1-22 学芸祭前日(1)
「あのぅ、殿下。私、本当に弾かないと駄目ですか?」
今更言うに事欠いてそんなことを言い出したリリに、じとりと視線を投げかけたところで、ちっとも此方なんて向いていない彼女はその場にしゃがみ込んで、椅子の上に丸くなっている黒猫に、「ちょっと、起きて下さいよキリエさーん」なんて話しかけている。
質問しておいて猫に気を取られるとか。相変わらず、何なのだろうか。この少女は。
「さぼってないでもう一度通すぞ。学芸祭は明日から始まるんだ」
「はぁぁぁ……」
なんという重たいため息なのか。
自分を前にしてこうも堂々とため息を吐いてくれるとは。
「せめて顔がばれないように……仮面? マスク? は恥ずかしいし……」
なにやらブツブツと言いながら猫の尻尾で遊んでいる少女は、途端にハッとした顔でこちらを見たものだから。
「仮装はやらんぞ」
そうすかさず口にしたら、がっかりと肩を落とした。
まさか……本気でこの私に仮装をさせる気だったのか。
まったく。そんなことを考える暇が有ったら練習を続けろというのに、と、目の前の鍵盤をたたいてみせたなら、先程までの様子とは打って変わってヴァイオリンを構えた彼女は、適当に猫の傍らに腰を預けたまま軽やかに音を奏でだした。
ごろごろとその膝の上に背中をなすりつける猫が邪魔じゃないのだろうか。
ちっとも気にした様子も無く、むしろクスクスとくすぐったさに肩を揺らしながら奏でる音色は格別に優しい音色をしていた。
とはいえ……栄えある学芸祭を何だと思っているのか。
「ちょっ、ちょっとっ、キリエ。くすぐったいったら!」
曲の途中ながらもそう必死に音が揺れるのを我慢しながら笑う、ふざけた少女。
「んにゃ」
のびやかな声をあげてぐるんとリリの膝の上で一回転した猫の甘えっぷりが、どうにも目障りで仕方が無い。
だから思わずピタリと手を止めたら、ようやくリリの眼差しが此方を見た。
「あ、すみません。間違えましたか?」
「……いや。そうではないが」
チラリと見やった先で、まるで勝ち誇ったような顔でこちらを見る黒猫の金色の瞳が、どうにも憎らしい。
一体何なのだ。この猫は。
「リリ嬢。ここはペット禁止だ」
「え?」
「にゃっ、にゃーにゃー! にゃー!」
途端にリリの膝の上に立ち上がって毛を逆立て始めたこの猫は……もしかして、人の言葉が分かるのだろうかというくらいの殺気だった。
ペット扱いが不満だったのか?
「ごめんなさいっ。最近は残暑にやられてへばってばかりだったのに、涼しくなったせいか、最近とっても元気で。どこにでも着いてきてしまって」
ひょいと猫を摘まみ上げて、ヴァイオリンの代わりに肩に猫を抱えた仕草に、またしても猫がにやりとこちらを窺っているような顔をするのが気に入らない。
一体何だというのだ。
「もう、キリエさん。何で今日はそんなに不機嫌なんですかー」
「んにゃっ、にゃ! にゃーにゃ、にゃ!」
「あーはいはい。この曲、飽きたのね。あとで生ハムあげるから、もうちょっと我慢してね。逃げたら不敬罪らしいから」
「にゃぁ?」
「うん。そう。不敬罪」
まるで猫と話しているのではないかと言うようなやり取りをするリリ嬢も不思議だったが、まるでその言葉を理解しているかのようにジトッとこちらを見た黒猫の視線は、それ以上に不可解なものだった。
もしかしなくても。
「君は、その猫の言っていることが分かるのか?」
思わず問うた問いに、えっ! とびっくりと顔を跳ね上げたリリ嬢は、すぐに気まずそうにきょろきょろと視線をさまよわせながら、「いやー、何の事やら」なんてベタな誤魔化し方をした。
ようするに……分かっている、ということなのだろうか?
そんな馬鹿な。
猫と意思疎通ができる? 言っていることがわかる? そんなお伽噺、有るはずがない。
有るはずはないけれど……。
「猫は何と?」
「えっとっ」
「何と言っているんだ?」
「……」
きょろ、きょろ、と今少し困惑気に視線をさまよわせて、肩の上でツンとした猫を見やって。
少し躊躇うように。ちょっと恥ずかしそうに。
「同じ曲ばかりで飽きた。もっと僕を賛美する曲にしろ、って……」
「……」
猫を……賛美?
「あっ。ちょっと、キリエ? どこ行くの?」
呆然としている内にも、ひょいとリリの肩を飛び下りた黒猫が、お澄まし顔でテクテクと歩きだし、扉の前でにゃあと鳴く。
「えぇっ。今度は何ですか?」
今にもその瀟洒な扉を爪で引っ掻きそうなキリエに、慌ててヴァイオリンを置いて駆け寄ったリリが扉を開けた。
そうすればその隙間に少し身を潜らせて、かと思うと振り返った黒猫はまたしても、「んなぁ!」と声をあげる。
「今度は何と?」
「……え、えーっと……」
「遠慮はいらない。何と言っている」
「……着いてこい下僕共。僕を称えたくなるようなお気に入りの場所を案内してやる……だそうです」
「……」
落ち着け。落ち着くんだユーシス。これは猫だ。猫が言っているんだ。別に彼女が言っているわけではない。
いや? まさか本気で猫の言うことがわかるとでも?
「ほぉう……」
「ちょっ。ちょっと待ったっ、殿下ッ! 私じゃないですっ。私じゃないですよ!?」
「この下僕を満足させられるような、結構な場所なんだろうな? リリ嬢」
「だから私じゃないですよっ?!」
ちゃんと話聞いてます!? とおっかなびっくりする顔が、どうにも可愛い……。
頬を膨らませて、「もうっ、キリエのせいですよ!」なんて怒っている姿が、ちっとも悪意を感じさせない。
そうだ。彼女は自由な人。何にもとらわれも縛られもしない。そうだからこそ、彼女の奏でる音は心地が良いのだ。
思わずパタンとピアノの蓋を閉めて席を立つと、リリ嬢は大層困惑した顔できょろきょろとしていたけれど、今更、取り消しの言葉なんかは受け付けやしない。
「案内してもらおうか」
そう差しのべた手に、顔を真っ赤にして硬直した様子は、ご令嬢と言うよりも獅子に睨まれた兎みたいだった。
そのままちっとも動く気配なんて見せないものだから、強引に宙に浮いた手を掴んで引き寄せる。
華奢な体躯に似合わぬ細くて長い綺麗な指。長年弦を抑え続けて来たであろう、思いの外堅い指先と、やたらと彩られた令嬢達とは違う、綺麗に切り整えられた爪先。
抜けるように白い肌がふるふると緊張に震えていて、今にも逃げ出してしまいそうな手をぎゅっと逃がさないように握りしめる。
「ややっ、やめてくださいっ、殿下っ」
「私は下僕らしいからな。姫をエスコートせねば酷い目にあわされかねない」
「違いますっ! 違いますからっ!」
「にゃぁぁー」
「ちょっ、キリエさんっ?!」
猫が何を言っているのかわからないが、どうやら賛同していただいたらしい。
テクテクと歩き出した黒猫に、強引にリリの手を引いて部屋を出たなら、彼女もしぶしぶと足を動かした。
手を引けば引くほど、めいっぱい体を遠ざけて、なんだか引きずっているような状態になっている気がしないでもないが。
「あんまり遅いと、抱えて行くぞ」
それが気に入らなくてポツリと囁いてやれば、途端にきゅるんっと身を縮め、おっかなびっくりと隣に並んだ。
まだどうしようもなくのけぞって距離を取ろうとしているように見えるけれど。
でもなんだかそれがかえって初々しくて。
「ふっ……」
思わず口の端に浮かんだ笑みに、チラリと黒猫が此方を振り返った気がした。
良く分からないが。
何やら少し……気分がいい。
◇◇◇
『学芸祭の準備はすべてに二階の会議室で。しばらく三階は出入りしないでもらいたい』
生徒会長が突然そんなことを言い出した時から、嫌な予感はしていた。
どういうつもりだろうかと、ピタリと張りついた扉の向こうからは、美しいピアノフォルテの調べ。
あぁ。もしかして、学芸祭の練習のためだろうか。それなら……仕方がないと。そう安堵にも似た気持ちで吐息を溢そうとして。
『出だしはもう少しゆったりした方が私は好きです』
『そうか? じゃあこのくらいは?』
『あ。いいですね』
ふいに美しい調べに重なった、どきりと胸を掴まれるようなのびやかなヴァイオリンの音。
どくどくと胸を締め付ける切ない音色と、主題部分に向けての軽やかなパッセージ。
ぴったりと息の合った短い小節に、ふふっ、ふふふっ、と、何一つ取り繕わない涼やかな笑い声が漏れ聞こえてきた。
『この加速、気持ちがいいです』
『あぁ。出だしのテンポがきいているな。今ので行こう』
聞いたことも無いような、殿下の柔らかな声色が、益々胸をずぐりとえぐる。
違う。こんなの何かの間違い。聞き間違いだ……と、戸惑うようにして扉の傍を離れた。
だがそれは何かの間違いでも何でもなくて。
その次の日も。また次の日も。
さらにその次の日には、『どこでさぼっていた』と、女生徒らしき人物を引きずりながら生徒会館にやってきた殿下をお見かけし、すべては確信に変わった。
あぁ。どうして。
どうしてなの? 殿下――。
生徒会副議長トリシア・アンチェス・フラートラ。
名門フラートラ侯爵家の長女として生を受け、幼少より王太子妃候補として名前が上がる中、誰よりもそれを矜持として才を蓄え、学を嗜み、己を磨いてきた。
二年に上がる際、殿下から直々にお声を掛けられて生徒会に勧誘された時には、まるでそのすべてが報われたかのような光栄を噛み締め、今もまた、彼の治める生徒会を平穏たらし面と努力を尽くしてきたはずだった。
その人の事ならば、何でも見逃したりせず。何でも知っているつもりだった。
何にも興味など持たないような顔をなさっているけれど、本当はとても音楽が好きでいらっしゃることだって知っている。
だから賢明に腕を磨いて、願わくばこの学芸祭でお相手を務められたらとさえ願っていた。
けれどそのお声がかからなかったことに落ち込んで。
いいえ。でも殿下は孤高の御方。きっと誰かをお誘いになるなんてしないわよね、なんて、密かに安心さえしていたというのに。
あぁ。これは一体、どういうことなのか。
『やや、やっ、やめてくださいっ、殿下っ』
『私は下僕らしいからな。姫をエスコートせねば酷い目にあわされかねない』
『違いますっ! 違いますからっ!』
賑やかな声色が鼻につく。
ガチャリと開いた扉に慌てて踵を返して物陰に身を潜めたところで、殿下が手を引く少女を見た瞬間、どうしようもない激情が身の内を駆け巡った。
あの少女だ。
あの茶会の日、殿下が少しの迷いも無くすべてを託した少女。
確か、リリとかいう……殿下の心をひきつけてやまない、“音”の持ち主。
あの子だったのだ。
「どうしてッ。私の努力も何もかも、ぽっと出のあの子が生まれ持ったものには所詮敵わないというのっ?」
『なんて素晴らしいの』――その言葉が嬉しくて。
『流石はトリシア様。王太子妃に相応しい御方』――そのためだけに努力して。
『よいこと、トリシア。殿下と同じ年に生まれ落ちたことは、貴女に与えられた最大の幸福であり、チャンスよ。決して無駄にしてはいけません。“フラートラ”の名にかけて』
両親の与えてくれる期待に、何ら恥じることなく生きてきたというのに。
何という屈辱なのか。
本当なら、その役目は私であったはずなのに。
殿下に手を引かれ、あの大舞台に立つのも。素晴らしい演奏にお褒めの言葉をいただくのも。人々からの歓声に、謙虚な言葉で称賛されることも。
すべてすべて。私の役目であったはずなのに――。
なのにどうして、と、空虚になった生徒会室に足を踏み入れる。
無機質な、誰もいないピアノ。
窓辺に放り置かれた、とても美しい古色のヴァイオリン。
不覚にも、頭の奥底にこびりついた美しい讃歌の調べが耳元を離れない。
だけど……そうだ。これさえなければ。これさえなくなってしまえば、その音は消えてなくなるのではないか。
あの子は殿下のパートナーは務められなくなるのではないか。
おもむろに心によぎったよこしまな思いに、思わず伸ばした手がヴァイオリンに触れる。
とても大切にされていたであろうことがわかるすべらかな手触り。胴に塗り込められたニスの深い色。細かく寄り編まれたガット弦は純正アンブロシア産の秘匿製法によるもの。弓に掘りこまれた繊細な彫刻にしても、どれも目を疑うような見事な品で、手にしたヴァイオリンの吸い付くような指ざわりには、思わずドキリとした。
楽器の事は詳しくないけれど、これでも少しは勉強した。
これがどれほどの逸品なのかくらいは、分かるつもりだ。
そうか。これが。音ではなく、この楽器が、殿下を魅了したのだろうか?
だったらこれさえあれば。
このヴァイオリンさえ、あったなら……。
「あのぅ……」
突如として背中にかけられた声色に、はっとして振り返る。
その目に移った、ふわりと柔らかなピンクアッシュのブロンドに。
頭で考えるよりも早く。
気が付いた時にはもう、その美しいヴァイオリンを背中に隠していた。




