1-7 隣国旅行
「着いたぁ」
思いっきり伸びをしたところで、「はしたないですわよ、お嬢様」と馬車からトランクを降ろす乳母子のユリーに、おっとっと肩をすくめて、振り上げた手をつつましくおろした。
いかんいかん。一応“公務中”なのだから、周りの目を気にしなければ。
そうキョロキョロしたところで、同行してくれていた外交官、もとい、父に今回の旅行のことを任されている子爵様が、クスクスと笑いながら、「ようやく国境でございますね」と声をかけてくれた。
学園が夏休みに入ってはや九日。試験期間が終わって間もなく、採点期間中の休みにいち早く実家に戻ったリリは、二、三日ほどで旅行の仕度を整え、学園の前期の終わりを告げる夏夜祭が催される火月の初日に、ここ、アンブロシアを目指して出立した。
毎日延々と馬車に揺られ、九日が過ぎてようやく国境。これでもまだ行程は四分の三といったところだ。
「でもここまで来たらあと少しだと、確かお姉様のお手紙に」
「ええ。アンブロシアの王都までとなると、まだ十日以上がかかりますが、夏の離宮でしたら三、四日といったところでしょうか。帰りは川を下るので二日とかかりませんが、行きは今しばらく馬車になります。お疲れではありませんか?」
「私は平気です、クランセン子爵。子爵様こそ、私にあわせてゆっくりとした旅程を歩ませてしまってごめんなさい」
彼一人ならきっともう少し早く進むことが可能なのだが、今回はリリのペースに合わせてもらっている。
それが少し申し訳ない。
「いいえ、“姫君”。貴女をご無事に送り届けることも、私の外交官としての務めの一つですから」
「ふふっ。大げさですよ。私はただお姉様に会いに行っているだけなのに」
そうリリは肩を揺らして笑ったけれど、これには子爵の方が肩をすくめる思いだった。
国境を越える手続きのためにと一度馬車を停めて、馬車を降りてはいただいたが、彼女はこの国境を越えることの意味をあまりきちんと理解していらっしゃらないらしい。
本当に大変なのは、“ここから”なのだが。一体それをどう思っていらっしゃるのやら。
「ご歓談中恐れ入ります。リリ姫様でいらっしゃいますでしょうか」
馬車を降りてすぐに案内された国境を守る厳重な要塞の中の、そうとは思えないくらいに綺麗な一室に入って間もなく、そう恭しい物腰でアンブロシア側のゆったりとした騎士服に身を包んだ青年が、ドレッセン側のピシッとした装いの騎士に連れられて訪ねてきた。
普通は国境を潜る際、ずらずらと門前に並んで一人一人手形のチェックなどをされながら通過するそうなのだが、一応公務で国境を潜るリリは特別で、両国が共通で管理するこの要塞内で、正式な両国間の引き継ぎのもと、以後はアンブロシア側の使者に案内を請うことになるらしい。
彼はその使者であろうから、すぐに察したリリは居住まいを正し、「私がリリです」と答えた。
するとたちまち青年がその場に膝をついて最敬礼したものだから、流石にびっくりして、ぴんっっ、と背筋を伸ばしてしまった。
「ご拝謁いたします、姫君。私は王国近衛騎兵団所属のルシオ・ガジョ・オラーノ。国王エルモンド三世陛下の御命にて、お迎えに上がりました。ここから先は、私の兵団が、姫君を夏の離宮までご案内させていただきます。ご用命がございましたら、何なりとお申し付けください」
「は、はいっ。オラーノ様ですね。宜しくお願い致します」
あんまり丁寧にご挨拶されたものだから、慌てペコリと頭を下げて言葉を返したら、ふと顔を上げたルシオが、一つ二つ目を瞬かせた。
何かおかしかっただろうか。
「オラーノ様?」
「……あ……いえ。申し訳ありません。少し驚きまして」
「私、何か失礼を?」
「いえ。そうではなく。ただその……そうですね。どうか私の事は、ルシオ、と呼び捨てていただけましたら幸いです」
うーん。言いたいことは分からないではないが、年上の成人男性を呼び捨てるのは、中々ハードルが高いのだと、どうして皆分かってくれないのだろうか。
でも困らせ続けるわけにもいかないわけで。
「では、ルシオ……さん」
そうちょっと困り顔で微笑んで見せたなら、クスと口元を緩めたルシオが、「取りあえずそれでも構いません」と言ってくれた。
「それではルシオさん。少しお聞きしたいのですが……アンブロシアの国王陛下は、夏の間はずっとその夏の離宮にいらっしゃるとのこと。お義兄様……アンドレア公のご一家も、そちらにいらっしゃるのですよね?」
姉がそちらに来いと言っていたのだから問題はないと思うのだが、一応確認の意を込めて問うたところで、「その通りです」とルシオは頷いた。
「アンブロシアは広々とした平地が国の半分を占めており、湿気も多く、貴国よりさらに熱さの厳しい土地柄です。なので夏の間は日差しの強い平地を避け、高地にある湖畔の離宮に移って政務をお取りになります。その間、多くの廷臣と貴族や貴顕の方々もご一緒に高地の別荘地街にお移りになりますので、大公殿下は勿論、姫様のお姉君様もそちらに」
「あぁ、なるほど」
そして夏が過ぎると、雪の降り積もる高地を避け、再び平地の城に戻る。貴族達もほとんどそれに合わせて一緒に行動をするわけだ。
本当なら学校が始まる前にアンブロシアを訪ねるつもりだったリリに、姉が、『訪ねて来るなら夏がいいわ』と言った理由はこれだろう。
夏の別荘地の方が、はるかにドレッセン王国から近い。
国王陛下の移動にあわせて、姉にもわざわざそこまで旅行してもらうのはどうなんだろう、と心配していたのだが、姉夫婦も夏の間はいつもそっちにいるわけだ。
「これから三日ほどかけまして、セラノ、ウレタと経由し、目的地のアリアガに向かいまして、まず陛下にご謁見をしていただきます。それで問題ございませんでしょうか?」
地図は馬車の中で何度も見たけれど、それで良いかと言われて分かるほどには詳しくないから、チラリと斜め向かいのクランセン子爵の様子を窺ったなら、すぐに察したらし子爵が代わりに、「それで構いません」と答えてくれた。
子爵は仕事で何度もアンブロシアへの使者を務めているから、きっと慣れているはずだ。
父からも出立の際に、行程はすべて子爵に任せておけばいい。むしろ、子爵の言うとおりにしなさい、と厳命されている。
「セラノ、ウレタではそれぞれ市長が、姫様をお招きしての晩餐会を催したいと申し出ております。大変不躾な申し出ではございますので、もしお許しいただけるようでありましたら、ご出席をお伝えさせていただきますが」
「え……」
晩餐会? それは聞いてない。
そんなものをそつなくこなせるスキルなんて持ち合わせていないし、いや、それは正直、かなり不味いのでは……と、ダラダラ冷や汗を流しながら笑顔を硬直させていたら、すかさずクランセン子爵が、「あー……オラーノ卿」と、ゴホンゴホンと咳払いして見せる。
「この度の姫君のご来訪は、大公令息殿下のお招きによるもの。それに先んじて市長が姫様をお招きになることは殿下に失礼かと存じますし、ましてや姫様は我が国では未だ未成年とされるお年。我が国では、未成年の夜の催しへの出席は原則として禁じられております」
あ、そういえばそうだった、と、リリもはっとする。
学園主催の学生達による催し物とか、自分の家が主催者になる場合の晩餐会なんかは特別だが、学園を卒業するまでは原則として夜会や晩餐会への招きは受けないのが普通。
姉の夫がこの国では相応の地位にある御仁であるから、公式な手段を用いてリリは国境を越えることになるが、目的もあくまで身内に招かれて身内を訪ねるだけである。
他の社交をこなす必要性はないのであって、むしろドレッセン側にしてみれば、アリストフォーゼ家といういち貴族の家系が必要以上にアンブロシアで交友関係を広げることは望まないのかもしれない。
うんうん。そうであってくれたなら有難い。
「姫様が、ご出席になられると言うようでしたら……私が口を挟むことではありませんが」
一応そうお伺いを立てた子爵に、速攻で、そんなことありません、とか言いそうになる口を何とか押し留めて。
「いいえ。残念ですが、子爵様の仰る通りですわ。ご市長様方には残念ですが、ご滞在させていただくお礼だけを申し上げて、お招きは辞退させていただく旨を、丁重に申し上げていただけたならと思います」
ニコリと微笑んで見せながら、最大限言葉を選んで慎重に答えたところ、「そのように手配させていただきます」とルシオも表情を穏やかに頷いてくれたものだからほっとした。
アンブロシア側としても、国王拝謁の前にお姫様に無駄にちょろちょろと交友を広げる勝手はしていただきたくないのかもしれない。
そう。お姫様に。
お姫、様に……。
「ん?」
あれ。何かさっきから、すっごいお姫様扱いされている気がするのは気のせいだろうか。
はた、と首を傾げて子爵を窺って見る。
「どうかなさいましたかな? 姫君」
ほら、おかしい。
確かつい先程、馬車を降りるまでは、子爵は自分を『お嬢様』と呼んでいたはずなのに、一体どうして。
「えっと……いえ」
とはいえ、何で姫様なんですか? とか聞くのも何だか憚られて言葉を濁したところで、「何も問題が無いようでしたら、ご出発してもよろしいでしょうか?」というルシオの言葉に、完全に口を噤まされた。
まぁ、もしかしたら特に意味はないのかもしれないし。
ルシオが恭しすぎるせいでつられただけかもしれないし。
きっとそうね、なんて納得しながら席を立ち、ルシオに案内してもらって、要塞内の通用門から国境を越え、ここまでの道中にも用いたアリストフォーゼ家の家紋が入った馬車が停まる馬車寄せに向かう。
休憩している間にいつの間にか馬車も国境を越えていたらしい。
ついでに馬車に残っていたキリエも一緒に国境を越えたようで、呑気に御者台で日向ぼっこをしていた。
「お待たせ、キリエ。こっちにいらっしゃい」
そう声をかけるとすぐにもピクリと耳を跳ね上げて、ひょっこりと身を起こす。
「遅いにゃ」
そう一つ文句を言ってから、ヒョイと飛んできたキリエを慌てて手を伸ばして抱き留める。
きっと、照りつける太陽のせいで石畳がギンギンに熱を孕んでいるから、石畳の上を歩きたくないのだろう。
「キリエも中に着いてくればよかったのに」
「お姫様気分に水を差さないでやったんだ。満足したにゃ?」
「え?」
何を言っているんだろう。お姫様気分って。
そんなの前世に比べたら、もうずっとお姫様気分だし、満足だとかなんだとか、一体どういう意味で……。
「……え」
はっと顔を上げて。
ぱっと辺りを見回して。
「敬礼!」
おもむろにルシオが発した号令に、擁壁に沿って居並んだ兵達が一斉に剣を掲げて居住まいを正すものだから、びくりっ、と肩が跳ね上がった。
驚いた。なんて見事な、一糸乱れぬ捧げ剣。
それにしたって、たかだか隣国から身内を訪ねてきた程度の客人に、なんという物々しさ……。
「もしかしてこの国って、ドレッセンよりずっと格式ばったお国柄なのかしら……」
以前訪ねて来た時は特に気にしていなかったんだけど、と思わず呟いたところで、ハァ、とかすかなため息を耳に入れ、はた、と後ろの子爵を振り返る。
「姫様。ご失念していらっしゃるようなので、差し出がましいながらも一つ申し上げさせていただきますが」
「え? あ、はい。何か忘れていますか?」
キリエ……は忘れずにちゃんと腕の中でごろごろしているし。他に何か……。
「ドレッセンではいち貴族階級に準じるご身分であっても、このアンブロシアでは元よりアリストフォーゼ家は特別なお家柄。ましてや姫様は恐れ多くも国王陛下の外姪。王妃陛下の姪子君であり、王弟殿下であらせられるアンドレア大公家のご一員でもございます」
「は、はぁ……でもそれはただお母様とお姉様が……」
「姫様は、少なからず、この国の王位継承権をお持ちである王子様方の従妹であり、アナイス殿下の叔母君でもいらっしゃるのですよ」
「あっ」
なるほど。そういう言い方をされると、なんかすごい気がしてきた。
あれ? ていうかリリって。
「あれ?」
もしかしなくても、実はお隣の国での方が、すごい身分高いんじゃない? と、今更気が付いたリリの視線は、自然と、呑気に欠伸をしているキリエを見つめて、愕然とした。
ねぇ、キリエ君や。神様に伝えて欲しいんだけど。
リリの設定、おかしくね?
リリ・クラウベル・アリストフォーゼ。十五歳。
なんかどうやら、公式HPには欠落していた、凄まじい裏設定が付いていたらしいことを、今更ながらに自覚した。




