1-3 雨宿り
それからも学園生活は、何ら変哲もなく、長閑にすぎた。
初めは教室に顔を出すたびに、何故かチラチラと周りの視線が集まっている気がして居心地が悪かったのだけれど、「私、何かよほど変な仕草でもしているのかしら?」とスオウに相談したら、「出ずがりの君が何者かわからなくて、皆興味があるんだよ」と言われたので納得した。
だったらきっと、すぐにでも注目もなくなるはずだ。
だが如何せん、いつまでたってもそれ以上に近付いてくれる人はおらず、結局友達はできないまま三ヶ月が過ぎた。
誰かと組んで行う課題や何やらは、相変わらずエマが声をかけてくれて、ボッチを回避することができたのは何よりの事であったが、特定の友人がいないことに変わりはなくて、時折エマが姉に呼び出されて生徒会のヘルプに入ることが増えると、一人でいる時間は格段に増えた。
入学から三ヶ月が過ぎ、何の祝日もイベントのない四ヶ月目――雨月。しとしとと雨が続くこの月になると、生徒達もあまり外をうろつかなくなる。
世間一般には何かと憂鬱な季節といわれる月だが、この国の雨月は日本の梅雨に比べればちっともうっとおしくないし、むしろさっぱりと心地よい通り雨が多く、雨上がりが格段に美しいので、リリはそんなに嫌いじゃない。
だから皆が引き籠る中、暇つぶしにといそいそとヴァイオリンを抱えて旧聖堂へ行き、雨上がりを待つのはリリの日課、もとい楽しみにもなって、おかげさまで益々ボッチ感は加速している気がしないでもない。
「まぁ、キリエが一緒だから。ボッチじゃないけど」
「神様のお使いを人と一緒にしたら駄目だにゃ」
それを言うなら、猫を人と一緒にしては、な気がする、と、湿気でまとまらない毛並を一生懸命整えているキリエをじっと見た。
実の所、この生き物は一体何なのだろうか。
「キリエもお散歩できないから、雨の季節って嫌いなんじゃない?」
「それより毛並が整わない方が問題だ。リリ。帰ったらブラシをかけて欲しい」
「はいはい。畏まりましたよ、王子様」
仰せのままに、と言いながら、軽く弓を振って手を慣らす。
今日の観客は、猫が一匹だ。
さて。何を弾こうか。
耳を澄ませて見せれば、ふあぁぁというキリエの可愛らしい欠伸に続いて、カツン、カツンッ、と、雨音が聖堂の大きな硝子を叩く音を奏でていた。
まるで楽器のようで、とても素敵だ。
何ならこのまま永遠に雨音の音楽を聞き続けていられそうだけど、それでは勿体ない。
「らーぁららーっ。らーらーらー……」
何となく歌詞も無く、頭に浮かんだ旋律を喉に乗せて吐き出してみる。
「ら、らりららりらーらーりら……あ。そうか。これ、雨だれだ」
口ずさんでいた曲が何であったのかを思い出すと、早速弦に弓をのせた。
雨が降っているとついつい思い浮かぶ、ショパンの前奏曲二十八の十五『雨だれ』。
本来は暗い曲だけど、曲調を軽やかに、じんわりと雰囲気を醸し出すようなタッチで、心ばかり明るく弾ませる。
といっても元はピアノ曲だから、段々とヴァイオリンの単音だけでは音が物足りなくなって、「らっ、たぁたぁたぁ~」と伴奏を声に乗せて歌う。
流石に歌うと弾き辛かったけど、猫しか観客がいない今はちっとも気にしない。
声楽は音楽高校時代に副科として齧った程度の素人だったが、元々この世界のリリの声や喉は随分と良い作りをしているようで、軽く口ずさんだだけでも、声は自分が驚くくらいに良く響いてくれた。
この聖堂のお陰だろうか。
すっかり気分も良くなって、六分ほどのその曲を最後まで歌いきったところで、ほうぅぅ、と、満足そうな吐息が零れ落ちた。
こんなに気持ちのいいものなら、もっと昔から沢山歌っておけばよかった。
いやいや。これは単純に、ずっと一人でヴァイオリンを弾いてきたから、そろそろアンサンブルが恋しくなっているだけだろうか。
「キリエ、キリエ。ちょっと歌か何か、歌えない?」
「にゃーにゃー言ってるだけの歌が君に必要なのか?」
ペタンと尻尾で椅子を叩きながらぶっきらぼうに言うキリエには、うーん、とリリも首を傾げた。
一応リリにはキリエはしゃべっているように聞こえるから問題ない気はするのだが……歌になると、やっぱり、ニャーニャー言ってるように聞こえるのだろうか。
ちょっと興味がある。
「では実験的に……『猫踏んじゃった』でも……」
「その選曲は最悪にゃ!」
きしゃっ、と耳を跳ね上げて抗議したキリエに、あ、そうか、と慌てて弦から弓を離したけれど、すぐに、「あれ、何でキリエ、猫踏んじゃった、知ってるの?」と食いついた。
少なくとも今まで、この国の人に、リリの演奏してきたかつての世界での音楽はまったく知られていなかったのに。
「それより、もっと楽しいのにして欲しいにゃっ」
「楽しいのかぁ」
何がいいかなぁ、と何となく思いついたメロディーを奏でて。
でもなんだか気が付いたらいつの間にか、「猫踏んじゃったー、猫踏んじゃったー」と歌い出していたから、すっかりキリエにへそを曲げられてしまった。
何度も何度も、「だからごめんってばぁ」と謝ったのだけど、「不愉快だにゃ!」というキリエは中々許してくれなくて。
今日の夕飯には、生ハムをたっぷり用意して、ご機嫌を取ることにしよう。
◇◇◇
『猫踏んじゃったー、猫踏んじゃったー、猫踏んずけちゃったら引っ掻いたー。猫引っ掻いたー、猫引っ掻いたー、猫びっくりしーたー、引っ掻いたー……♪』
おい何だそれは、と突っ込みたくなるような、馬鹿げた歌声が耳に強制介入してきたのは、急に降り出した雨に、雨宿りをしようと馴染みの聖堂にくっつく物置小屋の屋根の下に飛び込んですぐの事だった。
『悪いー猫め、爪をー切ーれー。屋根をーおりてー、ひげをー剃ーれー。猫ニャーゴ、ニャーゴ、ねーこーかーぶーりー。猫撫ーで声で、あーまーえーてーるー。猫ごめんなさい、猫ごめんなさい。猫おどかしちゃってー、ごめんなさい。猫よっといで、猫よっといで、猫生ハムやるからよっといで♪』
何やら何処からかニャーニャーと猫の声までしてきたのは錯覚だろうか。
その奇怪極まりない幼稚な歌詞を口ずさむ変な女のせいで、頭がおかしくなったのかもしれない。
折角の風情ある霧雨の中で、なんという不愉快な遭遇。
最悪だ、と頭を抱えたところで、キュルッ! と高鳴った“楽器”の音に、途端にはっとして教会の窓に張り付いた。
分厚い硝子と雨に濡れた水滴で、当然だが中は良く見えない。
だがそのまま窓に張り付いて、しばし呆然として動くことができなかった。
奇怪で不愉快な歌詞とは裏腹に、聴いたこともないタッチの弦楽器の音色が、何とも言えない胸を震わせる繊細で分厚い音の層を織り為しながら、誰が聴いてもありありと分かるであろう細かいピッチの超絶技巧を軽々と紡いでゆく。
先程までの歌詞が吹き飛ぶような、軽快で高らかで、走り回る猫のように飛んだり跳ねたりと鮮やかな音の粒に、気が付いたら雨に濡れることも忘れて聞き入っていた。
これは何だ。
一体誰が。
何をしているのか。
弾むようにして最後の一音が響き渡ったかと思うと、にゃぁー! という猫の声と共に、ふふっ、あはははっ、と、取り繕うことのない明るい笑い声が鳴り響いた。
慎まやかに口に手を添え、ホホホと作り笑いを浮かべる厭味ったらしい令嬢達の笑い声とはかけ離れた、まるで音楽のような笑い声だ。
はて。こんなところに猫を連れ込んで、はしたなく笑ったりして。
一体何処の家の痴れ者だ……。
そう思わず、聖堂の扉に手を伸ばそうとして。
「こんなところで何してるの、ユーシス」
突如した男の声に、はっと手を引いて振り返る。
黒い雨避けのローブに、傘を携えてやってくる良く見知った顔。
その姿に、思わずぐっと眉根がよった。
完全に、水を差された。
「見てわかるだろう。ただの雨宿りだ」
「……こんなところで? あぁ。でもちょうどよかった。はい、傘」
「何のつもりだ……気持ち悪い」
「気持ち悪いって。親切をしたのに、酷いなぁ」
クスクスと笑う従兄に、益々眉根がよる。
らしくも無い。一体どういうつもりなのか。
「ノマ副会長が探してたから、呼びに来てあげたんだよ。まさかこんなところにいるとは思わなかったけど。有難く受け取って、早く生徒会室に帰って来てくれないかな? 生徒会長殿」
「ノマ嬢が? 何だ、突然」
「今年は雨が長引いているから、武芸系の部活動が体育館を使用することが増えているでしょう? その使用割合だなんだで揉めているみたいだよ。早く帰ったら?」
「まったく……またか」
貴族ともあろう者達が、そのくらいのことも自分達でどうにかできないというのは実に嘆かわしい。
そうため息を吐きながら仕方なく傘を受け取ったところで、再び聖堂の中から、んにゃぁぁ、と鳴く猫の声と、かすかな楽器の音色が聞こえはじめた。
その音に、彼が……スオウが気が付いてしまうのではと、思わず視線をやったら、はっと扉を見据えていたスオウがたちまちこちらを向いて、らしくもなく、僅かに視線をさまよわせた。
一体、何なのだ。
「あっ……あー……っと。何か、中に用事があった?」
「……いや。そういうわけではないが」
「そ。じゃあ、早く行こうか。中は“キリエちゃん”が雨宿り中みたいだし」
「キリエ?」
お前の知り合いか? と、驚いて目を瞬かせたところで、「ま、そんなところ」と言葉を濁して踵を返した様子は、本当に、らしくなかった。
もしや、こいつが情でも寄せている相手なのか。
「おい。スオウ……」
「言っとくけど、何も答えないからね。それより早く、戻らないと」
そうそそくさと歩き出した後ろ姿は、本当にもう何も答える気が無いと言う背中で。
そんなに強情なコイツも珍しくて、思わず口を噤んだ。
さて。
あのふざけた歌の声の主は……一体、何者だったのだろうか。
その謎は、この大きな雨粒と共に、地面に染みるがごとく謎のままに消えて行った。
◇◇◇
「気分最悪にゃ」
「ふふっ。キリエ、また猫語尾になってる」
「もう猫かぶりも面倒にゃ! 疲れたにゃ! 飽きたにゃ! にゃーはにゃーだにゃ!」
「猫かぶってたんだ……」
猫なのに、と呆れた顔をしたところで、すっかりへそを曲げたキリエがベンチを飛び下りて、テクテクと扉を目指す。
まだ弾いていたいのに、帰る気満々だ。
「あーっ、ごめんっ。ごめんなさい! もうちょっとだけ。ね、もうちょっと!」
良いでしょう、と、慌ててヴァイオリンを置いてキリエを追いかける。
器用にヒョイと飛び上がってドアノブにぶら下がりながら扉を開けるのはキリエの得意技だが、何度見ても絵面が中々に間抜けである。なんてことは、これ以上キリエのへそを曲げるわけにはいかないので口を噤んでおいたが、おかげさまでドアノブにぶら下がって隙の生じたキリエの体を、ひょいっ、と抱き上げた。
「にゃっ。ズルイにゃっ。離すにゃ!」
「もう……まだ雨降ってるんだから。びしょぬれで帰って来たキリエのお世話をするのは私なんだからね」
部屋中水浸しにされたらたまらないし、水はねして泥に汚れた手足の手入れを要求されるのは毎度のことだ。少しでも手間は減らしたい。
だからせめて雨がやむまで待って、と、キリエのせいで開いた扉の外を見やって。
「ん?」
しとしと。しとしとと降り注ぐ雨を見て。
それから、ぬかるんだ聖堂前の小道の“足跡”を見て。
きょとん、と、リリは首を傾げた。
リリの足跡じゃない。
誰か来た気配なんてしなかったけれど。
「……スオウ様、かしら……?」
来てたなら、顔を出してくれたらよかったのに、なんて思いながら。
でもまぁ、いいか、と、扉を閉める。
まさかこの日のその選曲が……自分の運命を、大きく変えることなんて気が付かぬまま。
この話書くまで猫ふんじゃったの歌詞を『猫踏んじゃった、猫踏んじゃった、猫踏んじゃー踏んじゃー踏んじゃった』(意味不明)だと思っていました。




