3-15 本家と分家(1)
段々と春の陽気も広まり、分厚い布団では寝苦しさを感じるようになってきた茶月の頃。
ひときわモフモフとしたキリエに暖められた布団から無意識に這い出したリリは、ふわわ、と寝足りない心地を欠伸に代えて、ベッドから足を下ろした。
リリが動いたせいでコロンとリリの上から転げ落ちたキリエは、そわそわと布団に背中をこすりつけながら、新たに寝心地の良い寝床を整えようとしている。
「ふふっ。キリエさん、そんな体勢だと、寝癖、ついちゃいますよ」
そう笑って見せたところで、紳士でいることよりも怠惰でいることを優先したらしいキリエは、「んなぁ」と一つ鳴いて見せるだけで、再びスピスピと夢の中に落ちて行った。
まったく、呑気なお猫様だ。羨ましい。
しかしそう羨んでばかりもいられず、間もなく部屋の扉を叩いたルーアが顔を見せると、彼女の手を借りながら、日中向けの淡い色合いのドレスを着つけてもらった。
今日は茶月の九日。いわゆる、学院大茶会と言われる、全校生徒が茶会を催す祭事の日。生徒会の催す前期の茶会は、学院長以下教師も招く最も格式の高い茶会になるため、ドレスコードがあるのだ。
いつもより早めに朝食を終えて、珍しく慌ただしい寮内の賑わいの中、誰からともなく自然と一階の会議室に人が集まり、今日の次第の確認に追われる。
同じように部屋を出たリリも、途中で一緒になったトリシアと共に会議室に入ると、名簿や席次の確認、回るテーブルの確認を行なった。
既に準備は万端なはずだけれど、やはり多少の緊張があるのか、お昼が近づいても誰も席を離れず、自然と寮のメイドさんたちが気をきかせて、会議室に軽食を持ち込んでくれたりするのが、まるで文化祭の準備をしているハラハラ感を思い起こさせて楽しかった。
「お祭りみたいでわくわくしますね」
でも生憎と、茶葉の確認をしながらそんなことを言ったら、すかさず両隣から、トリシアとエマに呆れた顔をされてしまった。
「私、時折リリさんのその能天気なところが恨めしくなりますわ」
「私もです」
「え?」
びっくりとするリリの耳に、どこかで弟がため息を吐く声まで聞こえた。
リリが思っているより、大茶会って大変な行事なのだろうか?
「私、去年は、そつなく単位が取れる程度に頑張っておこう、みたいなお茶会に混ぜてもらって……後期はほら、バックミュージックとかしていましたから。ちゃんとしたお茶会に出たことってないんですけれど。そんなに大変なものでしたか? 茶会って、ただの特別課外授業の一環ですよね?」
「確かに学業の一環ではありますが……生徒会主催のお茶会は、学院内の自治を担う責任者や先生方をも招く大茶会ですもの。それに、生徒会茶会の責任者は生徒会長である王太子殿下。私達が失敗をすれば、殿下に汚名を着せることになってしまいますから、それを思うと、どんなにか緊張してもしきれないです」
だというのに、と困った顔をするエマに、リリも多少はおっかなびっくりと肩をすくめた。
言われてみれば、まぁそうかもしれない。でもあの殿下でしょう? リリが何かやらかしたところで、有無を言わさずまるっと収めてくれるに違いない。心配なんてしなくても、大丈夫なんじゃないかな?
「リリ様って、小心なのか図太いのか、時々わからなくなることがありますわよね」
「エマまで……」
「まぁリリは何しろ、平然と国家祭事に主賓のパートナーとして出席して、おくびもなく国王陛下に物申せるくらいだから。学校の祭事くらいじゃ動じないよね」
そこに声をかけたスオウの言葉には、「あぁそういえばそうでした」と、瞬く間にエマもトリシアも遠い目をしてリリから一歩離れた。
あれ、何だろう。この疎外感。
「いやいや、あれはなんだかそういう流れで。って、先輩もエマも、遠くないですか?!」
何故?! と見やった先で、「付き合いきれませんわ」と手を振るトリシアが、カップの確認をしているヘルメスの方へと向かってしまった。
「私はリリ様の隣にいる方が、なんだか平常心を取り戻せそうな気がしますけどね」
一方のエマは、そんな可愛いことを言いながら、くすくすと笑い声を溢す。
リリの目には十分にいつも通りに見えるのだけれど、言われてみれば、ティースプーンを並べたお盆を手に離れてゆく後ろ姿に、チャカチャカと食器がお盆とこすれて震える音が重なっていた。
うーむ。どうやら皆さん、平常通りではないらしい。
「でもそういうスオウ様も、うちの弟も、とっても普通ですよ?」
「私は母のせいで場馴れているし。ゼノなんてそれこそ、何千人を前にミサを行う猊下の助祭をしたり、国許では聖餐会なんかにも出てるでしょう?」
「え、そうなの?」
くそぅっ、またそれか! お父様はゼノを働かせすぎなんだよ、もぅ。
「でも今回はミナ嬢も招待客にいるから、流石に少し気を張ってるんじゃないかな?」
「ミナ?」
何故? と首を傾げるリリの視線の先で、相変わらず少しも他者を寄せ付ける隙のない凛とした後ろ姿が、表の方へと去るのを見送る。
通常通りにしか見えないけれど、スオウの目には、あれが気を張っているように見えているのだろうか。
「ミナは……なんだかゼノに少し突っかかっているような様子ですけど。でもゼノとは双子の兄妹ですよ? あまり兄妹仲が良いわけではないみたいですが、ミナに悪意があるわけではないのですし、別に警戒するようなことは……」
「リリにはあれが、悪意のない行動に見えるんだ」
「違うんですか?」
さて、どうかな、と言葉を濁すスオウの笑みの意味が、リリにはいまいち分からなかった。
そういうスオウだって、生徒会館の前なんかですれ違った時には、嬉しそうに挨拶するミナに、随分と優しげに声をかけてあげていたように記憶している。そんなスオウが、ミナの態度に悪意を感じるだなんて、やっぱり変だと思う。
「ミナって、何だか少し可哀想な子ですよね」
「可哀想って……ふふっ。何? 同情? それとも皮肉?」
「何でそう嫌な感じにとるんですか……」
何故か楽しそうなスオウに、一つため息を吐きながら、今日のためにと考えていたブレンド表通りに、手元の茶葉を調合してゆく。
「そうではなくて。あの子、いつもなんだか一生懸命で、私やゼノと対等になれるよう、背伸びしてるっていう感じがするんですよ。どうやらあんまり同級生と上手くいっていないみたいですし。ゼノはミナの事を傲慢が過ぎる、って言いますけど、でも兄妹でありながら、ゼノを取り巻く環境とミナを取り巻く環境は随分と違っていて……不満とかがあって、見返してやりたいのかな、とか。なのにゼノったら、ちっとも取合わないで」
えーっと、つまり、と何やらもやもやと分からない感情に首を傾げる。
「まぁ、分家って、大体どこでも肩身が狭い物だし、色々と我慢しないといけないことは多いよね。うちも一応分家だから。それはちょっと分かるよ」
合いの手を挟んだスオウの言葉には、いやいやスオウ様とルドルフセン公爵家に限って、なんて気もしたけれど、本人が言うからにはそうなのだろう。
思えばスオウも、王家の分家という立場だ。アデリア王女は、分家ゆえに、本家を脅かすようなことが無いよう、我が子スオウの事を徹底的に厳しく自制させて育てたというから、スオウにはスオウなりの苦労があったのだと思う。
もしスオウに、いつかユーシスを見返してやりたい、なんて不満があるのだと言われたら、それはそれでビックリなのだが、どうなのだろう?
「でも、ゼノもゼノだと思うんですよ。妹なんだから、義理の姉の私よりもっと可愛がったって良さそうなものなのに、なんだかとっても冷たいんだもの」
「それこそ、本家分家のけじめ、ってやつなんじゃない? 生家であっても贔屓せず、分家を分家として距離をもって接することは、むしろ褒められるべきことだ。その辺、ゼノは私情を挟まず、とてもよくやっていると思う」
「うーん……」
「それにゼノはただでさえ養子という立場なんだし、重んじるべきが実の妹より義理の姉なのも当然だと思うよ」
それはそうなのかもしれないけれど。
「まぁ、君の所の場合は、よりにもよって本家のお姫様がリリだからなぁ。単にリリが頼りなさすぎるせいで、世話を焼かずにいられないだけな気もするんだけど」
「うぐっ」
その辺は、本当に申し訳なく思っている。
つい先年まで父の仕事すら知らず、弟がその父の手伝いに奔走していたことすら知らなかった駄目な姉を許してほしい。
「でもやっぱり、そういうのを含め。仕方がないと言ったって、やっぱり今のままでは、ミナが可哀想ですよ。本家分家のけじめが必要だというのであればそうなのかもしれませんけれど、もっと別のやり方でけじめを付けられませんか? ミナ自身を蚊帳の外のように置く必要はないじゃないですか」
「そう……思う?」
「まぁ……正直、親戚とはいえあまりこれまで接点が無かったミナに、いきなりガツガツ来られることに関しては、ちょっと戸惑ってはいるんですが……」
実際これまで、リリはミナとまともに親戚らしい会話が出来たためしがない。
そういう関係が希薄だったから仕方がないことで、出来ればもう少しゆっくり、最初から関係を築きたいと思わなくはないのだが、かといって血縁が消えてなくなるわけでもない。もしもできることなら、これからでも従姉妹らしい関係を築けたらなと思う。
本家だとか。分家だとか。そういうのを、無しに。
「ただ対等に関係を築きたいのに。何でそう望むのが、駄目なんでしょう」
「……リリは本当に……優しいね」
ん? と首を傾げて顔をあげた先で、何やらスオウがまるで泣いているのかと見まごうような切なげな顔で微笑んでいるのをみて、びっくりしてしまった。
「スオウさま?」
「今のこの状況はさ。多分、十人に聞いたら十人が、分家であるミナ嬢が慎むべきことだ、と答えると思うよ」
「え。そうなんですか?」
え、なんで? なな、なんで?
だってミナ、可哀想じゃん。従兄妹なのに扱いが違うとか、フラストレーション溜まりまくりだよ。恨んだり妬んだり、なんなら本家生まれの甘ったれた従姉にザマァァ! ってしたくなる場面じゃない? 違う?
「でもリリは、そうは思わないんだね」
「そんなものに慮って各差を付けないといけないだなんて、ちっともすっきりしません。私は、“本家だから恭しくしてあげる”と取り繕われるより、ちゃんと言葉を交わして親しくなって、心から“私の素敵なお姉様”って敬われたいです。その方がずっと誇らしいし、嬉しいです。それでこそ、本家として胸を張れるってものではないですか」
「ふっ。素敵なお姉様?」
「あっ、ちょっ、スオウ様! 何笑ってるんですか! 今絶対、リリに限ってその評価は有り得ない、とか思ったでしょう!」
もうっ、と頬を膨らませたリリの隣で、クツクツと身をよじって笑うスオウのいつもの様子に、密かにほっとした。
さっきの顔は、一体何だったんだろう?
「ま、まぁ、素敵なお姉様は無理でも……なんかこう、もっといい感じになりたいんですっ」
「うんうん。わかったわかった」
「もぅっ!」
ちっとも分かってないでしょう、と、ますます頬を膨らませながら、調合を終えた茶葉入れの蓋をカシャンと閉める。茶葉の準備はこれで終わりだ。
「はい、スオウ様。持ってってください! 右から風味の軽い順になってますから、動かさないで下さいね!」
「はいはい」
「はいは一回!」
「はい。わかったわかった」
「もぅっ」
ぷんぷんと怒るリリに背を向けながら、未だにクスクスと笑い声をかみ殺すスオウを見送りながら、ハァと一つため息を吐き、使った茶葉缶に蓋をする。
ただの何気ない世間話のつもりだったのだけれど、なんだか今日のスオウは変だったな、と思う。いや、最近はいつも変だけど。
それにミナのことも。
スオウはそれなりにミナに気を使っているように思っていたのだけれど、そうでもなかったのだろうか?
ゼノにしたってそうだ。スオウの言っていた本家分家のけじめというのも分からないではないけれど、それにしたってゼノはミナを軽視し過ぎたと思う。
もっと普通に。もっとなんだかこう、上手に。普通の関係って、築けないのだろうか?
それってそんなに、難しいことなのだろうか?
「お貴族様、わかんない」
そうハァとため息を吐いて、最後の茶葉のふたを閉めたところで、棚に戻そうとした缶が横からスッと取り上げられたものだから、ビックリして顔を跳ね上げた。
「あ、ユーシス殿下。いつからそこに?」
あまり制服と変わらない、ほどよく落ち着いた装いと、仄かな日差しにきらりと輝いブルーのカフスが目の前を過り、茶葉の缶が目の前の棚の中へと吸い込まれてゆく。
その流れるような所作が、思わずリリの目を引いた。
「片付けまでが私の仕事ですよ?」
二つ目の缶に手を伸ばされたものだから、思わずそれを上から抑えて止めたところで、ピタリとユーシスの手も止まった。
はて。何なんだろう、この人。何か話でもあって、こんなことをしているのだろうか?
「殿下?」
「……スオウは……」
「はい?」
「……」
中々言葉を続けないユーシスに、コテンと首を傾げる。
歯切れが悪いのは珍しいが、もしかして、先程のリリとスオウの会話を聞いていたのだろうか。それが、何か気にかかったとか?
何を考え込んでいるのかは知らないけれど、中々話はじめない様子を見て、取りあえず茶葉缶からは手を放し、角砂糖の瓶を棚から降ろすと、小さなお皿に移す作業に移った。
各テーブル用に、涼しげな小皿に、白砂糖と黒砂糖を六つずつ、バランスよく置いてゆく。それをテーブルの数だけ。
全部置き終えたら、瓶に蓋をしてお盆に置く。
それから次はミルクの準備だ。
ミルクは隣の棚だから、と視線を移したところで、きゅっとリリの手を掴み止めた指先に、顔を上げる。
「少しは気にかけろ」
「珍しく考え込んでいらっしゃったので、考えがまとまるまで仕事をしていようかと。遅れたら、会長さん、怒るでしょう?」
忌憚なくそう言って見せれば、確かに、と、硬かったユーシスの面差しが僅かに綻んだ。
何を考えふけっていたのか知らないが、少しは整理できただろうか。
「考えはまとまったんですか?」
「いや……よく分からない」
「スオウ様がどうかしました?」
「……あいつは……」
「……」
「私を名前で呼ぶようになった頃から、少しは心を開いてくれたものだとばかり思っていたが。実際の所、今も変わらないのか、と。何やら、少し、な」
うーんと。えーっと。つまり。
「あー。“分家を分家として距離をもって接することは、褒められるべきこと”、ですか?」
ぎゅっと眉根に寄った皺を見れば、どうやらこの言葉で間違いなかったようだ。
「スオウ様って、よく出来てますよね。ちょっと出来過ぎてて、息苦しくないのかなって思うことがあります。こと、“出過ぎないように”と自制していらっしゃる時なんかは特に」
「やはりアレは……私に、遠慮をしているのか?」
「アデリアおば様はとても慎重な方ですから。子供の躾にも、手抜かりなんてありません」
「叔母上には感謝している。いつも私を立てて下さり、私も幾度となく律された」
「ユーシス様は、スオウ様と、もっと“兄弟”になりたかったのに。ですか?」
何気なく呟いた言葉に、ハァ、という重たいため息が返ってきた。
きっとそれは、彼の立場的には言ってはならない願望で、それを聞いたら、スオウは酷く困った顔で、むしろ王太子にそう望まれる自分の気安さを悔い改めねばと、余計に慎んだだろう。
そこまで見えているからこその、重たいため息だ。
「分かってはいたが……柄にもなく、君と話すスオウの言葉の一つ一つに、絶望してしまったようだ」
「スオウ様は生真面目ですよね。私は良く、能天気すぎる私と生真面目すぎるゼノと、足して二で割ったらきっとちょうどいい、だなんて言われますけど、スオウ様こそ、私と足して二で割るべきなのかもしれません」
「君を足すのは不味いんじゃないか? 能天気が勝ちすぎる」
「おっと、落ち込んでいるかと思いきや、絶好調だったようですね」
慰めようとして損しました、なんて笑いながら、ミルクサーバーの棚の方へと移動する。
こちらはすでに小瓶に移し替えられているものなので、お盆に並んだ三種類のミルクサーバーを乗せられるソーサーに、揃えて置いてゆくだけの作業だ。
離れたテーブルに置いてあったソーサーの並ぶお盆を手に取ろうとしたところで、さりげなく横からユーシスが手を伸ばしてお盆を取るものだから、そんな殿下をちらりと見上げる。
王子様にお盆を持たせるって……ちょっとどうなのかと思うんだけど。
でもどうやら地味に打撃を受けているらしい王子様を、ここで格別扱いしたら、余計に落ち込ませてしまうだろうか。
そう慮って何も言わず、ソーサーを一つ手元に引き取り、ミルクを並べて行く。
「リリ。君は……本家でも分家でも。もっと別の方法でけじめを付けることができると?」
「うーん……さぁ。どうでしょう?」
先ほどはそう言ってみたものの、できるかどうかはリリにも分からない。
それにリリとミナの場合と違って、王位継承が絡む王太子様とその分家とでは話が別だろう。アデリアがスオウを厳しく律してきた意味が察せないほど、この社会に理解がないわけでもない。周りの目だってあるだろう。
「出来るのか出来ないのかはわかりませんが。でも、張り合ってほしい人に張り合ってもらえず、気を使わないで欲しい人に気を使われてばかりの億劫さは、理解できます」
わずかに身じろぐ手の中のお盆に、ミルクを乗せたソーサーを戻し、次のソーサーを取る。
そこにまた一つずつ、ミルクを並べてゆく。
「私、“愛し子”ってやつらしいんですよ」
「知ってる」
「愛し子って、なぁんか、神様の特別なんですって」
「それも知っている」
「何が特別って、キリエさんの言っていることが分かるっていう程度の特別なのに、愛し子に俗世の思想を植え付けるのは罪だからとかいって、お父様はなぁんにも私に教えてくれなかったんです。神聖古語の本当の意味も、お父様のお仕事のことさえも、ですよ」
「……」
「スオウ様は私にとって、本当のお兄ちゃんみたいな人で、信頼してます。でもやっぱりそんなスオウ様さえ、愛し子のことは教えてくれませんでした。私、ずっと知らなくて。スオウ様にすら、“愛し子なんだから知らなくていい”って。そう、思われてたんです」
それを知った時は、ちょっと。やっぱりちょっとだけ。がっかりした。
「私は殿下じゃないですから、その胸の内なんて分かりませんけれど。でも多分、今ユーシス様が感じているがっかり感は、分かります」
「……あぁ」
「なんでそんなこと、って腹も立ちますし、もどかしいです。今の関係をもっとどうにかできるのであればそうしたいと思いますし、そのためにできる手立てがあるなら、試してみたいです」
「出来るかできないかはわからないが、もし別の方法があるなら、か」
「それにほら。私、出会ってからこの方、ユーシス殿下には無礼しか働いてませんよ? でも結構、普通にやれてますよね、私達」
「ふっ」
あ、笑った、と、リリもつい顔をほころばせる。
「まぁ、私が殿下を脅かす可能性が微塵もないっくらいポンコツだから、っていうのもあると思いますが」
そうでもない……と、その人が呟いた気がしたのは、気のせいだろうか?
「でも私達ができたなら、きっともう一人二人くらい、垣根無く接せる人も見つかるんじゃないですかね。決して不可能ではないですよ、きっと」
そう思えば、ちょっとは気も楽になります、と差し出した手に、じっと静やかな視線が投げかけられる。
見つめたまま何も言わないものだから、なんだか少しもぞもぞとするのだけれど、何となく、その薄いガラス玉みたいなブルーの瞳から、目が離せなかった。
「殿下? あの、お盆……」
「君は」
「はい?」
「君だけは、変わらずに。そうやって、私の傍で……私に、素直なままでいてくれるか?」
「それについては心配ないです。殿下が大目に見て下さる限り、変わる必要性も感じないですし」
むしろ不敬罪を恐れなくていいだなんて、大歓迎だ。
「それにきっと私だけじゃなくて、いずれもっと他にも……」
話を続けようとしたら、何やら突然、ポン、と、ミルクの揃ったお盆が手に乗せられた。
背負った荷物を一つ、預けてもらえたような。手の中の重みが、何やら少し、ほっとする。
それに顔をほころばせていたら、おもむろに、身軽になった指先がリリの頬を掠めたものだから、びっくりして顔を跳ね上げた。
何だ? 何だろう?
「いや、いい。必要ない」
「はい?」
「あまり贅沢を言ったら、折角手の内にあるものを、逃がしてしまいそうだからな」
「……えっと?」
贅沢? 手の内? 何を言ってるんだろう。この人。
頬を撫でる手が、さよさよと心地よくて。
唇を掠めた指先が、思わず頬をほてらせる。
何だろう、これ。何かものすっごく……恥ずかしい。
「殿……」
「そろそろ時間だ。最後までさぼるなよ」
すっと解けるように離れて行った手のひらが、再びリリの手の中からお盆を回収してゆく。
すっかりと手の中は軽くなったはずなのに、呆然とした足が地面に縫い付けられたみたいに重たくて、動けない。
傍らを通り過ぎてゆく金の髪を追いかけた視線が、動かない足をもつれさせて、ふわふわともたつく。
絡まる足に、慌てて棚に手をついて。
そんなリリに、クスと笑いながら去ってゆく後ろ姿に、妙に頬が熱くなった。
何だこれ。
何なんだ、これ。
「き、キリエさんっ。キリエさん?!」
慌てて攻略お猫様を探してみたけれど、今日に限ってその姿が見当たらない。
「か、神様。あのぅ、神様」
私。何かもしかして、私。
「……変なイベント、踏んじゃいました?」
訳も分からず跳ね回る心臓に。
頭の中では、どこか華やかなのにおどろおどろしく、ころころと慌ただしいツィガーヌの調べが鳴り響いていた。




