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薄気味

作者: 夢のもつれ

 ホラー映画が典型的だと思うが、これでもかこれでもかと人を怖がらせ、驚かせようとすると、もちろんそうなってくれる人は多いのだろうし、そうでなければ見る人はいないのだが、感覚には個人差があるからかえって笑い出してしまうような人もいる。怖い映画がおかしい映画になったりして、それに味わいがあるのだと凝った鑑賞の仕方を考え出す。こんなふうに細かく言うと複雑そうだが、まだB級ホラーの楽しみ方の入り口にたどりついたのにすぎないのだろう。


 しかし、そんな方に話を進めるつもりはない。言いたいのは怖いという感覚は強ければいいというものではないということである。食欲や性欲に伴う快感は度が過ぎれば苦痛になるが、恐怖という警戒信号のような意味合いの感覚は刺激が過ぎると警戒の弛緩、つまりバカバカしくなって笑ってしまうという結果になるのだろう。とするならば怪談も強烈さをねらうばかりではあまり能がなく、薄気味悪いくらいの方がいいのかもしれない。程度において過ぎることなく、内容においてはっきりとしない方が怖いのではないか。……いずれにしても人それぞれであろうが。


 夜中に独りでいる時にいろんな物音がするのは薄気味悪いものだ。何か考えつめていると、ピシッと木材がはじけるような音がする。自分の住んでいるところは鉄筋コンクリートに安っぽいベニヤ板をはりめぐらせたようなものだから、そんな音がするのは解せない。怖いなと思うとピシッとまた鳴る。いやなことをしやがると思うと静かにしていて、こちらの注意が逸れたのを見計らったようにピシ、ピシっと音が連続する。……まるで「さとるの化け物」のようだと思う。人が考えていることを先回りして当てていくやつだが、あれも怖いと思う人とピンと来ない人があろう。隠しておきたいことを横でぺちゃくちゃしゃべられたら愉快ではないけれど、自分で言うのもなんだが、くだらないことしか考えていないのにわざわざご苦労なことだと哀れむような気もしないではない。


 化け物の側から言えば次々と当てられた者の息が上がったところでとり殺すしかなく、長期戦になるとダメなんだろうと思う。夜中の不審な音も冷静に考えれば鳴ったからといってどうということもないが、よからぬことが起こるのではないかという不安がある。ポルターガイストの方を先に持ち出すべきだったかもしれないが、そんな洒落たものを気にしているわけではなく、例えば身内が死んだという電話が入ったりすれば虫の知らせだったかと思うだろうし、そういうときに電話が鳴っただけで情けないくらいびくっとするだろう。


 なんでもつなげて考えるのは人間の習性のようなもので、心霊写真なんかもそういうのが多いのではないか。見ようによっては人の顔に見えるものはいくらでもあって、点が3つ逆三角形に配置されていれば十分である。あるはずのない手が写っていたり、あるはずの足が写っていなかったりするのもあるが、意図的に作ろうと思えば簡単なものばかりのような気がする。ましてや今はほとんどがデジカメになっているから、その気になればまあなんでも作れるわけで、それだけに薄気味悪さを出すのはむずかしいような気がする。よくテレビで霊能者を名乗る人が「この写真には怨念がこもっています」と重々しく判断してくれたものだが、ひねくれ者の自分は何十枚と焼き増しして並べてもそうなのかなと考えたものだ。今ならパソコンの画面に向かってそんなふうに言ったりするのだろうか。自分としては「さとるの化け物」がチャットルームにいたら怖いような気がするけれど。


 昔から言われていることだが、幽霊は人につき、妖怪は場所につくそうだ。確かに自分を殺した相手に「うらめしや」と言って出て来るのは幽霊なんだろうという気はする。しかし、妖怪はマンガやアニメではいろんな場所に行って活躍しているようだから、昔はそうだったというくらいに思っていた方がいいのかもしれない。それよりは妖怪は人間とは違う外見をしているが、幽霊は足がないくらいの違いしかないと言った方がいいように思う。こう言うとすぐにあれは円山応挙が怖くしようとして幽霊の足を描かなかったからだと言う人があろうが、それは水木しげるが描いた妖怪を全く無視して妖怪談義ができないのと同じで、幽霊や妖怪のことがわかっていない者の言うことだろう。もっと簡単に自分は足のない幽霊しか見たことがないと言ってしまえば議論は終わる。


 最近はこの世に怨みを残して死んだ霊でも場所につくことが多いように思う。「心霊スポット」とかで検索すれば廃病院だのトンネルだの薄気味悪い話を大量に読むことができる。これは幽霊が妖怪化したわけではなく、要は相手は誰でもいいという無差別殺人や貞操観念のない女と同じような具合で、世相の荒廃が幽界にまで持ち込まれていると社会批評してみるのもおもしろいかもしれない。恐怖は人の心を映し出す鏡だと言えば感心してくれる人もいるだろう。そういうところに出るものを除霊してくれる者もやはりテレビで見かけたりするが、彼らの霊験の根拠となるのが仏教なのか新興宗教なのかそれすらよくわからない。ああいうのを見ると平安時代の物語なんかに出てくる病気平癒のための加持祈祷を行う僧侶や陰陽師を思い出されるわけで、人間の心の弱さはそうそう変わるものではないとまたわかったようなことを言ってみたくなる。しかし、偉そうなことを言っても昼間だってそんなところにわざわざ行くような勇気や好奇心を自分は持ち合わせていない。


 物の怪というものもある。と言うよりは「源氏物語」などにも出てくる、幽霊や妖怪なんかよりずっと歴史のある由緒正しいものだ。死んだ者に由来する死霊だけでなく、生きている者からも生霊として出てくるのは広く知られているだろう。怨みを持った者が祟りをなすときに物の怪になると考えてもいい。「怪」は気であり、気配という意味に近いが、もやもやした漂うものといったところで、それを怪異に感じる場合に怪の字を使ったのだろう。「物」はもちろん物質に限らず、人を表わす「者」も同じ語源だから「もの」と書く方がいいだろう。では、ものとは何か。非常に広い意味を昔も今も持っているから、一言で言えるものではなく、目に見える対象も見えない対象もすべて含みうる。およそ名詞である限り「もの」で代替できない「もの」はないように思う。


 ただ今の話の流れで言えば「もの」は物質とは正反対の霊というか魂というか、もう少し広く目に見えないけれど、人に作用するものが問題になるだろう。もののけ以外の例を挙げると昔はもの忌みという言葉があり、祟りを避けるために外出を控えたりした。迷信であるが、それを笑う資格のあるのは親の葬式を友引に行い、年賀状を平気で出す人だけであろう。忌中、喪中というのは死者の祟りを恐れているので、本来の仏教とは無関係である。ついでに言うと日本の仏教は葬式仏教などと言われるが、実際ふつうの人が仏教と関わりを持つのは葬式や法事といった死亡関係だけだろう。ところがそこで行われている儀式はすべて本来の仏教とは関係がない。これは何もお釈迦様まで遡って言っているのではなく、空海や道元や親鸞や日蓮といった日本での宗祖の教えから見てもそうだろうと思う。こう書いて誰か反論できるだろうか。


 もの忌みから話が横道に逸れてしまった。今でも使われている言葉をもうちょっと見ると、もの憂いやもの悲しい、もの足りないは「なんとなく」という意味を付加しているように見えるだろう。また、ものの数、ものわかり、もの心などでは世間とか自分が住んでいる世界全般を指していると理解できそうだ。ものぐさもこれに近いかもしれない。


 しかし、そんなことを言わないでも「もの」を霊魂と置き換えればすんなり意味が理解できるのではないか。もの憂さやものわかりを意識し、担っている自分ではなく、霊や魂がこの世に満ち満ちていて、それが心も体も動かしていると考えてはどうか。そうでなければ「ものすごい」の場合にはなぜ「すごい」を強めるのかわからないだろう。ものもらいという目の病気があるが、あれは誰からもらったのか。ものものしいとはどういう状態なのか。自分には霊や魂がひしめき合っているように思えるのだが。……こう考えていけばないはずの顔や手や足といった「もの」が見えても気にする必要はなく、その元になった「もの」自体の方がよほど薄気味悪いと言うべきではないか。もちろんこれはドイツ哲学に出てくる「物自体Ding an sich」のような面倒な議論とは無関係である。



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