3-3 おしのびというやつ(4)
「大変、楽しそうでいらっしゃいますね。姉上」
「ひイィッッ」
ガシリと肩を掴んだ指先に、情けない声を出して足を踏み出す。
だがまるで逃がしてなるものかと言わんばかりに、そのままギュウッと握りつぶされるような圧を覚え、見る見るリリの顔が青ざめた。
目の前で、リリに声を掛けようとして掛け損なったらしいニール少年が、一瞬で顔色を驚嘆から憐みへと変化させ、こそこそっと引き下がった。
くそっ。逃げやがったな、薄情者ッ。
あぁ。振り返りたくない。振り返りたくないッ。振り返りたくないッ!
「姉上は、三十分前に指切りしたことを忘れるんですね。無垢な顔して約束とか言ったその口で、おじ様のせいだとか言って飛び出して、それだけならまだしも、何故か家じゃなくてこんなところで、ストリートライブですか? いいご身分ですね」
「ぜ、ぜぜ、ぜ、ぜの、さん。あの。これはその、ふっかーい、事情がありましてッ」
「へぇ。それはさぞかし大層な事情なんでしょうね。侍女見習いが涙目で飛び込んできて、『お嬢様がどこかに行ってしまいました』とか言い出した時の私の気持ちが理解できますか? 慌てて大聖堂に戻ったら、大人しくしていると言ったはずの姉上はおらず、家に帰ったのかと人を遣わしてみたら、何故か辻馬車が姉上のガウンだけを届けに来たと大騒ぎになっていて。それを聞いて私がどれほど心配したか。さぞかし納得させられるだけの事情がおありになるんでしょうね」
「ゆ、夕飯までには戻りますって、ちゃんとっ」
「ハァ? 侍女も護衛も連れず、行き先も告げず、世間知らずの姉上が一人行方不明になっていて、あぁそうですか、ってのんびりくつろいで待っていられると本気で思ってるんですか? 姉上の不在を詫びて急ぎ退席を申し出た私に、国王陛下がどんな顔をなさっておられたのか、詳細に報告をした方が宜しいですか?」
「ひいぃッッ」
誰か助けて。ニール少年! キリエさん!
「だから言ったにゃ。碌でもないことになるって」
木箱の上で澄ました顔をしながら、肉串のソースをこっそり手に隠して舐め取るキリエさんは、間違いなく共犯者なはずだ。
ゼノさん。悪いのはキリエさんです!
「はぁ、もー、ほんと。リリって、どうしてやろうかってくらい困った子だよね」
ましてやゼノのコントラバスもビックリな重低音の中に、蠢くような冷やかさを孕んだ華やかな声色まで続いたものだから、これにはリリもギョッと驚いて振り返ってしまった。
その瞬間目に入ったのは、案の定据わった眼差しで怒りを携えたゼノ様と、その後ろには、最も上質な白地に銀色と、少し薄目の青紫の綬と長いマントをたなびかせた王子様。
それはもう、周囲の女性たちが顔を真っ赤にして息を呑むような、本物の王子様。
でもそんな殿下の煌びやかさなんて昔から知っているリリには効かない。
効かないんだけど。
「きぃやあぁぁぁっッ。な、何ですか、これっ。何してるんですか、スオウさま!」
問題はそのスオウの後ろにズラッと並んで威儀を整えた十数名の近衛達と、よりにもよってルドルフセン公爵家の豪華すぎる紋章が刻まれた真っ白な馬車だ。
騒ぎを聞きつけて教会から顔を出したらしい司祭様がポカンとした顔になっていて、町中の、多少貴族との取引を心得ているらしい大店の主人たちが、顔を真っ青にして帽子を脱いで、カチンコチンに固まっている。
よりにもよって、おしのびとかじゃなくて、全面王子様アピールでやって来るとか、何やってるんだ、この人。
いやいやまて。そもそもゼノさんも正装のままじゃないですか! 目立ってる。ものすごい目立ってる!
「うわぁッ、二人とも、早く馬車の中ッ。馬車の中に入って下さい! こんなことバレたらっ」
「ばれたら?」
「へぇ。ばれたら、どうなるんだろうねぇ」
ガシ、ガシ、と、両側から掴まれた肩に、ツツツ、と、頬を冷や汗がつたった。
あ、あぁ。ばれたらヤバイの、リリだけだ。
てかもう、バレた後だけど。
「言っておきますが、近衛の派遣許可を出したのは“国王陛下”でいらっしゃいます。姉上が “おじ君”のせいで席を外し、行方不明になったとお聞きになって」
「私が直接出向いた理由は言うまでもないよね? リリ。反省した? してるよね? もう二度とこんな真似できないくらい、身に沁みたよね?」
コクコクコクッと、全力で頷く。
うん、わかった。わかったよ。リリにおしのびなんて無理だったんだ。同じことしたら、今度は倍以上の近衛に周りを取り囲まれて、囚人の如く引っ立てられるからね、ってことだね。理解したよ、おーけー、スオウ殿下。
そう真っ青な顔で俯いていたら、ポン、ポン、と、少しだけ、優しい掌が頭を掠めて行った。
チラ、と顔を上げてみたところで、スオウはちっとも優しい顔なんてしていなかったけれど、多分、大聖堂で何があったのかは、アデリア王女あたりから聞いているのだろう。
少しくらいは……逃げ出したかったリリの気持ちも、汲んでくれたのだろうか?
「殿下、姉上を甘やかさないで下さい。事情がどうあれ、行き先も告げず、伴も連れず。こんなこと二度とされては困ります」
「あー、それもそうだな」
「ひぃっ。ごめんなさいっ。ごめんなさい、ゼノ。とっても心配かけました!」
許してっ、と、ぎゅうとゼノを抱すくめて見せたところで、「ちょっ、往来で何をしているんですかっ」と怒鳴られたけど、腕を解くのが怖くて、そのままますますぎゅうぎゅうと抱きしめてやった。
くそう。最近のゼノさんは成長甚だしくて、なにやらもうすぐ抱き着けなくなってしまいそうだ。何とか姉の威厳を保つために、ぐりぐりと抑え込んで、小さく、小さく……。
「ッ、こんなことで誤魔化されませんからね!」
あう。
「何だこれ。すっげーお迎え」
そこにポツッと背後から聞こえた囁き声に、はっとしてリリは手の中のヴァイオリンを思い出して振り返った。
「あ、ニール。ヴァイオリン、有難う」
「あ、あぁ。はい……いや、なんかすんません。俺もしかして、とんでもないお姫様に声かけちゃった?」
「楽しく演奏させてもらったので、いいんです!」
「良くありませんよ、姉上」
全く反省してないじゃないですか、と、ぎゅうと背中を引っ張られ、ひぃ、と再び肩をすくめる。
「あー、これ、微塵も反省してないね。どうする、ゼノ。このまま説教続ける?」
「論外です。今すぐ連れて帰らせていただきます。年が明けるまで夕飯抜きで説教です」
「あー、ごめんね、リリ。フォローできないや」
「見捨てないで、スオウ様!」
「見捨てなくてもいいけど、その場合リリは王宮に連行することになるよ? そっちの方がよかった?」
「迎えに来て下さって有難うございましたッ。今すぐおうちに帰ります!」
「陛下とうちの父になんて報告したらいいかなぁ」
「ひぃっ。ちゃんと家にいましたッ。おうちの聖堂に籠ってましたって報告してくださいッ! お願いしますッ」
「ゼノ、どうする?」
「これ以上姉上を煩わしい些事に巻き込ませるのは御免です。主に、その反動で被る心労が限界に達しそうなので。そうならないよう、殿下の差配にお任せします」
「あぁ、ものすごく同感だ。よし、善処しよう」
何故か勝手に意気投合しながら、ズール、ズールとリリの肩を引きずりながら馬車に連行すると、二人はリリを容赦なく、ポイっと馬車の中に放り込んだ。
なんという扱い。
なのにてくてくと歩いてきたキリエは、ゼノが丁寧に抱き上げて一緒に乗り込んでくるものだから、この扱いの差が納得いかない。
「さらば、ジプシー。町の広場での愉快な年越しの夢」
「何言ってるんです。夕飯までに戻るはずだったんじゃないんですか?」
まぁもうとっくに過ぎてますが、と、すっかり暗くなった外にため息をつくゼノに、うっ、と身を縮めた。
そうしている内にも、周りの近衛に一通り指示を出したスオウが馬車に乗り込んでくる。
そこに、ヒョイとニール少年が窓の外に顔を見せたので、リリもそちらに張り付いた。
「広場、静かになっちゃってごめんなさい」
「いんや、すっげー盛り上がったから。あ、盛り上がりましたから」
慌てて敬語に直したニール少年は、ニカニカと笑ってみせると、それからスッと表情を引き締め、スオウの方を向いて、実に様になった一礼をして見せた。
そのあまりにも貴族然とした物腰に、リリはキョトンッと目を瞬かせる。
「殿下が直接お迎えに参られるような姫君でいらしたとは存ぜず、失礼をいたしました。引き止めてしまったのは私です。どうかお許しください」
「君は?」
「ベンホーフト子爵家の次男で、ニール・ベンホーフトと申します。祖父は前宮廷楽士長を務めておりました」
「え、先生のお孫さん?!」
びっくりした。じゃあなにか? あのヴァイオリンは、ベンホーフト師のお手製だったのか?
「先生?」
キョトンと顔をあげたニールは、やっぱり貴族っぽい雰囲気は無かったけれど、不思議とあのおじいちゃん先生の孫だと言われたら、それっぽく見えた。あ。笑った時の口元あたりがちょっと似てるのかな。
「まったく……リリの強運はすごいね。なんでこっそり町におしのびに出かけて、こうも絶妙なのを引き当てるのかな」
「引き当てたというか、彼の背負っていたヴァイオリンに引き寄せられたというか」
「ゼノ。リリへの罰は、十日間ほどヴァイオリンを取り上げるのがいいと思う」
「ええ。今私もそれがいいかと思案していたところです」
「酷いっ、ゼノ、スオウ様! 鬼、悪魔!」
思わず叫んだ罵り言葉に、ニールがひくりと顔を引きつらせて困った顔をしている。
あぁ、そうか。往来で、公爵家の馬車に乗り込んで、公爵令息殿下に暴言を吐くとか。私、馬鹿か。
「ニール、といったね」
「は、はい」
「彼女は、リリ・クラウベル・アリストフォーゼ嬢。といったら、分かるかな?」
「ッ、キリエンヌのお姫様ッ」
叫んですぐ、ベチンッと慌てて口を閉ざしたニールは、チラ、チラ、と、周囲を、特に教会の方を気にした様子で振り返り、すぐに声を潜めて、「何つー大物がおしのびしてんですかッ」と苦言を溢した。
げせぬ。ニールだって、子爵令息なんでしょう? 叱られるなら同じなはずなのに。
「どおりで……教会の外套なんかで、ふらふらと……」
「そう。そんな教公猊下の姫君が、国王臨席の大ミサをさぼって町中で民衆相手に演奏してた、とかバレると色々と困るんだよ。分かるね?」
「あー、はい。大丈夫っす。言いません、誰にも」
「話が早くて助かる。私も、楽部庁長官のご子息が大ミサをさぼってこんなところにいたことは口外しないから。精々気を付けるように」
「げっ。あ、いやっ、俺、未成年なんでっ」
「ニール・ベンホーフトの名前は、来年度の聖ドレス・ノワ・カレッジの新入生名簿にあった。君も十五だろう?」
十八歳以前は任意参加とはいえ、十五歳以上は大ミサへの参加資格がある。不参加の場合も身を慎んで家で家族と過ごすのが貴族の普通の過ごし方であり、よもや町中にひそんで、おしのびで平民と音楽祭ごっことかしてたとかばれたら……うん。宮廷楽部を司るお父様が真っ青になるでしょうね。
リリも相当だが、やっぱりニール少年も相当だったみたいだ。
「スオウ様、来年の新入生とか、全部覚えているんですか?」
「目についた名前だけね。とにかくリリ。君も、今日の事は忘れること」
「はぁい」
もちろん。国王様にチクられないためなら大人しくします、と小さくなって見せたところで、ようやくほっとスオウも顔をほころばせてくれた。
ゼノはまだ怖い顔してるけど。
「それではご機嫌よう。えーっと。スビーニャ・ノイ・リイヒ・スリューネン」
良い年になりますように、という神聖古語を、少し声を潜めて授けたところで、スオウやゼノから苦言は飛び出さなかった。問題ないってことだろう。
ニールは少し驚いた顔をしていたけれど、やがてニッとくったくない笑顔を浮かべると、「すっげぇ光栄です。いい年になりそうです」と笑って、にこやかに手を振って見送ってくれた。
ちっとも歯に物着せない少年だったけど、おかげで、取り繕ってばかりのお貴族社会に辟易していたリリの心を、とってもポカポカと慰めてくれた。
あぁ。広場に夜が訪れ、煌々と焚かれたまばゆい光が、満ち満ちてゆく。
雑多なメロディーと、雑多な歓声が、まだまだこの耳を離れない。
「息は抜けた?」
カラカラ、カラカラと静かに走る馬車の車軸の転がる音の中で、ひっそりと問うた囁き声が、チャールダーシュの郷愁感あふれるラッサンの調べのように、じんわりと胸に沁み込んだ。
「えぇ。充分に」
優しい旋律を回顧しながらポツリと答えた言葉に、ぎゅっと膝の上の掌が、ゼノに握りしめられた。
心配をかけてしまったのだろう。それについては本当に申し訳ない。
でも申し訳ないついでに、とっても楽しかった。
「ゼノ、今度は二人でおしのびする?」
「ハァ……」
そういう問題じゃないんですからね、なんて言いながら、でもようやく少しばかり硬い表情をくずしたゼノに、にっこりと微笑んで見せた。
その晩、ようやくゼノのお説教から解放されたリリは、目を真っ赤にしたハルと鬼の形相のユリーから、『お嬢様には二度とお一人で着脱できるドレスは着せません』と叱られた。
どうやら着付けの大変なドレスは、不貞防止のためではなく、おしのび防止のために役目を果たすことになったらしい。




