表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
攻略難易度が高すぎて挫けそうです  作者: 灯月 更夜
第二章 好感度カプリチオーソ
PR
74/186

2-23 夜の音楽祭(2)

 いつの間にか弾き終えた、何の感慨も無い最後の一音に、わっと惜しみなくもたらされた拍手に、リリが感じた体裁と配慮は微塵も感じられなかった。

 聞き慣れない異国の、いささか警戒さえしている国の楽団の演奏に、ドレッセンの貴族達はただただ純粋に耳を奪われ、手を叩かずにはいられなかったのだ。

 知っている。その感覚。

 ただいい演奏をした時の快感とも違う、観客の度肝を抜いた時の心地よい歓声と興奮。

 最初にそれを感じたのは、七歳の時に父が指揮するオケの曲を、そらんじて弾いて見せた時だっただろうか。大人たちの絶賛の声が、それから長い間のリリの音楽への活力になった。

 あれはあれで快感だったけど、一番いい気味だったのは、高校に入学してすぐの頃、二、三年生を差し置いて文化祭のソリストに選ばれて、親の七光りだ英才教育だと嫌味を言われていた頃。たまりかねたフラストレーションを暴発させて、プログラムにある曲を止めて、悪魔のトリルをいっそ恐怖心を煽るくらいに抒情的に弾き切った時だろうか。

 先生たちの呆気にとられた顔と、覗き見に来ていた音楽雑誌の記者たちの興奮が、たまらなく小気味よかった。

 もちろん、あとで先生たちにはものすごく叱られたけど。

 あぁ、そうだ。

 叱られるくらい、なんてことない。

「いやぁ、素晴らしい伴奏でしたよ、姫様。とても心地よく弾かせていただきました!」

 わっはっは、と楽しそうに笑うチェレスター卿。

 えぇ、えぇ、認めましょう。貴方の技術は本物で、その耳も、リリから見事盗んでくれた協奏曲も、嫉妬するくらいに最高で。


 うふふ。でもそれが、どうしたって?


「チェレスター卿の技術は本物ですね。鼻高々になっていらしてなお、ちゃんと周りの音を聞いて合わせられるのですから、本当に素晴らしいと思います」

「え。鼻たか、え?」

「そういえば卿。実は私、本当は誰かと合わせるのって、すごく苦手なんです」

「は? いやいや、突然何をご謙遜を」

 ねぇ皆さん、と周りに同意を求めるチェレスターと同様に、皆もキョトリと首を傾げている。

 まぁ、そう思っていただけたならそれでもいいのだけれど。

 うん。でも思い出したよ。

 そういえば私、そういう人間だった。

「まぁ確かに……リリは気分で突然変わるからな……」

 流石にリリと良く合わせたことのあるユーシスが、そうボソッと呟くのを聞いて、これにはリリも思わず、おっとっとっっ、と肩をすくめた。

 その節はすみません。毎回毎回、気分次第で変えてしまって。

 でもそれに大人しくついて来てくれていたユーシスさんって、やっぱり有能だ。

「あのぅ、殿下。申し訳ついでに、ちょっとこの会場にまったくそぐわない身勝手な演奏、してもいいですか?」

「ん?」

 何だ、急に? と首を傾げるユーシスが、しかし何やらニコニコとしてフラストレーションをためまくったリリの様子に何かを察したのか、一つ苦笑を溢して見せた。

「それはさぞかし、この場の、やっぱり楽器の母国であるアンブロシアに、音楽文化で適うわけがない、みたいなドレッセンのこの空気をどうにかできるものなんだろうな?」

「知らないんですか? 殿下。愛し子って、時代の折々に何やらとんでもない爆弾を投下する問題児の事らしいですよ?」

「おい、それは初耳だぞ」

 ハァ、とため息を吐かれたけれど、そこは無視しておいて、取りあえずきょろきょろと自分の袖を見回し、おもむろにばさりとひっくり返すと、今朝ユリーに教えてもらった袖のレースのリボンを解く。

「っ、ちょ、リリ?! いきなり人前で何を」

 慌てふためいたオルネストが人垣からリリを庇うようにマントをかざしてくれたけれど、別段袖を外すくらい、なんてことない。がん無視して、逆の袖もとって、すっかりと袖を軽くすると、何かと邪魔な顔のベールに触れる。

「殿下。これ、取ったら不味いですか?」

「まぁ……いいということにしよう。邪魔なのか?」

「ええ、邪魔です。あ、ブローチ。どうやって外すんだろう」

 わたわたと顔の横で指先をもたつかせていたら、不意に伸びてきたユーシスの手が耳に触れて、ぴくりと身を固めた。

 そのまましゅるりとリボンが解かれ、丁寧にブローチが外され、ジャラリと重たい髪飾りと、それにしっかり結んであったヘッドドレスのリボンが解かれる。

 何やらものすごく恥ずかしいんだが……自業自得なので、黙っていよう。

 その内、ふわりと顔の前から、一日中視界を妨げ続けていたベールが遠ざかって。

 明瞭になった視界に一番に飛び込んできた、いつもの三割増しに煌びやかな王子様に、思わずクスと笑ってしまった。

「いきなり人の顔を見て笑うな」

「ふふっ。いえ。思いのほか王子様な感じで、びっくりしたんです」

「他に言いようはないのか?」

 ないですねぇ、なんて言って見せたところで、くいと左手を取られ、おもむろに腕になにやら巻かれ始めた。

「あのー。えーっと。殿下? 何ですか、急に」

「邪魔か?」

「いえ、そんなことはないですが……」

 ないんですが。

「あ」

 あぁ。やっぱり。

 何やらやたらユーシスが気にしているとは思っていたが、やっぱり、母がベールに添えるのに選んだリボンは、いつぞやのシャンパンカラーに薄紅の刺繍が入った、例のリボンだったようだ。

 多分。というか間違いなく……何も言わず、さりげなくリリの誕生日の日に、この髪に勝手に結われていた、身勝手な誕生日プレゼントのリボンだ。

 何故だ。使われないように、荷物の奥底に別に分けて入れておいたはずなのに。

 くそぅ、ユリー! お前か! この有能過ぎるお侍女さんめ! 片付け完璧か!

「それで? 君は一体、何を弾くつもりなんだ?」

「うふふ」

 もはやベールで隠されることのないクリアな視界の中、遠慮することなくニマリと笑って見せる。

 ただ一人楽しそうにしているブレッケルが、リリにヴァイオリンを差し出してくれたので、再びそれを手に取って、軽く手を鳴らす。

 あぁ、袖が軽い。ついでに頭も軽い。視界も良好。ついでに音の聞こえも良くなった気がする。


「チェレスター卿」

「は、はいっ。姫様」

 リリの顔が見えたことで、急に萎縮してしまったのか。おどおどと返事をするチェレスターが、チラ、チラ、と視線を泳がせている。

「いつぞやの夏には、私が卿に、弾けるものかという軽い気持ちで楽曲を提供したところ、今日はそれをものの見事に弾き切られてしまったことに、とても驚かせていただきました」

「い、いえいえ。この世の至上ともいえる難曲でしたが、姫様にそう言っていただけたなら」

「至上の難曲?」

 うふふ、ともう一度微笑んで見せたリリに、忽ちゾワリとリリを見ていた楽団員一同が身を凍えさせる。

「お集まりのドレッセン、アンブロシアの陛下殿下、紳士淑女、令息令嬢の皆様。今日は思いがけずもこの音楽祭で、アンブロシアの卓越した技術と演奏が、皆様の御心を射止めることとなりました。今一度、この素晴らしきソリスト、チェレスター卿に惜しみない拍手を」

 ふわりとオルネストの影を飛び出し顔を出したリリに、一瞬ざわりとざわついた会場が、しどろもどろに、やがて波に乗るようにして、困惑しているチェレスターに大きな拍手を送った。

「ところで王太子殿下。我が国ドレッセンの楽団の抒情的な音色も、それに全く負けていなかったと存じますが、しかしなるほど。技巧という意味では、ドレッセンの既存の曲ではいささかチェレスター卿には物足りなかったようです」

「ほぉう。それは不本意だな。君ならどうする? リリ・クラウベル・アリストフォーゼ嬢」

 お芝居に乗ってくれたユーシスの緩慢とした声色に、チラ、チラ、と、緊張の面差しのドレッセン貴族達が、二人を見交わす。

「少々皆様に受け入れられるのか不安な異色の音色で宜しければ、私、“ドレッセンのリリ”が、本物の技巧というものを見せつけて差し上げたく存じます」

「ふっ……どうした、リリ。悪いものでも食べたか?」

 クスクス笑いながら小声でささやくユーシスに、「良いから適当に合わせておいてください」と頬を膨らませる。

「陛下。折角の音楽祭の夜です。この音楽祭の構成と、両国の披露曲の一部作曲をも担っていたリリ嬢の才能を評して、一つ我儘を許して差し上げてもよろしいでしょうか」

「言うに事欠いて我儘ですかッ」

 げしっ、と密かに背中を小突いてあげたけれど、当然ちっとも動じた様子なんてないのが悔しかった。

「面白い。許す!」

 遠い遠い上座の先で、何やら少し戸惑うように王を諌めようとしている王妃様とは対比的に、国王様は高らかに盃を掲げて見せた。

「もしその演奏が誰しもに認められるものであったなら、余は惜しみない褒賞を与えよう!」

 うん? なんかすごい話がでかくなってない?

 別にそんなつもりはなかったんだけど。

「あぁ言っているんだ。貰っておけ」

「殿下、適当ですね」

「あの人は案外、こういうイレギュラーが好きなんだ。性質が悪いことに」

 ハァとため息を吐いたユーシスに、若干呆れてしまった。

 やっぱりうちの王様。この人の父親だわ。遺伝って怖い。

「それでは僭越ながら。たまりにたまったうっぷんを晴らすべく、珍しく“本気”で行かせていただきます」

 そう戦場に赴くかのようにズンっと足を踏み出したところで、いつの間にやら、人垣の中に一匹の黒猫が大人しくお座りしているのを見つけた。

 まったく。一体今まで、何処をほっつき歩いていたのやら。

 アドバイスの一つもしてくれないんだから。


「ナァ」


 可愛らしく鳴いたって、許さないんだから。

 とはいえ、そんな猫の鳴き声にびっくりしたように割れた人垣の間を、真っ直ぐと歩いて、キリエの傍で立ち止まる。

「リリ、今日は珍しくやる気にゃ」

「神様のオープニング、ぶち壊してみせます」

「ご主人様はドッキリが大好きにゃ」

 いや、ここでその情報、開示しないでよ。とか呆れないでもないけれど。

 でも神使様のお許しももらえたことだし、思い切りやろう。

 まずは軽く、少しの狂いも無くしっかりと音を微調整してゆく。

 これから弾くつもりの曲は、二本の弦を同時に駆使する重音が多発する上に、早すぎるパッセージが、僅かな狂い一つで音楽をただの音の羅列に貶めてしまう。

 今なお一つの音も溢すことなく完璧に弾きこなせたことなんてないけれど、ただこれが“神様に愛される”ってことなのかと思うほどに、リリの指は理想的だ。細く、長く、硬いだけじゃない。最早生まれもった才としかいいようのないしなやかな指先の関節と、リリ自身がしっかりと鍛えてきた一本一本のバランス。これが有れば、今までで一番の演奏ができることは間違いない。

 それは、リリが小さな頃、最初の尊敬する師となったアレンに言われた、原点の曲。

『君の技巧は君の圧倒的な武器だ。取りあえず十二歳までに、この曲を完成させて来なさい。そしたら弟子入りを認めてやる』

 ニマニマと笑いながらの、絶対に本気じゃなかった適当な言葉だったのだけれど、あの日から取りつかれたように弾きまくって父に心配された曲。

 アリストフォーゼの聖女だなんて言葉がまるで似合わない、地球音楽界きっての“悪魔”と名高い男の曲。

 痩せていて薄気味悪くて、舞台にはいつも黒づくめで現れて、お金にがめつく女にだらしがない。それでいながら恐怖に泣き叫び、息を切らせて失神する者をも続出させたという、意味不明のただの天才――ニコロ・パガニーニ渾身の身勝手な奇想曲。その最も狂気に満ち溢れた第二十四番。

 成熟した凜々子の世界の音楽の中でも、なおも人の手で弾けるようには出来ていないに違いないと言わしめる、まさに悪魔的な曲だ。

 キンと鳴らした音程合わせの音色に、いい感じに周りの緊張感が高まったところで、長いドレスの裾の下でこっそり靴を脱ぎ棄てて、足を開いて安定を取ると、いつぞや見たパガニーニの映画の雰囲気たっぷりの唸るような冒頭をガツッと弾きこなす。

 剣呑な雰囲気の中にじわりと交えた柔らかいEの高音が、ゾクッとするくらいに心地よい。

 だがそれに息を吐く間もなく、瞬く間にひたすらせわしない十七小節目。


 うふふふふ。

 お貴族様達が間抜け面を晒してポカンとしているのが肌に感じて分かる。

 いやいや、でも焦ったりしない。二十一世紀の多くの音楽家が、この曲の超絶技巧を弾きこなそうと、いささか恥ずかしいくらいの技巧アピールでこの曲を弾いたけれど、正直聞いてられやしなかった。リリが感動したのはそんなものより、このコロコロと表情を変える曲をきちんと一本の音楽として完成させたドイツ人女性ヴァイオリニストの演奏だ。

 それを模倣するわけではないけれど、彼女の寸分たがわない完璧な音程はリスペクトしているし、何よりこの曲にはそれが絶対必須だ。

 速度を犠牲にしてでも完璧に弾きこなして見せてこそぞわっとせりあがって来るような快感がある。

 あぁ、いい。思った通り、リリの指は関節がいかれてるなってくらいによく回る。

 だがそんなリリの指をしてなお上に下にと目いっぱい動かされまくる左手には、見る見る疲労感が蓄積されてゆき、少しの左の努力を無にせぬようにと、右手にも目いっぱいの神経を張り巡らせながら弦の角度を細かくいじって音をクリアに奏で続ける。

 ほぅと、一瞬の空白音に気を休める暇も無く、今度はじっとりと聞かせる重音の奏法が十六小節。勿論リリは目いっぱいビブラートをきかせてハードルを上げてみせる。

 ッいや、待て待て落ち着け自分。やりすぎた。

 でも今更止められないからひたすら食いついてみせたかと思うと、金切声をあげるような超高音できぃんと嫌な音を立てさせ、また早いパッセージ。

 なんて音を出すんだと耳を抑えた紳士の顰め面がリリをにやにやと笑わせる。

 そこから低音と高音がせわしなく弾んで、一本のヴァイオリンが、まさに主旋律と伴奏を両立する技巧に、紳士がポカンと耳から手を浮かせた。


 うふふふふ。

 いえいえ、でもこの曲の見どころはここからなんです。

 再び音を重ねた重音で、ふと華やかな色を見せた曲調が、うんと引き込まれてしまいそうなアルペジオを繰り返し、その想像以上の良い音に、思わずニッとリリの口元がほころんだ。

 こうして油断させておいての、またの重音による鬼気迫るパッセージ。

 一層抒情的に三重音による主旋律を奏できったところで、ひと心地ついてからの低音のA。

 そこから個人的この曲の最難関。

 右手に弓を握りしめるとぎゅっと顎でヴァイオリンを固定し、気迫を込めた渾身の右手と左手によるピチカートの応酬を弾きだす。

 それはもう左手の指がどこかに飛んでいくんじゃないかというひたすらのピッツ。

 ここはもう、頭で考えたら負けだ。ひたすら指先の記憶だけで弾きこなしたところで、またキィンと、高音のかなきり音を、弦で奏でる。

 既にこの音に癖になっている人がいるようで、くるりと身をよじった先で、うっとりと口元に両手を添えて、今にも倒れそうなご夫人が目に入った。

 うふふ。そうでしょうそうでしょう。この嫌な音。なぁんか癖になるのよね。

 リリも、このせわしないピッツの後のキリキリ張りつめたうっとりした旋律が、この曲で一番好きな箇所だ。まるでカナリアがさえずるように繊細で、緊張感を高めに高め。

 でも、指が回りすぎてとまらないパガニーニさんがそれで満足するはずも無く、再び忽ち重音で奏で始めたせわしない音楽に、ハァと、息を絶え絶えにして膝をついたご夫人が現れ、どよめきが起こったのを目にした。

 でもそんなのに構っている余裕なんてない。最後はお行儀のいいうっとり感なんてがん無視で、ばんばん揺れながら身体でシビアな音を奏でてゆく。

 最後の最後で疲れ切った腕を酷使しまくってくれるアルペジオ。

 じわじわと高まる興奮のままに、指先の力を抜き切って奏でる渾身のトレモロと、トレヒャンッッと弦を弾き飛ばす勢いで奏でた最後の一音に。


「あ」


 もれなく一緒に、弦も飛んでった。

 痛ッ! 指切った!

 え? いや、別にパフォーマンスじゃないよ? これでおしまい。

 四分と少々のあっという間の完走です。

 ヴァイオリンを小脇に抱え、ニコリと微笑み振り返り。

 チェレスター卿に恭しくご挨拶をして見せたところで、忽ち、歓声というか、きゃぁぁぁ、みたいな叫び声が巻き上がった。


 地面が揺れている。

 鼓膜がはちきれそうだ。

 あ。又誰か倒れたぞ。

 なんて心地の良い空気。

 これこそが、リリが浸り続けていたい音楽の世界。


 うふふふふ。


「大ッ満ッ足!」

「聴衆を倒れさせておいてそれか」


 そこにハァと一つため息をついて近付いてきたユーシスに、なにやら急激にパガニーニの世界から現実に引き戻された心地がした。

 うふふ、どーです、殿下。リリちゃん、やればできる子でしょう?

「殿下、チェレスターさんどんな顔してます? うふふ」

「魂が抜けた顔をしている」

「私はもうそれだけで大満足なのです」

「君が大満足でも、今ここでふらふらいなくなられては困るからな」

 そう呆れたようにグイと引っ張られた手に、忽ちヴァイオリンを奪われた。

 それを恨めしそうに見やったけれど、すぐにラウルにそれを預けたユーシスがヴァイオリンを取りあげられたリリの手を取ってポケットから引っ張り出したハンカチーフを巻くものだから、キョトンと首を傾けた。

「ん? 何です? 殿下」

「何じゃない。血が出ている」

「あぁ、この位いつもの事で……」

「無頓着もいいが、血を見ただけで卒倒(そっとう)する者がここには多すぎる。大人しくしておきなさい」

 あ、はい。皆さんとっても繊細なのね。

 それにしたって。あぁ、良い心地だ。

「ふふふー」

「まだ呆けるなよ。陛下が席を立った」

 うん? へーか? なんだっけ、それ。

「あ」

 忘れてた。

 いけないいけない、と上座を振り仰いだところで、確かに席を立った国王陛下が、傍の侍従に何かを指示しているところだった。

 こうやって見ると陛下。ユーシス殿下に似ているなぁ。


「リリ・クラウベル・アリストフォーゼ嬢」

 途端に名前を呼ばれ、慌てて振り返る。

「その音、その曲、その技術。そのすべてにおいて、貴殿が最も卓越した存在であることは、もはや明確である。まさに見事としか言いようのないものであった! 余はそなたこそこのドレッセンの。いや、世界の誉れであることを称賛し、ここにリリアンテ勲章を授与する!」

 うん? 勲章?

 は? あれ、なんか勲章貰っちゃったよ。何それ?

 取りあえずキョトンと見やった傍らの王子様が頷くのを見て、歩み寄ってきた侍従が差し出した金と紫の勲章を大人しく受け取った。

「格別の栄誉を賜りましたこと、心より感謝いたします」

 何かを下賜(かし)された時はこれでいいんだよね? いや、勲章も同じでいいのかな?

 よく分からなかったけれど、学校で習った通りの作法で恭しく礼を尽くしてみた。

「うむ。して、これに加えて余は、そなたの望みを叶えたいと思うが、さて何が良いか。地位などというものは余がもたらさずとも持ち得ていよう。名誉などというものもまた、今この場でそなたは自分で勝ち取った。では物であろうか。最高の楽器か。それとも最高の舞台か。あぁ、なんなら王太子でも良いぞ」

 ざわッ! と鳴り響いた会場のどよめきに、ちょ、何言ってるの、この王様! と、リリはひくりと顔を引きつらせた。

 それは軽々しくあげちゃダメなやつです! 絶対に!

 ま、まてまて、落ち着けリリ。これは多分、政治上のなんとかいうやつだ。

 ここぞとばかりにアリストフォーゼを取り込む気だ!

 じゃあそうならないように。なにかもっと。リリが望んでもおかしくなくて、でも王様が王太子の代わりにしても良いと言うくらいに適度に無謀な……。


 どうしようっ。助けて、お父様!


 そうチラ、と壁際で静かにたたずむ父を見やった瞬間、ふっと、何やら目の覚める思いがした。

 あぁ。あった――。

 今この場で望むのに最もふさわしく。そして今しかないもの。

 今までずっと好きにさせてくれた“両親”に、出来ること。


「恐れながら陛下。本当に、何でも望んで宜しいのでしょうか」

「無論だ。何を望む」

 だったら。

 国王様にしか、出来ない願いを。

「では……母の」

 今そこで、アンブロシアの装束をまとい、父から離れてぽつりと佇んでいる、その人の。

「我が母、クラリサ・ノーレ・フェイルゼンの、ドレッセンにおけるアリストフォーゼ辺境伯夫人としての地位と戸籍を」

 今度のザワリというどよめきは、おそらくアンブロシア側のどよめきだろう。

 そもそもドレッセンにおいて母が公式の戸籍を持てなかったのは、アンブロシアのせいなのだ。アリストフォーゼ家を頑なにドレッセン貴族として認めず、またアンブロシアの王妃の妹を公王妃としてドレッセンに認めさせようとした結果の、不幸な出来事。

 それに対してドレッセンもまた、アンブロシアはクラリサをアンブロシアの者として手放すつもりが無いのだと警戒し、頑なに条件を取り下げなかった。

 でも今なら。今この瞬間でなら、それを(くつがえ)せるのではないか。

「我が母クラリサは、確かにアンブロシアの出身です。しかしアリストフォーゼ家に嫁ぐのに他意はなく、周囲の余計な政争に阻まれ、正式な成婚を認められず今日まで至っております。けれど陛下。如何でしょうか。母が嫁いでもう、二十五年以上がたっております。母はその間、ドレッセンのためにならないことをしたでしょうか? アンブロシアと(こう)を通じ、不利益をもたらしたでしょうか?」

 くるりと見渡したドレッセン貴族達の中にも、ざわざわとざわめきが広がってゆく。

「確かに、我が姉リザは、アンブロシアの大公家に嫁ぎました。しかしそれは自らが家を出ることで、アリストフォーゼが両国の中立であることを誇示するためであり、今やアンブロシアにおいてドレッセン文化の発信を担っています。それに私は家督の継承を放棄しております。これもひとえに、アンブロシアの王室と血縁を持つ私が中立であるアリストフォーゼを継ぐことを固辞するためです。母はそうした私の身勝手を、一言たりとも咎めたことは有りません。いえ。むしろそうして故郷での立場を苦しくしてなお、母は一身にその矢面(やおもて)に立ち、アリストフォーゼが永劫中立であれるよう、尽力してまいりました」

 ふむ、と、遠くで国王陛下が頷くのを見て、僅かに希望が過る。

「されば陛下。このドレッセンとアンブロシアの国交が正常化して百年という節目の年、両国の和平の象徴として、その中立に甚大なる貢献を果たした我が母クラリサを、その中立の象徴たるアリストフォーゼ家の夫人として認めることを、お許しください」

 どうか、と願った視線の先で、フェイルゼン侯が顔を青くし慌てふためき、オルネストが不本意を顕わにきつい眼差しをしているのが見えたが、ここで否とは言わせない。

 そうジッと視線だけで制するリリに、皆もゴクリと息を呑んで陛下の裁断を待つ。


 その時間は、一体どれほどの時間だったのか。

 長くも感じたし、あるいはほんの一瞬であるかのようでもあった。


 やがて、カンと王笏(おうしゃく)を打った国王陛下は、とても生真面目な面差しをして、「書記官!」と、ホールにいた文官を呼びつけた。

「余、ドレッセン国王アデリスは、このように慈悲深く才知溢れるリリ嬢を我が国にもたらしたもうたクラリサ・ノーレ・フェイルゼン侯爵令嬢の功績を認め、リリ・クラウベル・アリストフォーゼ辺境伯嬢の母であることを。またこのドレッセンにおいて、最も公平にして英明と知られる教公ゼーレム・クラウベル・アリストフォーゼ卿の妻であることを承認し、クラリサ・ノーレ・フェイルゼン嬢をアリストフォーゼ辺境伯夫人に叙爵する!」

 そこにジワリと焦りをにじませたアンブロシア側の不穏な空気に、されど国王はひるむことなく、おそらくリリの近くにいるのであろうオルネストに視線を投げかける。

「同時に余は、我が隣人たるアンブロシア王国との益々の和平と関係の強化を願っている。ひいては両国の架け橋として長年我が国に尽くしてくれた辺境伯夫人の功績に対し、今なおアンブロシア王国においてアリストフォーゼ家がキリエンヌ公王家としての尊敬と崇敬を受けることを鑑み、夫人がキリエンヌ公王妃としての地位にあることもまた、承認しようと思う! 皆は余の言葉を承知し、余の言葉のままによれ!」

 安堵を通り越していささかびっくりした心地で顔をあげたリリの目に、惜しみない拍手に包まれる母が、掌で顔を覆い、涙しているのを見た。

 慌ただしく人を掻き分け、母に駆け寄る父を見た。

 なんだか想像以上に変なことになった気がしないではないんだけど。

 うん。これでいいんだ。

 きっと、これで良かったのだ。

「今宵は偉大なる日として歴史に刻まれることだろう! 皆、宴を続けよう!」

 わぁ、と賑わった貴族達が、上座に近い場所にいた母に群がったため、リリの視界から父や母、国王様の姿も見えなくなった。

 つまりあちらからもそうだろうから。これにて、お役御免といったところか。

 大満足だ。


「ふはぁー……」

「まったく君は……日頃おどおどしていたかと思うと、とんでもないことをしでかすな」

「でんかぁ、ちょっともう限界です。倒れそうです」

「わかった、わかった。連れ出してやるから、まだ倒れるな」

 ぐったりと抱き着いた腕が、すこしも厭わずに体を支えてくれる。

 さりげなく背中を押した掌が、ふわふわと心地よくて安心する。

 なのに紳士な対応とは裏腹の深い深い眉間の皺が、面白おかしい。

 むふふ。いつ何時も、何があっても変わらないとは、流石の安定の殿下です。

「誰かに何かを話しかけられても、適当に笑っておけ。さっさと逃げ出すぞ」

 わー。キリエさん、聞きました?

 王子様から③逃げろ選択指示がでましたよ。

 なので有難くそうさせていただくこととして。

 今なお惜しみない拍手を送って下さっている皆様に、ニコニコと微笑んで差し上げながら、ユーシスに引っ張られるままに、ふわふわとした足取りで会場を連れ出された。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ