づき、沖へ誘導しようにも上手く行かず。

 ダイバーがどうにかして縄でも括り付け、大型船で引っ張ろうか。

しかし、浅瀬だ。その大型船は入れない。それに、見るからに弱っている。

 当然だ。重さ数トン、維持するための餌も数トン。

その餌がないのだから時間が経つごとに飢え弱り

それを見ながら屋台飯を頬張り肥える者ども。


 カメラの前ではアナウンサーが笑顔で紹介。

右手を上げ、バスガイドのように「ご覧ください。連日人気のミドちゃんです」

 テレビ越しに見た者は可愛い、早く助けろ、傷一つつけるなと注文を付ける。

 震え上がるのはやはり間近で見る者たち。船の者。

 触れれば責任を負わされる。

『最後にボールに触れた奴が片付けな』ふと頭いよぎる小学生の頃の思い出。

走馬灯のフライングか、こんな小型船ではひっくり返されるに決まっている。

ただウロウロと監視するのみ。死を待つハゲタカのよう。


「ミドちゃん頑張れー!」「負けるなー!」


 その声は鯨に届くが意味までは伝わらない。

 今した潮吹きは返答ではなく、命の輝き。

 言われるまでもなく、頑張っている。

 その声援は蠅の羽音、死神のぼやきと同等。


 やがて、そうかからず終わりの時が来る。

 動かぬ鯨。波に揺られ横向きに、仰向けに、顔に掛ける布無し。


「ありがとーう!」


 誰かが叫び、つられて同じく叫ぶ人々。

 ありがとうありがとう。何がありがとうなのか自分でも良くはわからず

流す涙の理由もわからず、ただただ一体感が心地良い。

 献花だ供物だ追悼だと首から売り箱ひっさげ歩く商売人。

 購入者。花束、ぬいぐるみ、おにぎりに死んだ魚を海に投げ込むも

鯨には届かず波に押し戻され川の縁に溜まり沈み、ヘドロにまみれ垂れ流した糞まみれ。


 一日経てばなんてことはない、台風一過。

屋台は消え失せ、後に残るのはゴミばかり。

 問題も残る。鯨の死骸の処分。その方法。

そのままにしておけば腐り、環境に悪影響を及ぼすと専門家。

 自然の摂理、命の循環とも言ってられない。本来、あれが死ぬべき場所ではないのだ。

 鯨の死骸。慣れない物を食えば腹も壊す。漁業に影響もある。

 よって市長、再びせっつかれる。

 ええ、はい、ええ、はい。はいはいはいはい。

 胸を痛めたような顔をするが知った事ではないというのが本音。

 どうせ死んでいるんだ。解体なりなんなりすればいい。だが、その費用はどこが出す?

 死骸が溶けて消えると思っている市民は、そんなものに税金を溶かすなと声を上げる。

 批判を恐れ、結局とった行動は同じこと、いざ静観。

どうせ興味も薄れていく。それは正解。

 

 しかし、鯨は死してなお、いや、より存在感が増していく。

 その理由は腹に溜まったガス。

人の水死体も同じことではあるが、さすが大関。そのサイズまさに規格外。

 膨張し続け、白い腹は今にも裂けんばかりに丸みを帯びる。

 肉割れが起き、その間にうっすらと赤みが見える。

 膨らみ、膨らみ、膨らみ続け、ついには背が浮いた。

 プカプカプカと海に浮かんでいた鯨は空に浮かぶ。

 その姿は異様そのもの。瞳孔を無くした血走った眼球。

 オディロン・ルドンの絵画を想起。知る者も知らぬ者も震え上がらせた。

 風に流されたのか、それとも今は見る影もない

熱の入った応援のお礼を言いたいのか町の方へ。

 悲鳴が飛び交い、慌てふためく。

 マスメディアは図やCGを交えて被害の想定を事細かに説明する。

ただし、誇張して不安を煽ることは忘れない。大事なのは視聴率。


『爆発し、臓物が降り注いだ地域の住民はその強烈な臭いに気絶し、嘔吐し

百年は臭いが取れないでしょう。あと死ぬかもしれません』


 このような調子。それを真に受け恐れおののき、町を出る者。

あっちへ行けと手で扇ぐ者。遠ざかった、近づいたの繰り返しに一喜一憂。

 その間も鯨はさらに膨らみ、そして上昇し続ける。

 やがて隣国が声明を出す。


『もし、我が国に飛来するようなことがあれば制裁を加える』


 無茶苦茶な言い草だが騒ぎが国内から国外へ広まれば

何かしらの声を上げたくなる。


 素知らぬ鯨はまだまだ膨らみ続ける。

膨らみ膨らみ膨らみ、皮膚が薄くなり、やがて関心もまた薄れる。

 芸能人の不倫のニュースがそのとどめ。今は遠く、その鯨に構う者はいない。

気にするのは天に召された者より、地で這う弱った者に石を投げるその事。

 空に浮かんだ鯨はさらに高く高く膨らみ膨らみ……。



 ある夜、庭で子供が空を見上げ、祖父母に訊ねる。


「ねえ、お空のあれは何?」


 祖母は答える。


「お月様の弟よ」


 祖父は答える。


「魔王の母体さ」


 子供を怯えさせるのは伝承にありがちなこと。

 子供はそれを心のどこかでわかっていながら、怖がってみせる。

それを見て『もう、お祖父ちゃんったら』と家族が笑う。子供も笑う。みんな笑う。


 そしてたまにだが、ふと空を見上げた時、恐れる。

 

 あれは眼球。悪人を見ているんだ。


 どこかそう感じるのは、その者の受け取り方のせい。

 あれは鯨。ただの鯨。勝手に名をつけられ、忘れられた鯨。

大気圏を越え凍り付き、宇宙に浮かぶ、ただの鯨の死骸。先祖の業でも何でもない。

 それでも見上げた時、やはり、どこか後ろめたい気持ちを抱かずにはいられないのだ。

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