帝国の薔薇 3
そう。
去年の春のある日。
ネイハムは取り次ぎを通さず、公爵邸の奥庭に現れたのだ。驚いたラティーシャに「……警備が甘いですよ」などと軽口を叩いたが、言葉とは打って変わって顔は血の気がなく足元に血が滴っていた。
「ここに私が来たことは秘密に……」ネイハムの言葉に従い、ラティーシャは侍女にネイハムの血の跡を消させ、口の固い医者を呼んだ。
その日ネイハムは……皇子を討ったのだ。
その日からランドル皇子は行方不明だ。
ネイハムは左肩に深い傷を負っていた。皇子に斬られたものだった。
ラティーシャのもとで傷を癒しながら全てを打ち明けたネイハムに、ひとつ知恵を貸したのはラティーシャだ。
行方不明となっても、ランドル皇子を待ち望む者は多い。
しかしこの凶事が起こる前から、ランドル皇子にはある噂が流れていた。
兄のカーシー殿下はランドルによって毒殺されたというものだった。
信じている者はそれほど多くない。ほとんどが半信半疑という所だろう。
そこで、証拠となる物を出せばどうなるだろう。皇子の威信は薄れ、ネイハムを後押しする者が一気に増えるだろう。
レピオタ・ドー。
それはこの国でよく知られている御伽噺……。そこに登場する伝説の毒使いだ。
子供でも知っている、有名な怖い物語だが……。
その名前を騙った毒使がいるという。
その者が作る毒薬は、強力で、盛られた者は眠るように亡くなるという。
子供騙しの話だが、なぜかこの噂は根強く流布している。
特に貴族の間で囁かれているのだ。
伝説はともかく、その名の毒使いがいるらしいと。
もしも、そのレピオタ・ドーとランドル皇子が契約を交わした証拠があれば……。
「契約書……?」
ラティーシャの話にネイハムは首を傾げた。
「しかしどうやって……」
そこでラティーシャが出したのは、皇子の印璽が押してある白紙だった。
以前、皇子の執務室でいたずらに押した紙だ。
全く会ってくれない皇子に、ラティーシャは (ラティーシャを何より大切にする)とでも書いて突きつけようと思っていた。
押印してある書類を出されたら、どんな顔をするだろう、と思っていたのだが……。
「これを使われては?」
ラティーシャの話を聞いたネイハムの頬に赤みがさした。
「いいかもしれない」
……そこから彼がどう動いたのかは、詳しくは知らない。
しかし、しばらくしてランドル皇子の部屋から、毒使いとの契約書が発見されたと噂が流れた。
なんでも皇子の印璽が押されているという。
近々ネイハムは正式に皇太子となるだろう。
不名誉な噂が流れる皇子は行方不明のままで、遺体がでることもなかった。
遺体がないということが不思議で、どこかで生きているのでは? と聞いてみたがネイハムは首を振った。
皇子が受けた傷は、生きているはずがない致命傷だったと。
あれから一年近く経つのだから、やはり間違いなく死んでいるのだ。
死んでしまった今、多少名誉が傷ついてももう気にはならないだろう。
自分は結局、どう転んでも皇太子妃、ひいては皇后になる運命なのだ。
全くもって、帝国の薔薇と呼ばれるラティーシャに相応しい。
思えば、ランドル皇子からネイハムのように甘い言葉を囁かれたことなどなかった。まだ女性よりも剣術や学問などにしか興味のない朴念仁だったのだ。
ネイハムの方が余程男らしい。女性の価値が分かっている。
その点も、ラティーシャにとって好ましかった。
何をやっても上手くいくものね……。
ラティーシャは微笑みながらイアリングに触れた。
と、そこに侍女長がやって来た。
「ラティーシャ様、西の者がきております」
そっと囁く。
「わかったわ」
ラティーシャは立ち上がった。