仮面舞踏会 6
「本、人……?」
大公とネイハムが怪訝な顔をする。
すると男が一人、前へと出てきた。
それは、さっき陛下に治療をしていた薬師だった。
まだシャツや手に血糊が付いている。
その顔をよく見てフェリははっとした。
……この人、知ってる。
いつか血を止める草を教えてくれた人……。
グリッグが言った。
「契約書にサインがあるなら、本人に訊いてみればいい。
この者が、そのレピオタ・ドーだ」
「………は?」
大公はあんぐりと口を開けた。
グリッグがもう一度言う。
「間違いなく、本物のレピオタ・ドーだ」
男は伏目がちに話し始めた。
「私は薬が専門です。先程のような薬も作りますが、どちらかと言うと、毒の方が得意です。
皆さんもそちらをよくご存知でしょう。
レピオタ・ドーは、紫の手を持ち……」
大公が息を呑む。
男の掲げた両手が、緩やかに紫色に変わっていく。
「子供の背丈に……」
男の体が縮んでいく。
「老人の顔」
そして男の顔が……干からびていく。
あちこちで悲鳴があがり、重い音がする。気を失った者がいるらしい。
さすがに大公やネイハム、騎士たちは動かない……というより、血の気の引いた顔で動くことができなかった。
こどものような背丈に変わった男にグリッグが紙を手渡すと、彼はちらりと見ただけで受け取らず、ぴょんとすぐ側の黒豹の背に乗った。
「私はたしかに、時々この世界の者と契約する」
声だけは今まで通りだった。
「や、やはり……」
大公が掠れた声を上げた。
「だが、私の契約書はこれとは違う」
レピオタ・ドーは言った。
「紙には書かない」
そして紫色の細長い指を一本伸ばした。
「その者の顔に記す」
「あ……」
ざわめきが起きた。
「あ、あれは……」
ラムズ公爵夫人テルシェは眉をひそめた。
みんなが見ていた。
テルシェを。
その顔を。
「公爵……夫人…………」
隣の夫人が、周りの人々が後退りする。
美しいテルシェの顔に、不気味な文様……紫色の蜘蛛の巣が浮かび上がっていた。
「公爵夫人、レピオタ・ドーから何を受け取った」
グリッグがテルシェにひたと目を向けて尋ねた。
「なんのことです?」
「夫人の顔に契約書が浮かんでいる」
テルシェは微かに眉をひそめた。
「この者を知っておろう」
「…………」
「言い逃れは出来ない。
何を受け取り、何を差し出した?」
テルシェは黙ってレピオタ・ドーをちらりと見た。
「その者は、実家ダイアス家に出入りしている者。
目にしたことはあるが」
「ほお、昔からの客か」
「客?」
テルシェはうっすら笑みを浮かべた。
「その者は昔から実家の伯爵家へ仕えているだけ。
夜露をしのぐ場所を与えてやったので、その礼を尽くしているだけだ」
グリッグはそうなのか? とでも言いたげに、レピオタ・ドーへ顔を向けた。
「契約だなど……。
その者には、何も、金も貨幣も宝石も渡したことはない。
我が実家の伯爵家に奉仕しているだけだ」
テルシェが重ねてそう付け加えると、レピオタ・ドーが口を開いた。
「もちろん。
金? 宝石? そんなものはいらない。欲しいのはもっと別なもの。それを契約して手に入れる。
ダイアスの者は、昔からの客だ。我らの気配を感じやすいのだ」
「……馬鹿馬鹿しい」
そう答えたテルシェにグリッグが短く笑って言った。
「話が噛み合わんな」
「噛み合わずとも、契約は契約」
紫色の指が伸びる。
「前の男は、目を差し出した」
初めてテルシェの顔が曇った。
同時にあっ、という声がいくつかあがる。
フェリは知らなかったが、テルシェの祖父は失明していた。それを覚えている者たちが震えだした。
「脚をくれたのもいたな」
「声を差し出した者も」
年配の貴族のいく人かが、蒼白になっている。
「今回は魂だ。
楽しみに待っていたぞ」
「世迷言じゃ。
そんな物、渡せるわけがなかろう。
夢物語じゃあるまいし」
テルシェは悪びれない。本当に、契約ではなく、実家ダイアス伯爵家への奉仕だと思っているようだった。
「では仮に奉仕だとして、この女に何を渡したのだ」
グリッグは豹の上で体の割に長い手足を投げ出しているレピオタ・ドーに訊いた。
「そうだな。
話をするなとは、言われてないな」
テルシェは無言だ。
「毒だ」
レピオタ・ドーは簡潔に言った。
「人を殺せる?」
「もちろん」
そして不気味に微笑む。
「眠るように死ぬ。苦しまない」
「いつ?」
「ちょうど十八年前の五月にひとつ。
そしてその十年後の六月にもうひとつ」
リンジーがはっと顔を上げた。
まさか……。
小さく呟くと、テルシェに詰め寄った。
「十年前の六月に入ってすぐ、我が母上は亡くなった。
……そして貴女が公爵夫人になった。
……まさか。
まさか、……こ、これは、これはいったいどういう事だ!」
リンジーの剣幕に、テルシェは扇を広げ顔を背けた。その扇をリンジーが叩き落とす。
「どういうことか答えてもらおう」
そこへランドルも声をかけた。
「私の母もベッドで眠っているうちに亡くなった。
ちょうど十八年前だ」
テルシェはきっとランドルを、リンジーを睨みつけた。
「大きな間違いが起きたのだ。
本当なら、私が陛下の結婚相手だった。
一番賢く美しい、私が。
だからそれを正しただけだ」
広間は静まりかえった。
蒼白になったランドルが口を開く。
「しかし、母上が亡くなっても、陛下はお前を選ばなかったな」
テルシェの口元が歪んだ。
リンジーが叫んだ。
「それで我が父の元に参り、邪魔な母上を殺したのか!」
テルシェも言い返す。
「おかしいではないか!
私が側室など有り得ぬ!
私が全てにおいて勝っているのに!」
その時。
広間の柱時計が鳴り出した。
レピオタ・ドーが豹の上で手を伸ばす。
「日付が変わるな」
そう言って指をテルシェへ向ける。
「お前は冗談とでも思っていたのか知らないが、
あのとき、十八年後に魂を渡すよう言ったら、構わないと答えた。
私は決して忘れない。
さあ。
約束の時間だ」
時計が規則正しく鐘を打つ。
十回、
十一回、
……十二回。
テルシェの体が崩れ落ちた。
悲鳴が上がる。あちこちで泣き叫ぶ女性たち。
宰相が女性方を別室へ、と声をあげるが、誰も動けない。
ようやく、騎士たちが近くの婦人たちを案内しようとしたが、そこでまた、新たな悲鳴があがった。
ラティーシャの周りにいた騎士が動きを止めている。
「なな、何?
どうしてそんな目で見るの?」
自分を見る人々を見て、ラティーシャが青ざめた。
蜘蛛の巣がラティーシャの顔に浮かび上がっていた。
レピオタ・ドーの声が響いた。
「ふたつめの毒薬は、娘の魂と引き換えだ。
お前の母が約束した」
「や、やめてよ。いやよ」
ラティーシャ涙を浮かべる。
誰も何も言わない。
「期限はまだある。あと八年。
それまで楽しく暮らせばいい」
フェリは思わず叫んでいた。
「だめです!
それは、だめ!」
みんながフェリを見る。
グリッグが言った。
「なぜ?
庇うような娘ではないだろう。
そもそもあなたは、その娘に虐げられ、殺されかかったではないか?」
そうだけど……。
でも、だめだ。
フェリは頭を振った。
「それでも、だめです!
母親が子供を勝手に契約に差し出すなんて、あんまりです!」
玉座の女王が動いた。
ゆっくりと立ち上がる。
「たしかにのう。
その通りじゃな。
子供は親の持ち物ではない」
グリッグはじめ漆黒の騎士団、それにレピオタ・ドーも頭を垂れる
「その子供から了承を得たわけではないのであろう?
ならその契約、無効にできぬのか」
頭を垂れたまま、レピオタ・ドーが答えた。
「…………。
大変残念……です。が、女王と姫がそう仰るなら……。
仕方ありませんな」
ラティーシャの顔の模様が薄れていく。
立っていられず、ラティーシャは座り込んだ。
「ありがとうございます」
ランドルは女王に頭を垂れ、それから振り返る。
「お情けに感謝するように」
そしてこう付け加えた。
「だが、この国の裁きは受けてもらう」
そして大公、ネイハム、薄紅色のマントをつけた騎士たちにも目を向けた。
「全員捕らえろ」