2-22 夜の舞踏会(3)
「……リリ。始まる前から足がもつれているぞ」
「き、気のせいです」
何とかゆっくりと手を引かれるがままに舞台の中心まで連れ出されて、向かい合う。
たーらったーりらっ。たーたらりらりーらっ♪
たんたらりらりーらっらっ、たんたらりらりーらっ♪
序章が終わりを告げて始まった音楽に、バクバクと破裂しそうなくらいに心臓が暴れ出す。
視界の端が、ぐるりと二人を取り巻く色とりどりの紳士淑女の装いに、くらくらとした。
これぞまさに、絶体絶命。今すぐ呼吸を忘れて倒れる自信がある。
やがて向かい合って交わした一礼に、密かに歯を鳴らしながら、恐る恐る、その手を取り、もう片方の手を王子様の肩に置く。
同時にきゅっと抱き寄せられた腰元に、ふらふらっと早速ふらついた。
「……おい。本当に大丈夫か?」
「あ、あれ。最初のステップって、何でしたっけ?」
「重傷だな。さっきの勢いは何処に投げ捨てた」
「私、今まで人生で、スオウ様以外とまともに踊れたことないんです」
「スオウ? スオウとなら踊れたのか?」
「というか余りに酷い私の運動神経に、セリアお祖母様が……スオウ様のお祖母様が、スオウ様に命じて私の大特訓を。おかげさまで、スオウ様に振り回されるままに、なんとか一曲は」
「なら、大丈夫だ」
そう言われた瞬間、ふわっと手を引かれたものだから、慌てて一歩、足を踏み出す。
それから右。次いで後ろ。今度は左。それから前。
あれ。あ、そうだ。そうそう、こんな感じ。
「思い出してきたか?」
「ひっ。喋りかけないで下さいッ。間違えますッ」
「鬼気迫る形相だな」
クスクスと笑っているこの人は、一体何がおかしいのだろうか。こっちは必死なのに。
「何も考えずに顔を上げろ」
「む、むりむりむりっ」
「何なら音楽だけ聞いていろ。君のお気に入りのブレッケル卿の伴奏だぞ」
「そんな余裕があるように見えますか?」
「あるんじゃないか? あ。セカンドが今一つ音を飛ばしたな」
「え? あ。ん? ほんとだ」
はっ、と、唐突に気になって、顔を上げる。
「あ。いえ、殿下。これ、アレンジですよ。同じ動機の。ほら、ここ。また音を飛ばした。代わりにサードがピッツを入れてます。ん。なんだかこのアレンジ、合わせやすいです」
「ふっ。余裕が出て来たみたいだな」
はたっ、と再び足元を見ようとしたところで、「見るな」と指示が飛んでくる。
それについ反射的に顔をあげた。
「わ、私、今ちゃんと踊れてますか?」
「あぁ。中々に酷いが、完璧に誤魔化せている」
「ちょっ。そこは適当に褒めておいて調子に乗らせるところでは?」
「大変上手に踊れている」
「言葉の抑揚に何の感情の欠片も無い!」
こんな時まで、安定の鬼畜大魔王様だなんて。
ぷふっ。
「あぁもう……ふふっ」
「おい。おかしくなるにはまだ早いぞ。もう少し自我を保っておけ」
「るーたったーるーたっ。るんたったーるーたー」
「まったく……」
「ふんふっふー、ふーらったー。ふらららるらるったー。あ、私ここの掛け合い好きなんですよね。で、ここからチェロの。あ、これこれこれ」
「今到底他人には見せられない顔になっているぞ」
「い、いいんですよっ。どうせ遠くからは見えてないんですからっ」
ふんっ、とベールを揺らしてくっと背を反り、それからほとんどユーシスに振り回されるがままに一回転して、ついでに長いドレスの裾に足を隠し、その後の複雑なステップを誤魔化す。
「うふふ。何だか踊れている気になりますね」
「来年追試になりたくなければ、今の内から柔軟をしておけ。硬過ぎだぞ」
「うっ。そういえば何だかバルトさんが、ノマ様にバキバキにされていた記憶が……」
「それから、くれぐれもその裾を踏んだりだけは……」
「あ」
言われている傍から、裾を踏んだ。あれ、これどうしよう。
「君は本当に、何というか……」
文句を言いながらも、突如フワッと腰を抱き上げられた浮遊感に、ビックリして咄嗟に肩に手を吐き、口を噤む。
くるり。くるり。
軽やかに宙を舞って、やんわりと地面に降りてきた足が、勝手に次のステップを踏み始める。
忽ち、きゃぁと周りで色めきだった歓声が音楽を邪魔するけれど、それすら気が付かずに、ポカンとした。
「あ。あれ? 今」
「連続では踏むなよ。一度なら誤魔化せるが、連続はばれるぞ」
「は、はいっ」
あ、そうか。誤魔化してくれたんだ。
そう気が付くと、何やらふわっと頬に熱が灯った。
何やら体がふわふわと浮いて感じる。なんだろう、この感覚。
翻弄されるままに、くるりくるりと、勝手に足が動く。
頭の中で、勝手に音楽が鳴る。
いつの間にか途絶えた軽口に、妙に心臓が高鳴る。
また苦手なダンスに緊張してきたのだろうか?
いや、違う。
なんだか。
なんだか、こう、なんだか……。
「ふぅぅぅぅぁ」
「おい。何も考えるなとは言ったが、本気で思考を放棄するな。流石にフォローしきれないからな」
「ふぃぃぃぃぃ」
あはは。なんかもう。どうにでもなれ。
「あぁ……わかったわかった。最後まで踊りきったら、褒美に後で楽団と演奏させてやる。どうだ。意識は戻って来たか?」
「あれ。貴方本当にユーシス殿下ですか?」
「とことん失礼だな……君は」
「復活しました。えっと、ここで一回転……」
くるんと、またもほとんどユーシスに振り回されるままに一回転して、そのままコロンとこけてしまいそうな体をさりげなくユーシスが回収して何事も無かったかのように踊り続ける。
それから最後の終盤で、すてっぷ、すてっぷ、たーん、すてっぷ。ちょっと離れて一礼したら、もう一度ステップ、ターン、りゃーんりゃんっ、と。
自然と離れた手と、音楽の余韻の中、恭しく一礼をするユーシスに、リリも授業で身に付いた所作のままにドレスの端をつまんで、地面に膝が付くかつかないかのぎりぎりまで腰を落として一礼を返す。
途端に、わっと降り注いだ拍手と歓声は、キンキンと耳に響いて痛いくらいだった。
今更ながら、自分らしくも無い大胆な行動に、背中がひんやりする心地だった。
「上出来だ」
ただそうやって差しのべられた手と、滅多に見せない静やかな微笑みだけが、ほっとする。
「これなら二年の試験も大丈夫ですかね?」
「……」
あ、はい。駄目ですね。分かっていますとも。
所詮はこの長い裾で誤魔化されまくったステップと、殿下の惜しみないフォローのおかげですって。
「ふふっ」
「何がおかしい」
「いえ。そういえば小さな頃、同じような手でスオウ様が私に一曲踊らせて、そのたびにあの魔性の笑顔で、ほら踊れた、上手だよってベタ褒めしていたのを思い出して」
「アイツらしいな」
「おかげで私は本当は自分がまったく踊れていなかったことに長らく気がつけず、後々痛い目を見ることになりました」
「だろうな……」
「その点、殿下は正直で、いいですね」
「出来ないことを褒めてしまっては、出来ていることを褒めた時に疑われる。私は君の書類整理の速度と正確さを非常に買っているが、それが今日のダンスと同じレベルの出来だなどと言うのは、素晴らしい書類整理能力に対する冒涜だ」
「いや、あの、そんなところを買われても困るんですけど……」
雑用はむしろあんまり買わずに、減らす方向でお願いします。
何やらそんなしょうもない話をしながら、手を引かれるままに中心舞台を離れてゆく。
そういえば殿下、何処に向かっているんだろう、なんて気が付いたのは随分とたってからで、やがて立ち止まったユーシスにあわせて足を止める。
ベールの隙間から、豪奢な刺繍の施されたフワッフワの毛皮のあしらわれたマントが見え、ついでほんのりと漂ったカラメルみたいな甘い香りに、ハッとして顔を跳ね上げる。
あれ。ここ、何処だ。
もしかしなくても、超超上座ではないか?
「素晴らしいダンスだった。ユーシス。それから、リリ姫」
そこにいらっしゃるの、もしかしなくても国王陛下で有らせられませんか?!
「有難うございます……リリ?」
挙動が不審になったのに気が付いたのか、チラと此方を向いたユーシスの視線に、はっとしてリリも背筋を伸ばした。
お、落ち着け。落ち着くんだ私。
今日の私は、主賓の娘。アリストフォーゼのリリだ。たっぷりとそのベールをかぶって、いつも通り。いつも通り……。
「ひとえに、殿下のエスコートあってこそでございます。このように拙いものをお目にかけた上に、ご拝謁の栄誉にまで預かれましたこと、恐れ入ります」
王子様とのダンスで、お姫様病にでも罹ったのだろうか?
ドレスの裾を摘まんでそっと腰を落として見せながら開いた口は、自分でもびっくりするくらい、すらすらとそれっぽい言葉が零れ落ちた。
あぁ、何だっけこれ。プライミング効果? 潜在意識で学習したものが無意識に出てくるっていうアレか?
「いやいや、謙遜の必要はない。王太子との息の合いようは、それはもう見事なものであった。そうではないか? 王妃」
「ええ、本当に。思えば音楽祭での演奏も、まるで即興とは思えないほどに何度も練習を重ねたかのような息の合いようでしたわ」
あ、それは実際何度も合わせたこと有るからね。
っていうか何だ? このじわっと何やら嫌な会話。
「そのように見えたのであれば、スオウの功績でしょう。リリ嬢のダンスの師はスオウだそうです。私とスオウは、同じ師に学んでいますから」
「あ……もしかして、“ラ飛び”のさっきの曲……」
思わず呟いたリリに、傍らでふっと笑みがこぼれる声を聞いて、視線を寄越した。
なるほど。あの伴奏の、あのアレンジ。王室教師か何かの好みなのか。
ん、まてよ? なんかリリ的には、今日の曲調の方が、学校でやった時より自然に踊れた気がしたんだけど、これって、ただユーシスがべらぼうに誤魔化しが上手かっただけじゃなくて。
「そういえば何だか前にスオウ様が、私は“耳が良すぎるせいで踊れない”とか、何かそんなこと……」
「やはりな」
突如納得の言葉を溢したユーシスに、説明を求めるとばかりに首を傾ける。
「リリ。君はセリア夫人のところでダンスを叩き込まれたと言っていたな」
「えぇ。一応」
「私とスオウの師はセリア夫人だ。セリア夫人の楽曲は、すべて自分好みにアレンジしてある。君は耳が良すぎるせいで、“楽譜通りの曲”と“セリアに学んだ曲”の違いに引っかかって、感覚を狂わせていたんじゃないのか?」
「殿下。今私、なぜか目から鱗が」
「勿体ないので溢さずにとっておきなさい」
何です? その切り替えし。初めて聞きましたけど。
「原因が分かった以上、私、もしかして来年の試験、大丈夫なんじゃないですか?」
「本気でそう思うか?」
「スミマセン、それ以前の問題でした……」
うん。リズムはね。何か引っかかるのはね。曲のせいなんだとわかったよ。でもステップもうろ覚えで体も硬いことは、紛れもない事実だ。むしろそっちが致命的だ。
「貴方達、本当に仲が宜しいのね」
またも他愛のない会話を応酬していたところで、ポツリと溢された王妃様の呟きに、はっとして振り返ったリリは、喉から今にも零れ落ちそうになった『どこがですか?』の言葉をかろうじて飲み込んだ。
いかん。忘れる所だった。
「殿下には日頃より何かとご指導いただいております。少々軽口の過ぎましたところは、お恥ずかしい限りです。どうかお許しください」
そう言葉を濁したところで、「はは、構うものか!」と国王様が朗らかに笑った。
少しばかり先程と印象が違うけれど、あるいはこちらが国王様の本当のお姿だろうか。何やら隣でジロリと王妃様に睨まれていらっしゃる。
「そういえば国王陛下。リリ嬢には以前、不測の事態に機転の利くフォローで窮地を助けていただいたことがあります。そのお礼に、いつかドレッセンの宮廷楽団と演奏する機会を、と約束しておりました。その許可を今いただけますか?」
「ん? 何? そんなことでいいのか?」
首を傾げる国王様に、どうやらユーシスが早々とこの場から立ち去る機会をくれたらしいことを察したリリは、すぐにも「最大の誉れです」と言葉尻に乗っかった。
「ブレッケル卿とは過去に数度、楽しい演奏を共にさせていただきました。今一度その機会をいただけるのでしたら、是非ドレッセンの舞踏曲などを、陛下に捧げたく存じます」
一応ドレッセンに慮ってそう口にしたところで、これを好機と取ったらしい王妃様が、「それは素敵ですね」と後押しする。
「リリ姫は大変に楽器が堪能だとのこと。陛下もお聞きになりたくはございませんか?」
さらにそう続ける王妃様に、「うむ、そうだな」と、王様もどうやら乗り気になったらしい。
そんなにハードルを上げられるのも困るんだが、取りあえず今はこの場から立ち去れるならそれでいいよ。
勿論、楽団の席についてさえしまえば、煩わしい社交から解放されるのではという下心もある。
ていうか、舞踏会場で舞踏曲! これぞ宮廷音楽家だよ! 憧れの職業だよ!
この職業体験をきっかけに、本格的に辺境伯家発の宮廷音楽家とか目指す道が切り開けちゃったりするんじゃない?!
キリエさん! ねぇキリエさん、どこ?! ちょっとアドバイス!
「落ち着きなさい」
はやる心にそわそわしていたら、くいっと背中を引っ張られた。
しまったしまった。まだ国王様の御前なんだった。
「王太子。では姫のことはそなたにまかせよう。楽団の所まで案内して差し上げるとよい」
「承知いたしました」
すっと腰を追ってすかさず手を差し伸べたユーシスに、リリも大人しく手を添えて、恭しい退席のご挨拶を申し上げ、上座を下りた。
なんだか少し前までエスコートの手にビクビクしていたのが馬鹿らしいくらい、今日一日ですっかり慣れてしまった気がする。視界が不明瞭なせいで、気が大きくなっているのだろうか。
「君は、周囲の視線が集まることにも、たかだか嗜み程度のダンスにも怯えるのに、音楽の事となると微塵もひるまないんだな」
「え? 何を言ってるんです、殿下。宮廷音楽家ですよ。私の目標ですよ?」
「まだ諦めてなかったのか……」
ハァ、とため息を吐いたユーシスが、あからさまに「判断を早まったか」と顔色を濁したものだから、慌てて掴んでいる手をぎゅうっ、と握りしめた。
「駄目ですよっ。今更取り消すとか、無しですよ!」
「……っ。まったく。こういう時だけ、君は……」
はて。そういえばドレッセン側との急接近に、すぐにもオルネスト当たりが飛んできそうな気がしていたのに、来ないな、と見回してみたところで、ダンスホールに目的の人物を見つけた。
どうやら母がオルネストを連れ出して足止めしてくれていたようだ。
同じようにこそこそとあたりを見回してみれば、フェイルゼン候は宰相閣下と思しき紳士が。父は奥の方で、ルドルフセン公と並んでいるようだ。
この調子なら問題なく楽団の元までたどり着けそうだ。
あと心配があるとすれば、下座に降りてきたユーシスにご令嬢方が群がらないことだけれど。
「あれ? 寄って来ませんね。ご令嬢方」
「嫌なことを思い出させるな……」
「すみません。でも」
リリとユーシスのダンスを機に会場が舞踏会の体になったせいだろうか。ご令嬢達もこぞってダンスホールに乗り出しているのかもしれない。
だがそれにしても、あれほどいたのに、と再び見回したところで、ホールからは遠い奥まった一角に、目的のお嬢様集団を見つけた。
ただその視線はユーシスではなく真逆を見つめていて、何やらうっとりと倒れてしまいそうな憂えた雰囲気を醸し出している。
「殿下、アレ、何ですか? すごい衆目ですけど、何かあるんでしょうか」
「……あぁ。スオウが仕事をしたようだな」
「仕事?」
どういう事だろう、と、こそっとベールの隙間に指を入れて、横目に視界を確保して。
「ぶふっ」
思わず場も忘れて吹き出してしまった。
「気持ちは分かるが、堪えなさい」
「む、むふっ。無理、無理です、殿下ッ。ふっ。ふふっ。何です、アレ。もしかして。もしかしなくても、バルト先輩ですか?」
決してダンスになど狩り出されてなるものかという、ジワリとにじみ出る拒絶オーラを発しながら、壁に背を預けた超絶美青年。
ぼさぼさのはずの黒髪が綺麗に梳かれ、伸びがちな後ろ髪がやんわりと傍らで結われ、拒絶という名の哀愁漂う切れ長の眼差しが、じっとどこか遠くを眺めている。
不摂生でガリガリと不健康そうな白衣姿も、徹夜続きで青白くなった顔も、そこには無い。ただ無駄にスラリとした長身を宰相閣下と同じ深い臙脂の綬をかけた正装で包んでいて、一体何処の孤高の貴公子様だいう風貌だ。
もはや別人。顔が似ているだけの、ただの見間違いではなかろうか。
「むっふーっ。なんという詐欺でしょうっ。あれ、どんな補正が入ってるんですかねっ」
「言っておくが、今の君を見たらバルトも同じことを言うと思うぞ。呼びつけてやろうか?」
「よし、もう満足しました。気が付かなかったふりして、早く行きましょう」
尊い犠牲だ。精々そこで遠巻きに眺めることしかできないお嬢様達の目を引きつけておいてくれたまえ。




