2-15 出迎え(2)
「しっ仕方が」
「リリ、それは駄目にゃ!」
返事をしようとした瞬間、勢いよく額をどついた猫パンチに、なふぅッ、と情けない声を出して そのまま背もたれにのけぞった。
一瞬何が起きたのかわからずに目を白黒とさせている内に、よじ登って来たもふもふの生暖かいお猫様のお腹がドンと顔の上に乗ってはりついた。
それをわたわたと手をもぞつかせて持ち上げようとするのだが、どうした事か、ピクともしない。
「っ、ちょ、っぷっ、きりえ、さんっ」
苦しいっ、と必死に訴えるリリに、さらにキリエの尻尾がベシベシと頬を叩く。
なんだこれ。
「リリは馬鹿にゃ! 馬鹿馬鹿にゃ! どうして自分からバッドエンドに突っ込むような真似ばかりするにゃ?!」
「はむっ、ふぷっ」
答えたいのにキリエのお腹のせいで口がきけない。
口を開いたらモフモフの猫毛が口の中に入ってきてしまって慌てて口を閉ざす。
「リリはバッドエンドの怖さを知らないにゃ?!」
「まふっ、むふっ」
えーっと。怖さ? 知ってるよ。乙女ゲームは音楽以外で唯一の趣味だったからね。
あれでしょう? 逆上した攻略相手に監禁されたり、なぜか思いがけないモブに刺されたり、ファンタジー物だといきなり反乱が起きたり、王子物だとほら、あれ。なんか外国と揉めたりして、戦争になって攻略相手が刺されたり……。
「ぬ」
あれ。もしかしなくても王子ルートのバッドエンド、ものすごいヤバイんじゃないか?
『君が“思考し続ける立場”を選んだ……つまり、アリストフォーゼ家がどちらかの一方に肩入れするのではなく、両国を共立させるために思考を続けるべきとの立場を選ぶんだことは、両国にとっても幸いなことだ』
いつぞや試験勉強の折に言われたバルトの言葉が、急に思い起こされた。
ドレッセンとアンブロシア。そしてアリストフォーゼの関係は何なのか。それをリリに考えさせた“センセイ”の言葉に、今まさに“思考”を捨てて安易に返答しようとした自分の迂闊さに気が付いて、ドキリとする。
もしかして。いや、もしかしなくても……これって、安易に答えたら不味い類の答えなのだろうか?
「わかっ、ぷふっ、わ、わかりまっ、ぱふっ」
必死にキリエの背中をペシペシするけれど、喋れないせいで、キリエに意思が伝わらない。
どうしようっ、と、そろそろ本気で息が苦しくなり始めたところで、んなぁ! と一つ猫の声で鳴いたキリエが、突然ふわっと顔の上から持ち上げられた。
おっ、おっ、とキリエを掴んでいた手がキリエと一緒に上へ上へと持ち上げられて、ようやく解放された視界がつられたように上を仰いで。
そのキリエを高く持ち上げながらこちらを見下ろした、紫紺の髪と深みを帯びた金の眼差しが、「何を遊んでるんですか」という言葉と共に、じっとりとリリを見下ろしていた。
「っあ、れ? なんで?!」
それは間違いなく、義弟であるはずのゼノで、不機嫌そうに尻尾を暴れさせているキリエが、リリのポンコツっぷりを訴えかけるような猫撫で声で、ゼノの腕の中でにゃーにゃー騒いでいる。
まぁ皆にはにゃーにゃー騒いでいるようにしか聞こえないんだろうけれど、「遅いにゃ、ゼノ! 早く間抜けな姉をなんとかするにゃ!」とか。「リリを一人で野放しにするとか、皆馬鹿にゃ!」とか、なんかすごい言われようです。
むぅ。おかしいな。そこまで言われるほど、まずい提案をされただろうか?
国際ルールなんでしょう? ちょっと音楽祭を堪能する、別に……。
「姉上。出がけに、不用意に動かず、何もせず、甘い餌にもつられることなく、大人しく行って大人しく帰ってきてくださいと、私は言いませんでしたか?」
あ、あれっ。何故にいきなりお説教?! キリエの言葉、分からないはずだよね?
「い、言われました」
「なのにキリエに口をふさがられるようなことをしたんですか?」
「あ、あれ、なんでゼノ……」
この子、もしかしてキリエの言ってること分かるの? なんて首を傾げてみたところで、「キリエが暴れる時は大抵姉上が不味いことをしでかした時ですから」と言われた。
なんてよく見てるんだろう……。
「え、っと……」
そんなやり取りをしていたら、目の前で少し戸惑うように声が上がって、ふとリリも我に返ったように身を起こした。
そこにはリリを助けた方がいいのかどうか迷ったように腰を浮かせて手を伸ばしていたオルネストがいて、その困り切った顔を見た瞬間、なにやら今の自分の間抜けな姿が思い起こされ、今更ながら耳が赤く染まった。
む、むぅっ。キリエのせいで、もしかしなくてもすごい恥ずかしい感じになってたんじゃないのか、自分!
「ご挨拶が遅れた不作法をお詫びいたします、殿下。聖なる頂の御許へようこそご参拝下さいました。当家の養子となっております、ゼノ・アリスト・フォー・キリエンヌと申します」
リリとは違って、キリエを抱きかかえながらもちっともそれを邪魔にすることなく、実に様になった礼をとってみせたゼノが恨めしい。
でもそんな嫉妬もほどほどに、すぐにもゼノが“キリエンヌ”を名乗ったことに、ぱちぱちっと目を瞬かせた。
そういえばアンブロシアではアリストフォーゼ家は昔のまま、キリエンヌ家という扱いになっていたんだったか。耳に馴染みが無いせいで、変な感じがする。
「こちらこそ、失礼をいたしました。キリエンヌの聖なる頂より生まれし貴き姫を賜りました、アンブロシア王家の流れをくむ者、アンドレア大公の嫡男オルネストと申します。恵み深き猊下のお養いになられる世継の君にお目にかかれて光栄です」
もっと驚いたのは、息子のアナイスの手を引いてソファーの脇に避け、恭しく膝をつき、胸に手を当てて最敬礼をしたオルネストの態度の方で、隣で見よう見まねできょろきょろしながら同じようにして見せるアナイスが、目をぱちくりとさせながら首を傾げる。
「敬虔なる神の子と、我らが家門に連なりし子に、御山より降りし神の祝福のあらんことをお祈りいたします」
そう言ったゼノは、いつもの雰囲気とは違って、まるで父のような立ち居振る舞いで歩を進めて屈んで見せると、「ルルテ・フォーレ・フォル・アリステラ」と、門外不出とやらの神聖古語を呟きながら、トン、トンと二人の肩に指先を触れて見せた。
何だかよく分からないけれど、もしかしてこれって、普通の挨拶なのだろうか?
あれれ。リリの記憶には一度も無いぞ。
「そのやり取りは、我が家では普通の挨拶なんですか?」
だからそう率直に首を傾げて見せたところで、ちょっと困った様子で顔をあげたオルネストとは裏腹に、ゼノは深いため息を吐きながら振り返った。
「心配していた通り……姉上は、“出迎え”の意味が分かっていなかったようですね」
「なんですって」
初耳ですよ、ゼノさん。え、だって誰も何も言わなかったし。
「姉上へのお小言は後に致します。殿下方。どうぞ、おかけ直しください」
そう勧めるゼノに、身を起こしたオルネストは、どうやら人見知りして小さくなっているアナイスの手を引いて席に戻った。
リリはリザと姿形が似ていたからすぐに懐いてくれたけれど、ゼノは面差しはともかく色合いが違う上に、どうにもキチッカチッとした雰囲気があるから、怖いのかもしれない。
うんうん。ゼノが子供に懐かれる所なんて、微塵も想像できないもんね。分かるよ、アナイス殿下。
「改めまして、お初にお目にかかります、殿下。この度は遠いところを良くお出でくださいました」
「いえ、こちらこそ。急な無理を申したにもかかわらず、祝福までいただき感謝します」
あれれ。オルネストの態度がリリとゼノで全く違う気がするのだが。
「姉上がお一人でこちらに戻られたと聞きすぐに追ったのですが、出迎えに間に合わなかったようですね」
「そういえばゼノ、どうしてここに? ちゃんと卒業式、出たわよね?」
そう慌てて隣に腰かけたゼノを見やったら、少し呆れた眼差しが向いてから、何とも仕方なさそうに頷いた。
「すぐにでも姉上の後を追うつもりでしたが、卒業式を欠席しては姉上が喜ばないだろうと、養父上が」
「そう、良かった」
でもそれにしてもつくのが早すぎる気がしないではないのだが。
もしかして夜の舞踏会をさぼったりなんて……うぅーん、でもゼノ様だしなぁ。なんでもそつなく完璧にこなしそうな気がするよ。
「それで? 姉上は何をしでかして、キリエに叱られていたんですか?」
「……」
あのぅ、ゼノさん。なんで叱られてたこと前提なんですか?
「大したことではありません。楽器の堪能なリリ姫様に、今回の音楽祭の事についてのお話を少し」
そうですよね? と向けられたオルネストのニコニコとしたいつもの微笑みに、何やら一瞬、リリは言葉が出てこず空気を飲み込んだ。
あれ。何だろう。確かに音楽祭の話だった。そうだったんだけど……。
「姉上?」
「えーっと……」
「楽曲に、リリ姫の作曲した曲が有るんですよ。私もその曲の演奏には加わることになっているんです」
「えっ?!」
それってもしかしなくても、ユーシス王子がその場で気まぐれに採用したパッヘルベルさんのカノンじゃないのか?
まさか隣国からの主賓に演奏させるものだったの?!
ユーシス王子の馬鹿! そんなの一言だって聞いていませんけど?!
「……姉上。そんな報告、一言も伺っていませんが」
「い、いや、そんな大変なことになるなんてちっともっ。ただ手慰みに弾いてたら何か勝手にッ」
「一体何をどうやったら勝手に国家間の最重要儀礼に関与する破目になるんですか?」
「私じゃないですっ。私じゃないですよ!? ていうかオルネストお義兄様ッ、あの曲は“ヨハン・パッヘルベル”さんの作曲になっていたはずじゃッ」
「リザが、リリが小さな頃に口ずさんでいた曲に似てると言っていたから」
「のぉぉっ!!」
しまった。お姉様が知っていたとは盲点だった。隠した意味なくない?!
「あぁ、そうだ。どうせなら是非リリ姫に演奏の手ほどきを」
「リリ」
一人勝手に打ちひしがれていると、てくてくとゼノの膝を降りたキリエが歩いて来て、のしっ、とリリの膝に前足を乗り上げる。
そのままジッとこちらを見た金色の瞳に、んっ、と目線を下げる。
「悪いことは言わないにゃ。今すぐいつもの、選択肢③にゃ」
「はい?」
いきなり、にゃーとなく猫に向かって首を傾げたリリに、ふとオルネストが口を噤んで、皆が黙った。
じっとリリの反応を待つゼノと。僅かに目を細めて見せた、どうにもいつもと雰囲気の違うオルネストと。すこしそわそわと周りを窺っているアナイスと。
そんな彼らに背を向けたまま、早くしろと言わんばかりにキリエがぺしぺしと前足で太ももを叩いて見せる。
「え、えーっと」
選択肢③って何だ。
ていうか今この状況って、選択肢なの? ③って何? いつものって……。
そう首を傾げた瞬間、ふと頭によぎったのは鬼畜大魔王ユーシス殿下で。
そんな殿下を前にした時の選択肢③はいつも。
「え。あ、えっ。本気ですか? キリエさん」
「早くするにゃ」
何で? 何ゆえに今ここでその選択肢なの?!
何だかよく分からないけど、段々とペシペシそ足を叩くキリエが痺れを切らせたように、ぎらんっ、と振り上げた前足に爪を掲げたのを見て、「うあぁぁーっ!」と声をあげて、慌ててキリエを抱き上げながら席を立った。
その大声に、アナイスがびくんっ、と肩を跳ね上げた。
い、いかん。やりすぎたか。でもここで何でもなく座り直すなんて奇行はできないぞ。
「……えっと。リリ姫?」
首を傾げるオルネストの顔は、すでにリリの奇行に引いている顔になっている気がしないでもないけれど、取りあえず人前でキリエの爪にドレスを引き裂かれる前に何とかせねば。
「か、かみさまが呪いの爪をふりおろすまえに、大至急安全を確保すべく部屋にもどらないといけなくなりました……」
やべぇ。私、何言ってんだろう。自分で自分にどん引く理由だ。
案の定オルネストの眼差しが痛い子を見るかのように憐みを孕んだけれど、それに羞恥するよりも早く、「あぁ、それはいけませんね」と立ち上がったゼノの言葉に、もっとぎょっとした。
「殿下方。姉上に神のご託宣があったようなので、突然の事で申し訳ありませんが、失礼をさせていただきます」
あのうゼノさん。ゼノさんや。それでいいの? 受け入れちゃっていいの?
神の御託宣があったのでって、なんかそれ、リリの危ない子感増してない?
私、大丈夫?!
「神の……ご託宣、ですか?」
「よくあることですよ。殿下も“ご存知”かと思いますが」
そう言われてピクリと小さく眉をあげたオルネストは、何やら含みのある笑みを一つ浮かべると、「なるほど」と席を立った。
「リリ姫とはもう少し、叶うならばアンブロシアでお目にかかる時のように話せたらと思いましたが、残念です」
何なに? それってつまりどういう事? あ、ゼノ抜きで、もっと砕けた感じで話したかったってこと? 私もそう思うよ。なんか今のお義兄様は堅苦しいもんね。なんか視線もちょっと怖いし。
「それはわた……」
私も、と言いかけたところで、ギランと腕の中のキリエの爪が輝いたのをみて、慌てて口を噤んだ。
「わた……しもですが、そうもいきませんから残念ですね」
これでいいかな、と冷や冷やしている内に、ふんっ、と息を吐いたキリエが一応爪を納めてくれた。
一体このお猫様はなにを警戒しているのだろうか?
「殿下方も、本日こちらについたばかりでお疲れでしょう。ご出発まで、どうぞごゆっくりと滞在なされて下さい」
「お気遣い痛み入ります」
ニコニコ、ニコニコと交わされるはずのオルネストとゼノの会話が、どうにもギスギスして感じるのは何故だろう。
そう思っている内にも、さりげなくリリの手を取ったゼノが歩き出したので、釣られるようにして足が動いた。
その流れるような動作と、ちっともリリの足をもつれさせない自然なエスコートは驚くほど完璧で、この子ったら一体どこでこんなスキルをっ?! と目を丸くしてしまった。
はわわ。いつの間にか弟が立派な紳士になろうとしています。
お姉ちゃんの威厳が大ピンチです。
「あ、あのぅ。ゼノさん?」
ほとんど流されるままに部屋を出たところで、リリの手を取ったまま早々と表の建物を出て奥の、親族しか立ち入れない棟への最短距離を行こうとするゼノに声をかけてみる。
もうそろそろ手を離していただいても大丈夫だと思うんですが。
「手を離さず、母屋まで大人しくついて来て下さい。キリエの呪いの爪を振りかざされたくないのでしたら」
少しだけ振り返って、クス、と笑ったその顔に、「あ、気づいてたのね」と、肩をすくめた。
そういえばいつだったか。うちに引き取られたばかりの頃に、ゼノもキリエの呪いの爪の洗礼を受けたことがあったか……。
「とはいえいくらなんでも、あの無茶苦茶な退出理由に驚かずに受け入れてしまうゼノも、どうかと思うんだけど」
「キリエの行動に突き動かされて姉上が動くときは、その通りにしないと大抵悪いことが起きます。我々は皆それをよく知っていますから」
「そ、そうですか……」
あれ。ねぇ、キリエさん。
もしかしてキリエさんって、うちの家族の信頼度、リリよりはるかに高いんじゃない?
ていうかリリってもしかして。
「あれ。私、猫以下?」
何だろう。釈然としないぞ?




