1-2 旧聖堂
翌朝、大きな鐘の音にびっくりと飛び起きたら、いつの間にかキリエが猫ベッドではなくてリリの布団の中で丸くなってスピスピと寝息を立てていた。
紳士とはいったい……。
だが道理で。慣れない枕なはずなのに、うっかりすっかりいつものように寝付けたのは、この天然湯たんぽ様のお陰だろう。
「にしても……なんという強制目覚まし」
ビックリし過ぎて、目が覚めてしまった。
うとうとと首を巡らせたところで、壁にかかった時計は未だに六時を指しており、何なら二度寝三度寝出来そうな時間帯に息を吐く。
とはいえ、決して早すぎるわけではない。
電気が存在していないこの地球よりはるかに文明の遅い国では、灯りといえば、油に紙や紐を浸して火をともすランプか、裕福な家柄や貴族、こういう学校になると、蝋燭やシャンデリアが用いられる。
それを一つ一つ灯すのは大変な労力であり、お金もかかるから、自然と人々の営みも、日が昇る頃からそそくさと活動を始め、日が沈めばさっさと寝る、という生活になる。
だからこの学校でも一限目の始業は八時と非常に早く、一コマ一時間二十分、一日四コマで、午後の三時半には授業が終わる。
六時の鐘から始業まで二時間の間に、学生達は身支度を整えて朝食を取り、徒歩十五分はかかるであろう教室まで行かねばならないのだから、そんなに時間的余裕があるわけでもない。
あるいは六時の鐘は食堂が開く時間であって、目覚ましの鐘というわけではないのかもしれない。
取りあえずこの鐘で起きなかったら、絶対に遅刻する。
今日から四日間はオリエンテーションで、翌二十日が休日。授業が始まるのは二十一日からだから、今日はまだそんなに慌てふためいて教室に向かう必要はないのだが、何ごとも習慣というのは大事だからと、キリエを起こさないよう気を付けながら、コソコソとベッドを落りた。
流石に立派な寮とあって、沢山の学生が生活しているはずなのに、大きな生活音はしない。
でも外でかすかに、何らかの武道系の部活だか上級生だかがランニングの掛け声を発しているのが聞こえていて、途端に郷愁が募った。
なんだか懐かしい。
音楽高校に行っていた凜々子の学生生活は決して普通と同じではなかったけれど、この雰囲気は、やっぱりどの世界でも、どんな学校でも、かわらないのだ。
「私も、せめて家に恥をかかせない程度には頑張らないとね」
正直この国の政治の話も経済の話もさっぱりだけど、暗記系くらいならなんとかなるだろうか。少なくとも遅刻とか連発して家に泥を塗るのだけは避けねばなるまい。
そう。何事もまずは、生活習慣から。
というわけで、早速クローゼットを開けて、昨日から皺にならないようかけておいた制服を取り出すと、ぱっぱと寝間着を脱ぎ捨てて制服を身に纏う。
この国の貴族のお嬢様が着る小難しい着付けやコルセットなんて必要のない、一人でも充分に着脱できるタイプのワンピースと、ボタンを留めるだけのリボンと上着。
使用人のいない生活をするお嬢様のためにもとっても優しい制服だ。
備え付けの水回りで顔を洗って、自ら髪にブラシを入れて、ふわふわと質量の多い髪のサイドをくるんと捻って、バレッタで止める。
このくらいは前世でもやっていたから、教えてもらわずとも完璧にこなせる。
そうして準備を終えて、よし、食堂へ行こう、と部屋を出たところで、寮内の諸々を担うメイドさんたちが、あっちへこっちへと走り回っては、「こっちもお願い!」と叫んでいるお嬢様たちの部屋を渡り歩くのを見て、つい苦笑してしまった。
初めての一人暮らしに、実家でレクチャーを受けたとはいえ、自分一人では身支度さえできないお嬢様が、ここには沢山いらっしゃるらしい。
こうしてゆっくりと身支度を終えて、キリエの朝食もちゃんと部屋に用意したところで、六時四十五分。
食堂に行くと、まだ少しだけ空いていて、ゆっくり食べている内に人が増え始め、七時を過ぎた頃から混雑し始めたので、はやめに全部胃におさめて部屋に戻った。
明日からも、このくらいの時間がちょうどいいかもしれない。
部屋に帰ると、ちょうど目を覚ましたらしいキリエが大きな欠伸をしているところで、「おはよう、キリエ」と声を掛けたら、まだ眠たそうな顔で、「にゃぁ」と返ってきた。
鳴き声は、キリエ流の朝の挨拶なのだ。
「今日はまだオリエンテーションだろ。いつもお寝坊のリリらしくないにゃ」
「だって、今日からは起こしてくれるユリーもソフィもいないもの。これくらいは頑張らないと」
「心配しなくても、僕が起こしてやるにゃ」
そう言いながらも再びゴロンと転がって二度寝しそうなキリエの事なんてちっとも信用ならなくて、ついクスクス笑いながら喉を撫でまわしてやった。
ごろごろと気持ちよさそうに伸びている様子は、本当に、ただの猫だ。
油断していると語尾がにゃーになるのも、ちょっと可愛いと思っている。
「えーっと。今日の午前中は十時から生徒総会。お昼は十一時半からで、教室に行くのは午後からね。授業とか単位の説明と……」
片手でキリエを愛でつつ、片手で今日の予定表をざっと目に通す。
どうやら今日は午前中が事実上、休みみたいなものらしい。
きっと仕度に戸惑って遅刻必須のお嬢様方のためであり、またこの学校特有の、家同士の関わりがある貴族達が挨拶回りをしたりとか、そういう社交的なやり取りのための気遣いなのだろう。
無論、知り合いがほとんどいないリリに、その手の予定はまったくない。フリーの時間というやつだ。
これなら今日くらい、本当に寝坊しても良かったかもしれない。
「でももう起きちゃったし。キリエ。例の聖堂、探しに行きたいんだけど」
ついて来てくれないかなー、と促したけれど、ちっとも起きる気配のないキリエは、「あとでにゃぁ」と言いながら再び目を閉じてしまった。
こうなったキリエは梃子でも動かない。
だから仕方ないか、と諦めると、もう一度鏡の前で身支度を確認して、学校の鞄と、それからしばし迷った挙句、ヴァイオリンケースを取り上げて肩にかけた。
今一度夢の中ですやすやと眠るキリエにこっそりと、「じゃあ行ってきます」と声をかけて。
さぁ。学校探検の始まりである。
◇◇◇
「見つからない……」
さすがキリエ一押しの、人が来ない聖堂とやら。全然見つからない。
ちらりと校舎にかかる時計を見やったところで、時刻は既に九時半で、もう三十分もせず講堂に赴かねばならない。
ヴァイオリンを部屋に置きに行く時間も欲しかったのだが、結局一時間半も歩き回って、聖堂も見つからないばかりか部屋に一度帰る時間さえ危うくなってきた。
どうしたものか、と深いため息を吐きながら、ひとまず人気のない木陰のベンチに腰を下ろした。
ここらは校舎の裏手のようで、ちっとも人影も無い。もう何ならいっそここでも……なんて思っては慌てて首を横にふり、いやいや、人気が無いのはきっと今日だけだから、と自分に言い聞かせた。
というか、ここから無事に一人で講堂にたどり着ける気さえしないのだが。
「こういう時はやっぱり……せめて友達の一人くらい、なんて、不安になるわよね」
ハァ、と深いため息を吐いて項垂れたところで、「まだ友達できてないの?」なんて憐れむような声が降って来たものだから、慌ててバッと顔を上げた。
見上げた先には、きらきらと零れる太陽の光に眩く髪を輝かせた青年が一人。
それはもう、おもわずうっ、と目が焼け焦げそうなくらいきらっきらの、とても端正な面差しを緩ませた、優しげな声色の王子様。その指先が伸び来て、ハラリとリリの頭から一枚の花弁を摘まみ上げた。
所作の端々に至るまでが洗練されていて、思わずぼう、っと目を瞬かせて見惚れてしまう。
あぁ。これがゲームなら、絶対スチル必須の出現シーンだ。
でもそうやっていつまでも呆けていたら、花びらを捨てた青年に、「おーい。リリ? 起きてる?」と言われたから、はっとして目を瞬かせた。
驚いた。
ものすごく驚きすぎて、一瞬思考が停止していた。
「あ、スオウ様?!」
思わずひっくり返った裏声に、クスクスと笑う制服姿のその人が、再びリリの髪に手を伸ばした。
「え、何?」
「もう一枚。うちの子は、一体何処を散歩していたのかな?」
そう言ってもう一枚、髪から花弁がつまみ上げられて、あら、と思わず自分の髪を見やる。
何処でついたのだろうか。
よかった。そのまま人前に出て、恥をかかずに済んだ。
「あぁ。有難うございます、スオウ様。あ」
そうだ、と思い出したように、慌てて席を立って、制服の裾をチョンと詰まる。
「ごめんなさい。挨拶がまだでした」
「ははっ。いいよ、リリ。学園内では過度な礼は免除されているし、何しろ今更だしね」
そういうスオウの言葉に、リリも安心してほっと顔を上げる。
改めて見やれば猶の事、目にも眩しい王子様。
少し伸びがちで、いつも軽やかなアッシュブロンドに、鮮やかな紫鳶色の艶めいた瞳と、立っているだけでとっても絵になるその人は、日の光の下にいると尚更に輝かしい。
そしてその人は比喩でも揶揄でもなく、事実、“殿下”でいらっしゃる。
「拝礼は免除といっても……いいんですか? スオウ“殿下”」
「ふふっ。リリは私のこと、殿下だと思ってるの?」
「うーん……王子様みたい、とは思ってますよ?」
そう素直に答えたところで、「思ってたんだ」と逆に驚かれた。
彼は、スオウ・ベイルズウォン・ルドルフセン公爵令息。
このドレッセン王国の王室においても決して無下にはできない、第五位の王位継承権を有する殿下でいらっしゃる。
ルドルフセン公爵家というのは、現国王アデリス陛下の妹アデリア王女殿下が降嫁した家であり、王家分家の筆頭として、公爵自身も王位継承権を有している、国王のご近親だ。
ただそんな殿下も、リリにとってはただの “お兄ちゃん”でしかない。何しろ彼は、王子様である前に、リリの“ハトコ”でもあるのだ。
スオウの祖母、つまり現ルドルフセン公爵の母に当たる人物は、アリストフォーゼ辺境伯家の出身であった。ようは、リリの父方の祖父である前アリストフォーゼ辺境伯と、こちらのスオウ殿下の父方の祖母のセリア夫人とが兄妹の関係になるのである。
スオウの祖母であり前ルドルフセン公爵家に嫁いだセリアは、夫を亡くし、子供が爵位を継いで立派に成人した後、ルドルフセン家ではなく実家のアリストフォーゼ家が所有していたのどかで小さな別荘に隠棲して、そこで静かな余生を送っていた。
ずっと腰も悪く病がちにもなっていて、スオウはよくそんな祖母を見舞いに訪ねてきていた。リリも、父方の祖父母は早くに亡くなり、母方の祖父母も外国の人なので軽々しく会いにゆけなかったこともあって、大叔母であるセリアを実の祖母のように慕い、この別荘に通い詰めていた。
だからリリがスオウと知り合ったのはセリアの別荘でのことであり、同じようにセリアを見舞っていた“セリアおばあさまの孫”という認識が長かったものだから、今更スオウが殿下だといわれたって、ちっともピンと来ないのだ。
まぁ外見と性格に関しては、いかにも王子様だな、なんて思っているけれど。
「スオウ様には、セリアおばあさまが亡くなられて以来ですね。お変わりないようで」
「リリも。あれからちっとも顔を出してくれないから、私はもう忘れられていたのかと思ったよ。さっきも、中々反応してくれなかったし」
「だって……あんまり突然で、驚いたから」
一瞬分からなくて、なんてことは流石に言えなくて、つい肩をすくめてしまった。
なにしろスオウに最後にあったのは、もう一年も前のこと。セリアが亡くなって、遺言により身内だけでひっそりと葬儀が行なわれたその日以来だ。こんなにもキラキラしさに磨きをかけていただなんて、呆然となるのも仕方がない。
お見舞いの手紙や季節の便りなどはそれからも貰っていたけれど、スオウは一年早くこの学校に入ってしまったし、長期休暇の間のお茶のお誘いなんかも、何となく断っていたから、本当に久しぶりだったのだ。
理由は簡単。良くも悪くも、彼が“生徒会”の人間だからだ。
「私の方は朝からリリを探し回って、リリの寮まで行ったのに。酷いな」
「そうなんですか?」
なにか御用でしたか? と問うてみたところで、彼は一際ニコリと温厚な王子様スマイルなんかお浮かべになって。
「リリを生徒会に誘おうかと思って」
「お断りします」
そうすかさず断りの言葉を入れたなら、「即答かぁ」と、スオウは肩をすくめて見せた。
「まぁ、そう言うだろうとは思っていたんだ。でも一応ね」
一応とはいえ、本当にそんな声を掛けられたことには、少しくらいは驚いた。
というのもリリは、いくらスオウ殿下のハトコで、国内でもそこそこ有名な家柄とはいえ、所詮はド田舎伯爵家の次女。特に優秀という聞こえがあるわけでもなければ、社交にも全然出ていないから、知名度も低い。飛びぬけて何か目立つものがあるわけでもない。
そんな自分がゲームのように生徒会入りする理由として思い当たるのは、このスオウの推薦しかなかったのだ。
それが、何となくセリアの死後、スオウを避けた理由である。
「自分で言っておいてなんですが、そんなに簡単に納得していただけるとは思ってませんでした」
「リリは目立つの、好きじゃないでしょう? 他人と関わるのもそんなに好きじゃないのを知っているから。きっと生徒会なんて窮屈に思うだろうなとは思っていたんだ。最近私を避けているのもそのせいかな、と」
「ちょっと、あからさまでしたか?」
「がっかりはしたよ? 勧誘しないで、と言われたら、私だって無理にリリを生徒会に入れたりしないのに」
私はそんなに信用ないかな? というスオウに、慌てて、「ちっともそんなことはないです!」とフォローした。
実の所半分くらいは、単にお茶会が面倒くさかっただけなのだ。
「でも、ごめんなさい。別に、生徒会が嫌とか、何か大した理由があるわけではなくて。でも、入りたいと思う理由も、意味も特になくて」
「私がいるよ?」
「……えーっと」
それは、入りたいと思う理由として、という意味だろうか。
そりゃあまぁ、スオウは良い人だと思うけれど、だが如何せん、リリはこの新しい人生を、とにかくだらだらのびのびと気楽に生きたいと思っているのだ。こんな有名人な殿下と親しくなるなんて……いや。むしろこの“攻略対象の一人”とお近づきになるなんて、絶対に面倒くさいことこの上ない。そんなものに自分から近付くなんて、御免だ。
スオウとは是非これからもよき親戚でありたいと思っているが、かといってゲームシナリオが始まってしまうような展開は望んでいないのである。
「いや、まぁ、断ってくれてよかったよ。あそこにはリリを近付けたくない人もいるから。本当は今ちょっと、安心してる」
「近付けたくない?」
はて。そんな変な人が生徒会にはいるのだろうか?
公式HPに上がっていた人だろうか?
資料室を実験室にして危ない研究をしているとかいう宰相閣下のご子息あたりは確かに、リアルでは関わり合いたくないタイプかもしれないけれど。
「でも個人的ならいいでしょう? たまにはお茶にでも付き合ってよ、リリ」
「ええ、それなら喜んで。リザ姉様から、アンブロシアの花茶を沢山いただいたから、一緒に消費してほしいです。早く飲まないと、悪くなっちゃう」
「じゃあ約束」
そう差し出された小指に、つい、ふふっ、と肩を揺らして笑ってしまった。
当たり前だけれど、この世界に“ゆびきり”なんて慣習はない。これはそんなことを知らなかったリリが、小さな頃、多分何かの拍子でこうやってスオウと何かを約束したために生じた慣習なのだ。
何の約束だったのかちっとも覚えていないから、指切りした意味が無いのだけれど……でもそれ以来、スオウはよくこうやって約束を結びたがる。
だからちょっとくすぐったい思いがしつつ、小指を絡めたら、思いの外ぎゅっと強く握りしめられて、ちょっぴり小指が痛くなった。
これはもしかして……リリが過去の約束をいくつも忘れた(あるいは故意に放棄した)ことに対するあてつけだろうか。バレてるんだろうか……。
「そんなにぎゅっとしなくても、お茶の約束くらい忘れませんよ?」
「ふぅん。じゃあ、他のは忘れるんだ?」
「……」
うん。やっぱり、バレている。
そっと目を泳がせていたら、クスクスと笑って指を解放したスオウがおもむろにベンチに置かれていたリリの鞄を取り上げた。
「あの。スオウ様?」
「ついておいで。ヴァイオリンを弾ける場所を探していたんでしょう?」
そう言われた途端、パッ、と、思わず頬が赤く染まった。
流石幼馴染のお兄様。何でわかったんだろう。
「すごい、スオウ様!」
「生徒会寮なら音楽室もあるんだけど。生徒会に入らないなら、他の場所が必要だろうからって、色々考えてたんだよ」
「あっ。でも、時間……」
確かスケジュールでは生徒総会になっていて……と思ったところで、はっと目を瞬かせて、今年“生徒会議長”という要職にあるはずのスオウを見た。
生徒総会とはつまり、生徒会主催の総会なはずなのに、そういえばこの人はこんなところにいていいのだろうか。
「心配いらないよ。私の出番は後ろの方だから。それから出席も取らないし、だらだらと学校生活のことなんか、学生手帳に書いてある内容を説明するだけだから、休んでも支障はない」
約束は忘れるけれど、元々リリは記憶力はすごくいい。
一目で丸暗記とかは無理だけれど、学校の心得関係のものも、ぱらぱらっと冊子を捲れば、大体は頭に入っている。改めて説明を聞くほどではない。
そう生徒会議長様に言われると、なんだ、そうなんだ、という気がして、リリもほっとして、スオウの後ろをついて行った。
校舎裏を東へ。少し木々の奥まったところにあるメッキの剥げたアンティークな柵を越えると、あまり整地されていない道が続いて、間もなく大きな温室の屋根が見えてきた。
これはもしかしてもしかしなくても、キリエが言っていた聖堂への道なのではないのか。
そう期待したところで、やがて小ぶりで瀟洒な聖堂が目に留まり、ほぅ、と吐息を溢してしまった。
なんて可愛らしい聖堂。
白い壁に、高い丸屋根、美しい薔薇窓。大きな扉は色あせてしまっていたけれど、それが独特の風合いを醸し出していて、古めいた風合いになっているのが逆に良い。
「聖堂!」
「そこは鍵がかかってるよ」
「なんですと?」
え、ここじゃないの?
視線を引かれつつも、どうやらスオウが向かっているのはその近くの温室らしい。
温室……うん、温室もいいんだけどさ。でも聖堂……。
「……」
「……」
「……ふふっ。分かった。分かったよ。聖堂がいいんだね?」
「あ、いや……でも鍵がかかってるんですよね?」
「おや、リリ。私が何者か知らないのかい?」
そうニコリと笑ってポケットから色の褪せた三つの鍵が付いたキーホルダーを取り出して見せたスオウには、リリも呆れた顔で言葉を失ってしまった。
もしかしなくてもそれは、生徒会室か職員室かのマスターキーなのではなかろうか。一体どんな理由で拝借してきたのか。
「温室に鍵がかかっていたらと思っての鍵のつもりで持ってきたんだけど、多分、この中の……これが聖堂の鍵かな? リリにあげるよ」
「いやいやっ……それって、いいんですか?」
「どうせ誰も使ってない聖堂だし、生徒会室にあったスペアだから、平気。卒業する時にでも、こっそり生徒会室に投げ込んでくれておけばいいよ」
そんな軽い感じでいいのだろうかと思いつつ、でもそうと言われれば迷うことなく、ホルダーから取り外された鍵を拝借することにした。どのみち、貴重品なんて置かれていないであろう旧聖堂だ。許してもらおう。
「さっそく、弾いてもいいですか?」
今はとりあえずそれより何よりも、早く楽器に触りたい。
そんな思いで扉に飛びついたら、「勿論」と苦笑するスオウが鍵を開けてくれた。
内壁まで真っ白にあしらわれた聖堂はとても天井が高く、奥には大きなオルガンが。古めいた赤い絨毯は色あせていて、少しだけ埃の匂いがする。でも使われていないという割には綺麗だ。
窓から降り注ぐ日の光は計算しつくされた美しさで、うっとりしてしまいそうなくらいに素敵だった。
こぼした吐息が、少し大げさなくらいに冷たい石壁に反射して音を響かせる。
うむ。音響もいい。
すぐにも参拝者用のベンチにヴァイオリンケースを置くと、蓋を開けて、長年使いこんだヴァイオリンを取り出した。
いわゆる子供用の、二分の一サイズというやつだから、リリが持つと小さくて玩具みたいになってしまう。流石に弾き辛くて、ずっと弾いていると手が痛くなるのだけど、音を出すのにはなんら不具合はない。大切な相棒だ。
いかに隣国産の楽器とはいえこの国でも需要はある楽器なので、物さえ選ばなければ大人用のサイズを手に入れられないことはないのだけれど、これは姉が結婚した際に、姉の旦那様から頂いた思い出もある名品だから、ついつい大事にして代えられずにいるのだ。
そんなヴァイオリンに、二日ぶりに弓を添わせて、ゆっくりと引きながらチューニングする。
軽く弓を添わせただけでも、高い天井までいっぱいに音が伸びる。流石に昔の音楽室ほどではないけれど、乾いた空気と冷たい石壁に冷えた聖堂の中の温度がとても音を心地よくしてくれた。
「何にしようかな」
「リクエストしていい?」
チューニングを終えたところで、何を弾こうかと考えていたら、いつの間にか客席替わりのベンチに座ったスオウが、そう声をかける。
「うん。案内して下さったお礼に、何でも」
「リリが昔、お祖母様のところで良く弾いてた子守唄がいいな。何故か歌詞が“眠れや王子”なやつ」
そうクスッと笑ったスオウに、「フリースの子守唄ね」とリリも肩すくめる。
フリースの子守唄……日本では、“モーツァルトの子守唄”として知られるそれは、前世での父がよく子守唄に歌ってくれた曲だった。
歌詞もドイツ語だったので、よく意味も分からないまま丸暗記して、たまに口ずさんだり手慰みにしたりしていた弾き慣れた曲だ。なので今世での大叔母の枕元でも、何度も自信満々に弾いみせていた。
あの時はちっとも考えずに、「こんな歌詞」と歌ってみせたこともあったのだが、当然、『眠れや眠れ、私の王子』の歌詞に、当の“王子様”が笑った理由なんて知る由も無かった。
良く考えたら、セリアがクスクスと可笑しそうにしていたのもその歌詞のせいだったのであり、それに気が付いた今、スオウにこの曲を聴かせるのはちょっと恥ずかしいのだけれど、リクエストなら仕方がない。
身の丈には小さすぎるヴァイオイリンを構え、小さな弓をつがえ、ゆったりと手慣れた曲を弾き流す。
『眠れや眠れ、私の王子。羊も小鳥もみんな眠って、庭も牧場も静かになって、みつ蜂さえも羽ばたき止めて。お月様は銀に輝き、窓から覗いていらっしゃる。さぁお眠りなさい。銀の月の輝きのもと、眠れや眠れ、私の王子。お眠りなさい。眠れや眠れ』
こんな日中から奏でるには不釣り合いな歌詞だけれど、タッチを軽めに華やかにしてあげれば、この場所にも似合いのまったりと良い感じになった。
調子に乗って一つオクターブを上げてやれば、ほんのり口を緩めたスオウが聞き入ってくれて、気分も良い。
やっぱり、聴いてくれる人がいるのは良い。
そうしてちょっぴり余韻長めに引き終えて、恭しく一礼をして見せたら、パチパチパチ、と、形式的な軽やかな拍手が返ってきた。
言葉はいらない。ニコリと微笑んで見せたその顔で、すっかりと満足した。
「もうちょっとちゃんとしたヴァイオリンが手に入ったら、また聴いてくださいね」
「ああ。楽しみにしている」
そう言いながらスクリと立ち上がったスオウに、そろそろ時間だろうかとリリも慌ててヴァイオリンをケースにしまおうとする。
だがそれをそっと制したスオウが、「リリはもう少し弾いていったらいいよ」だなんて言うものだから、肩をすくめつつ、ヴァイオリンをしまうのを止めた。
「もぅ。大事な話聞き逃したら、スオウ様のせいですからね」
「その時は私のせいにして良いよ」
それはとっても頼もしいけど。
ちょっとハードルが高すぎます、と、今一層肩をすくめて見せた。