グリッグ
翌日、厨房でフェリは、グリッグの淹れてくれたお茶を飲みながら、困ったような顔をしていた。
お茶の葉はもうなかったと思ったのに、どこにあったのだろう。しかもこんなに美味しい、いい香りのするお茶。
そしていつも使ってる、受け皿がない縁の欠けたカップではなく、とても素敵な茶器。薄いピンクの地に薔薇の蕾の模様だ。
テーブルの上には、舘の中で一番柔らかい毛布……といっても古くて毛羽立っていたが……を敷いたかごの中でランドル皇子が眠っている。
「なあ、今の話、わかった?」
お揃いの薔薇の蕾のティーポットで、二杯目のお茶を淹れながらグリッグが尋ねる。
グリッグは、鳥ではなく青年の姿になっていた。
フェリをじっと見ている水色の瞳は、優しそうに見える。
長い髪を一つに束ねて、生地をたくさん使ったゆったりしたブラウスを着ている。まるで貴族のお兄さんのようだ。
でも言葉使いはぞんざいだった。
「ほら、分かったなら言ってみな」
「う、うん」
「……」
「え、ええと……、昨日のあのきれいな女の人は、妖精の女王……なんだね」
「そう。お名前はエイディーン様だ」
「そして、ええと、私の……」
フェリはそこで困ったように、くちごもった。
「私の……お母さん……?」
「ああ」
「ええと……お母さん、は、お父さんと恋人になったのだけれど、私を産んでから妖精の国に帰ってしまった……んだね?」
「そうそう。エイディーン様は、すぐ戻られるおつもりだったけど、その、ちょっとあちらでのんびりされていたら、まあ、時間が経っちゃったってことだな」
グリッグは笑った。
「エイディーン様はほんの少しお休みになったおつもりだったけど、こちらでは十三年経っちまってた。まあ、時々あることだ」
そうなの?
グリッグは笑っているけれど、フェリは驚くことばかりだ。
「何か質問は?」
「あの、……ほんとに妖精……なの?」
「そう」
「グリッグと、その、緑の女王と、……」
そこでフェリは、かごの方を見た。
「ランドル皇子も……?」
グリッグは、両手をあげた。
「こいつは違う」
「私……は?」
「うん……、……まあ、違うな」
それからグリッグはにこっとした。
「でも、なりたきゃなれるけど」
その笑顔は、フェリをそわそわさせた。
「妖精に?」
「そう」
「このままでもいられる?」
「そうだな」
フェリはうつむいた。
「急に妖精とか、聞いても……」
「困る?」
「だって、妖精がいるなんて、知らなかったし……」
「え?」
グリッグは目を見開いた。
「知らなかった?」
「え?」
今度はフェリが驚いた。
グリッグは笑顔を引っ込めて辺りを見回す。
「なー。ここ、食器も食べ物も何もないから運んだけど、お前が寝てた部屋もここも、廊下とかも、燭台ないよな。それともどっかにあんの?」
「燭台……蝋燭?」
ある……。手持ちのが……。でも蝋燭はたまにしかレオンは持ってきてくれない。
「なあ、お前もしか、ここにずっと一人でいたの?、夜、怖くなかったのか」
「……え?」
「真っ暗じゃないの? 蝋燭なくてどうしたの?」
「……あ。それは……」
それはなんか、キラキラが……。
キラキラ……。
「……キラキラ?」
「それそれ」
グリッグは笑みを浮かべた。
そうだ、一人ぼっちの真っ暗い夜。蝋燭をつけなくても、いつもフェリの周りを明るく照らしてくれる光があった。
その光は、フェリが泣いたり、元気がないと、フェリの周りを瞬きながらくるくる回ってくれた。フェリはそれをじっと見てるうちに泣くのも忘れて、少し楽しくなったりしたものだった。
そうだ。ステラが怒ってフェリを探しているとき、キラキラする場所に隠れてじっとしてると、見つからなかったこともあった。
今まであるのが当たり前と思っていたけれど……。
「あのキラキラは妖精だったの?」
「そいつはな、エイディーン様が赤ちゃんだったお前の髪を撫でられる度、頬にキスなさる度、生まれてきた妖精」
グリッグは嬉しそうな顔をした。
「ちっちゃなヤツらだけど、フェリシアのことが大好きみたいだな」
「え」
「ま、あと緑の館は俺らの国と近いからな。それもあるんだろうけど」
「ふ、ふうん……」
フェリはうつむいた。
「なんだ? 顔赤いぞ?」
「だって……」
自分を大好きと言われて、フェリはなんとも言えない気持ちになった。自分を好きな者がいるなんて思ってもみなかった。それに……。
「名前、フェリシア……って」
「ん? 合ってるよな」
「うん……。合ってると思うけど……。ずっと、誰にも名前呼ばれなかったから、久しぶりで……」
そう、久しぶりでなんだか恥ずかしかった。
うつむいているフェリに、グリッグは「ふーん」と言うと、「あ、忘れてた」と続けた。
「これこれ」
フェリが顔を上げると、グリッグはお皿を一枚取り出した。え、どこから出てきたんだろう……。フェリがぼんやり見ていると、そのお皿が目の前にトン、と置かれた。
そこに並んでいたのは、いい匂いの、可愛い形の、薄茶と赤の……。
「キャウ☆!*×☆」
フェリは、自分でも意味不明の声が口から漏れ出ていた。
この匂い。甘そうな匂い。なんだかすごくすごくいい匂い……。
これはもしや……。
「ビスケット、好きか? 俺作ったんだけど。知らねえだろうけど、これで結構料理は上手い……」
フェリは座っていた椅子を後ろに蹴倒しながら立ち上がり、「好き!」と答えていた。
そこからしばしフェリの記憶が消えた。
気づいたときには、ビスケットの乗っていたお皿は空になっており、フェリは幸せな気持ちになっていた。
グリッグが真顔でこちらを見ている。
「あ……」
フェリは慌てて頭を下げた。
「ごめんね。私……、一人で食べちゃった……よね……」
しかも、立ったままで……?
フェリはひっくり返った椅子を直し、うつむいたままそっと座った。
どうしよう……。
そう思っていると、ぷっ。と吹き出すような声が聞こえ、フェリはそっと顔をあげた。
グリッグが肩を震わせて笑っていた。
怒って……はいないらしい。フェリはほっとした。
「ごめんね……」
「美味かった?」
「うん」
「また作ってやるよ」
「うん……」
フェリは改めてグリッグを見上げた。
「なんだよ」
「妖精って……すごい」
グリッグはまたぷッと笑った。
「すごいって、そこか。ビスケットかよ」
フェリはうつむいた。
だってとにかく、ビスケットは美味しかった。確かに鳥になるとかも凄いけど、ビスケットに挟んであったいちごジャムも美味しかったし、ほんとに美味しかったし、そしてランドル皇子は猫になったし。
フェリは、カゴの中の皇子を見た。
皇子は昨日からずっと眠りっぱなしだ。
そう。なにより肝心なのは、皇子がこうして生きているということだ。
フェリはそう思った。
とにかく、あの皇子が血に染まっていた瞬間から比べれば、何も悪くなってはいない。
皇子は、猫になっても天使のように綺麗だった。
皇子の髪と同じ白金のふわふわの体。長い尻尾。
目を開けたら、きっと皇子のような青い瞳に違いない。
そう思った時、長い尻尾がぴくっと震えた。
固く閉じられていた目が開く。
そう。
やはりその瞳は深い青で……。
青で……。
フェリは涙があふれ出た。
「ランドル皇子……」
瞳はぼんやりとこちらを見上げ、すぐまた閉じられた。
妖精だろうがなんだろうが構わない。皇子が死ななかった。それだけでもうなんだっていいんだ。
早くお元気になりますように。
フェリは祈った。