3-3 おしのびというやつ(3)
「あれ。おねーさん、教会の人じゃないの?」
ひそひそと肩をすくめて逃げ出すように教会を出たところで、ふいにかけられた言葉に、ビックリして振り返る。よもや誰かに声をかけられるとは思っていなかったせいで、ほぼ反射的に振り返ってしまったが、無視しておけばよかった。
しかし目が合った瞬間、ニコッと微笑んだ人懐っこそうなブルーの瞳が、ついリリの二の句を噤ませた。
ラフなシャツと吊りズボンに、ぱっくりと脇の開いたケープを羽織った、クルクルとした黄茶色の髪の少年。恰好は町の人達とさほど変わらないけれど、上着はしっかりした生地で、顔立ちにも上品さがある。どこぞの大きな商家か何かのお坊ちゃんだろうか。
それに何よりリリの目に留まったのは、その背中に背負われた、シンプルなヴァイオリンケースだった。
「ヴァイオリン?」
「ん? これ? そう、ヴァイオリン。じいさんが趣味で作ったお古だけどね」
そう言いながらひょんひょんと軽い足取りで正面の階段を下りてゆく少年に、何となくリリも足が動いて、後ろをついて行った。
「で、教会のおねーさんは何してるの?」
「あー。いや、これはその。借り物の上着で」
「だよね。教会のシスターがこの大忙しの年の瀬に、呑気に立見席で立ち見は無いか」
アハハと笑い飛ばしながら前を行く少年に、むむむ、と頬を染めて俯いてしまった。
まったくもってその通りではあるのだけれど、暇人扱いは心外である。これでもそれなりにちょっとは頑張ったんですからね。
「お。来た来た、ニール坊! 早く来い。お待ちかねだぞ!」
そんな少年の向こう。噴水のたもとで、ガタガタと椅子を並べる寒々しい恰好の紳士達が、ひらりひらりと少年を手招きすると、少年はすぐにもヴァイオリンケースを下ろしながら、そちらに駆けだした。
水のとまっている噴水の淵にケースを置くと、弓を張って音を取ってゆく。
「おねーさん、名前は? 俺はニール」
「私はリ……」
えっと、本名でいいのか? うーん。まぁ、名前くらい問題ないか。
「リリ」
「リリリ?」
「君、わざとでしょう……」
「ははっ。リリお嬢様ね」
「お嬢様?」
「そんなドレスで出歩く平民はいないよ」
そう言われて、はっとあたりを見回してみたら、何やら少しばかりチラチラとした視線が集まっていた。その様子に、慌ててフードを目深にかぶり、クロークの前をかきよせる。
こんなことをしても無駄だろうけれど、思わず、というやつだ。
何かニール少年が、横を向いてくぷくぷ笑っているけど……無視しよう。
「お嬢様、音楽好きなの?」
「好きよ。君達は、えーっと。劇場広場の小さな即興楽団?」
「そ。年末と祭日限定、趣味だけで集まった下手な楽団」
「おいニール坊! これでも俺はそこの劇場の首席奏者だからな!」
雑多な装いの紳士の中で、一人こぎれいなジャケットを羽織った紳士がそう言いながら、大きなチェロを構えて声を荒げた。
そこの劇場とやらは、民衆向けの小さな大衆劇場のようだったけれど、そもそもこの世界では楽器を手に入れるのも、それを学ぶのにも、お金がかかる。たまに独学で大成する人もいるらしいが、基本は裕福な家庭での嗜み事だから、チェロのような大きな楽器を手にする彼もまた、音楽家の家系か、裕福な家の育ちなのだろう。
他に集まっているのは四人。手作りっぽい縦笛を持っている紳士と、破れかぶれのアコーディオンみたいな楽器の紳士。それに木箱を並べてドラム替わりにするおじいさん。もう一人の若い青年が手にしているのは、色が削げ落ちてボロボロとはいえ、やたらに管が長くて口の小さな、なんとも古めかしいトランペットだった。
トランペットは、何故か妙に金管楽器の発展の乏しいこの世界における、唯一の金管楽器だ。とはいえオケに組み込まれることは一切なく、儀礼上の入退場のマーチや閲兵式なんかに近衛の音楽隊が奏でる軍楽器である。
おそらくアンブロシアで木製の楽器が急速に進歩したことで、それに合わせた楽曲に、まだ未熟な形のままのこの国の金管楽器が対応できていないのだろう。他の楽器の成熟具合に比べると、まだまだかなり原始的な形をしているし、音程も不安定だ。
でも流石は、権威も形式も取り繕う必要のない町の即興楽団。楽団に金管楽器がいるという事実だけでも、リリには心臓が爆発しそうなくらいにトキメク光景だった。
「トランペット! 一緒に演奏するんですか? 曲は? オリジナルですか?」
そうわっとくらいついたリリに、「お。今年はどうやら耳の肥えたお客さんがいるらしいなぁ」と、青年が笑った。
「ニール坊、ガールフレンドか? 美人さんだなぁ」
「ばぁか、ノマン兄。どっからどう見てもいいところのお嬢さんじゃん。さっきそこで見つけたの。教会の隅っこで、教会の人が着てる外套羽織って、猫抱えてんだもん。スゲー目立ってたから」
「あ、そうか。教会に猫って目立つんだった」
キリエさんのせいか、と見下ろしたところで、「僕がいなくても十分目立ってるにゃ」と言われた。
「お嬢さん、時間あるなら聞いてってよ。つっても楽譜なし、打ち合わせ無し、不協和音なりまくりの即興だけど」
「素敵! そういうの大好き!」
いいじゃない、と同意したところで、ニカッと笑った歯のかけたおじいさんドラム奏者さんが、「ここ座んな」と木箱の一つを叩いた。
楽器じゃないんだろうか? 座っていいんだろうか?
その辺は甚だ疑問だったが、いいと言われているんだから良いんだろう。有難く駆け寄って、邪魔にならないよう少し離れたところに座った。
ニールが楽団の前におひねり箱替わりのヴァイオリンケースを置くと、早速、先程教会で演奏されていた聖歌が、一つ転調した明るい雰囲気とタッチで奏でられはじめた。
それに合わせてチェロが大人っぽい音を。次いで縦笛が町の人達にも耳馴染みの良さそうな軽いタッチの音を合わせたところで、タン、タタン、タンッ、と、おじいさんが外見からは想像もできない超絶技巧で、手と足を駆使したリズムを刻みだした。
このおじいさん、何者? プロなんじゃない? なんてビックリしていたら、そこにぷぁっ、プォー、ペー、と、相変わらず音程を取るのが難しそうで、音量も安定しないトランペットが組み合わさる。
そのバラバラの演奏を、アコーディオンが丁寧な伴奏で一つの音楽にまとめ、さらにそれを、クルリクルリと周りを見回しながら音色を変えるニール少年のヴァイオリンが、上手に音色を聞き分けながらリードしている。
まさにヴァイオリンの弾き振り。彼は、指揮者の素質があるようだ。
「ちょっと、デリさん、音外し過ぎ!」
「うるせぇっ。こいつ、もうふた世代は前の型のオンボロなんだよ!」
ぼふぅ、と情けない音を出したトランペットに、ふーっ、ふーっ、と息を吹き込んで空気を送り込んだ青年が、あらためて音を出す。
バルブも存在しない古式ゆかしいトランッペットの出せる音には限りがあるけれど、次第に楽器が温まって来たのか、段々と音楽に馴染んでくると、重たい弦ともったりしたアコーディオンの音に、明るい賑わいが加わった。
なんて心地よいアンサンブル。
「らー、んらら、トゥラ~、リタァ、んふふふ~」
つい歌詞を口ずさみそうになって、おっと、神聖古語なんだった、と慌てて噤み、でもそれでもたまらず、らららで歌っていたら、ニールと目があった。
その顔がにまっ、と人懐っこく笑うものだから、ついスクッと立ち上がると、キリエを木箱の上において、ピョンと楽団の中に飛び込む。
「たらぁら、りんりらぁら、るらぁぁ、りー、リラぁぁぁ」
くるん、くるんと弾んで、声を楽器に音を重ねると、傍聴していた民衆が、「あら、可愛いお客様が混じったこと」と、優しげな眼差しを向けてくれた。
ぱっと見渡してみれば、いつの間にか日が傾いて薄暗くなった広場に、教会から出てきた民衆があふれ、煌々と明かりを灯した屋台からいい匂いが立ち上り、皆が思い思いに音楽にあわせて手を打ったり歌ったり、小さな子供達が手を繋いで踊っていたりしている。
「お嬢さん、いい声してるなぁ。もうちょっと高音もいけるか?」
そう音楽にアレンジを加え始めたアコーディオン奏者に、にまっと笑って、軽々と飛んだり跳ねたりする甲高い音をラララで歌い上げる。
その賑わいに観客も集まって来て、いつの間にやら屋台のおじさんがグラスを並べてカンカン叩いて音を加え、何処からか現れた興行人らしき仮装集団が、短いフレーズをアンサンブルしながら広場を横切って行く。
興が乗ったリリも、声だけでは物足りなくなって、アコーディオン奏者に合わせて横から和音を加えて見せたり、おじいさんと一緒になって木箱のドラムを叩いてみたりした。
これがなかなか面白い。木箱の木材の調子によって、ちょっとずつ音色が違うのだ。
「たんらったら、んらーらっ」
そうしてひとしきり歌って、ふあー、と息を吐いて元の木箱に座ったところで、「はい、おひねり」と、突如ニール少年が横から串焼きを差し出したものだから、リリより先にキリエが、「んにゃぁ!」と涎をたらさんばかりの勢いで身を乗り出した。
「ちょっとキリエさん。肉に食いつきすぎじゃないですか? ここは一応、私お金持ってないんです、とか、謙虚なやり取りをする場面なんですけど?」
「ははっ。いいよいいよ、おひねりだから。そこの屋台のおじちゃんが、銅貨の代わりにくれたやつだから。猫ちゃんの分も貰ってくる?」
「んなぁっ、んなぁ!」
何やらキリエさんが、「猫ちゃんじゃないにゃ、猫くんだにゃ! でも肉串はよこすにゃ!」とか騒いでいる。
「あー、はいはい、キリエ。ちゃんと分けてあげるから、暴れないでねー」
飼い主は飼い主らしく、まずは一つ肉串を頬張ってから、木箱に下したキリエにも串を差し出してあげた。
普通の猫じゃないキリエさんは、ちゃんと器用に串を避けて横からはむはむと肉を食べてくれるので、お皿なんていらないのだ。
「あふっ。おいしっ。炭火最高ッ! うまぁ」
「ははっ。変なお嬢さんだな。普通のお嬢様は肉串にかぶりつかないだろっ」
「何言ってるんです。肉串はかぶりつくために串が付いてるんですよ。人類の英知が詰まってこの形にたどり着いたのに、尊重しないでどうするんです。そして何より、肉串はかぶりつくからおいしいんです!」
「わかってんじゃん」
これも食う? と、ニール少年が更に隣の屋台に走って持ってきたのは、串に茶色い丸い揚げ菓子が三つほど突き刺さったものだった。
「んっ、何だろ、これ。美味しい。揚げカステラ?」
妙に懐かしい味がする。小麦粉とバターに砂糖と卵だけの、すごくシンプルな味だ。
「なんかちょっと食ったら余計に腹減ってきたな。お嬢様もまだ何か食べる?」
そう言いながら、ヴァイオリンケースのおひねりから銅貨を数枚つまむニールに、あっ、とリリは席を立つ。
即興楽団員さん達が稼いだお金なのに、このまま御馳走になるってのもなんだか申し訳ない気がする。
「ニール、ヴァイオリン貸してくれる? 自分の食い扶持は自分で稼がないと!」
「君、ほんと変なお嬢様だなッ!」
「本音を言うと、ただヴァイオリンが弾きたいのです!」
ふはっ、と一つ吹き出したニールに、その隣で同じく肉串を頬張るアコーディオン奏者さんが、「我らは来るもの拒まず、去る者止めずだ。誰でも歓迎だよ」と招いてくれた。
「いいけど俺の楽器、オンボロだぜ? 弓もがっさがさだし」
「弦が四本ついてて弓が有って、音が出るなら十分だよ。あ、ちょっと小さめだね。可愛いなぁ」
受け取ったヴァイオリンを構えて、軽く音程を合わせる。
指板が少し短くて、垂直的。全体的にも少し小ぶりだが、持った感触は少し重い。まるで玩具みたいだけれど、しっかりニスがしみ込んだ胴面は、随分と使い込まれていることがわかる。
古いけれど、いい楽器だ。
「お嬢さん、弾けるのかい?」
「ニール楽団よりいい演奏で頼むよ!」
手にお酒の入ったジョッキを持った男女が、思い思いに持ち寄ったテーブルについて野次を飛ばす。
きっと町ではこうして広場に集まって、皆で持ち寄ったもので飲んで騒いで、皆で年を越すのだろう。イタリアの年越しみたいで、わくわくする。
そんな長閑でお気楽で賑やかで、でも少しばかり切ない気持ちになるこの雰囲気には、やっぱりジプシーの郷愁感で一年の思い出をしっとり思い出しつつ、でも技巧の楽しさで盛り上がれる、モンティのチャールダーシュなんかがいいんじゃないだろうか。
飛び入りのヴァイオリニストに、少しだけ静まった広場。
雑多な音楽を適当に聞き流していた人々が、毛色の違う修道女のクロークを纏うおかしな飛び入りを、不思議そうに見ている。
そんな中で、ひとつゆっくりと息を吸い、弦に弓を乗せる。
まずは修道女への期待を裏切るべく、どぅん、だぁん、でぇんと、低い音色を弓を走らせきって緊張感に引きずり込むと、この劇場広場という場所に似合いの情緒たっぷりな前奏部分を奏でる。
重々しい音色と、ピンと張りつめてゆく緊張感に、ビックリしたように広場が静まり返った。
そうそう、この感じ。この感じが、リリの大好物なのだ。
そして静かになった中で、ゆったりと、郷愁感あふれる旋律を流し始めた。
ビブラートを効かせた少しの切ない音色と、でも段々と優しげな色を見せる音色に、ビックリとしていた聴衆が、次第にうっとりと音色にのめり込んで行くのが見える。
なんて心地よいオーディエンスだろう。
股を広げてどっかり座っていたひげ面のおじさんが、テーブルに膝をついてしっとりとジョッキを傾ける。粗末なジョッキが、まるでワイングラスのようだ。
先ほどまでクルクルとタンゴでも踊っていたような派手なお姉さんが、うっとりと体を揺らして瞑想している。派手な化粧が、まるで彼女の心を守る鎧のようだ。
大人たちが誰しも音に酔いしれ、郷愁感漂う夕闇の中、楽しかった時間の中にほんのりと心が鎮まりはじめた頃、ゆったりした音色がつまらなくなった子供たちが、ちょっと不満そうにこちらを見上げているのを見た。
えぇ、そうね。子供達にはまだこの切ない気持ちは分からないでしょう。
でも大丈夫。ここから楽しくなりますからね、と、少しばかり盛り上げながらラッサンの最後のフレーズを弾きこなすと、一瞬たっぷりと余韻を取ってから、たちまち腰を落として気合を入れ、勢いよく後半のフリスカに飛びこんだ。
手首と指先の神経疲労感ハンパない高速スピッカートによる十六分音符。気合を入れて小刻みに駆け上がってゆく疾走感に、わっと子供たちの顔が輝いた。
うんうん、子供ってやたら早くて小刻みな技巧が大好きだよね。私もそうだった。
ついリリも顔がにやけてしまうけど、これ、死にそうなほどに大変なんだよ。きっつっ!
華やかになった早い曲調に、郷愁に浸っていた大人たちも、ほんわかと顔をあげて笑顔を溢し、細かいパッセージにあわせてついつい体を揺らす。
その表情を楽しみながら、ニ長調に転調してしっとりとした重奏。ついでそっと弦に薬指を添えて、本来ヴァイオリンが奏でられない高い高い音域を、フラジョレットでゆったりと奏でれば、目の合ったニールが、パチパチと大きく目を瞬かせてポカンとしているのを見た。
うふふ。ハーモニクスは先日の音楽祭で披露したばかりの、この世界には存在しない技法だからね。きっと、何がどうやってそんな音になっているのかわからないのだろう。
まるで口笛でも吹くかのような音色が、ゆったりとした音色ながらも関心を集めたらしく、子供たちまでそろってポカーンとこちらを見上げるのが可愛かった。
ひゅー、ひゅー、と口笛を吹こうとする男の子がとりわけ可愛らしい。
うーん、なんだかいい感じ過ぎて、おうちに帰りたい音色になって来たよ。でも家になんて帰しません。
そうしてたっぷりと遊んだら、後は最後まで楽しく華やかに再び高速主題を繰り返す。
その音色に、何処からともなく手拍子が巻き起こり、これでもかというほどに早くなる手拍子に誘われて、もっと早くなる。
おいそこの聴衆諸君! 特にそこで木箱を叩いているおじいちゃん! にやにやしながら私を殺す気か!
弾けるけどね! 一音だって漏らさずに弾いて見せるけどねっ!
と、思いっきり弾ききって、くわんっ、と弓を跳ね上げて曲を締めたら、忽ち、わぁー! と盛大な拍手と歓声が巻き起こった。
先日の音楽祭の時の上品な美辞麗句とはまるで違う、「うひゃぁ、なんだそら!」「今何したんだ?!」と、純粋な声が渦巻いて、リリもすっかり得意気になってしまう。
なり止まない歓声に、ヴァイオリンを片手に恭しく紳士の礼など取って見せたりして。
大・満・ぞっ。
「大変、楽しそうでいらっしゃいますね。姉上」
「ひイィッッ」




