1-21 本心と建前
『ラーニャ、スビーニャ、テラァンテル、リーイッヒ。キリューネッアキーヌエ、リリアーテアッ、クランツォーネ、デローゼン、フォー、レ、アリーステララララルラリラ……』
不機嫌な顔。深い深いため息と、少し目を離せば逃げ出してしまう、まるで子猫か野良猫かとでも言うような少女が、たちまちに顔をほころばせて奏でた、神聖家門門外不出の古い古い言葉。
窓から差し込む黄昏時の光の中で、ふわりふわりと揺れる曙色の髪。
歌っている時と楽器を持っている時にしか見せてはくれない、心から音楽を愛しているといった、微睡むような眼差し。
『アリストフォーゼ家の……ことなんですか?』
あまりにも無垢で純粋で、何も知らない危なっかしい少女。
教養のない言葉の端々を厭うのは簡単なはずなのに。
『も、もう二度と歌いませんッ!』
その白い頬を真っ赤にして慌てふためく彼女の姿が、眼の裏からはがれて消えない。
なんておかしな少女なのか。
リリ・クラウベル・アリストフォーゼ。いや。リリ・アリスト・フォー・キリエンヌ。
その世間知らずは、神々の聖域に生まれ、大切に、大切にと育てられたせいなのか。
いや。彼女の年の離れた姉は、この学園でも才女として名をはせた人物であり、生徒会長として数々の偉業を為した人物でもあったはずだ。
ではあれほどに無知で無害な少女を築き上げたのは、アリストフォーゼではなく、ただ彼女と彼女を取り巻くすべてのものなのか。
「おかしな姫だ」
ふと思わず口の端に浮かんだ笑みに、思わず自分で自分の口を押えて静止した。
なんだろうか。この、奇妙な感覚は。
笑み? 一体何故。どうしてこんなものが沸き起こるのか。
「ユーシス……」
その自問自答を妨げるかのように、カタンと音を立てて開いた扉と不機嫌な声色に、振り返ってすぐ、ユーシスも顔色を濁した。
これまでは、どれほどこちらから近付こうとしても近付きはせず、のらりくらりと逃げてばかりだったというのに、ここ最近はただ一つ、彼女の事に関してだけやたらと突っかかってくる、己の従兄。
リリ嬢のハトコであり、おそらく誰も良く知らない彼女の事を、一番よく存じているであろう男。
「何だ、スオウ。今日はもう生徒会は解散だと言っていたはずだが」
皆寮に戻ったものかと思っていたのに、何故いるのか。
「リリに、いらないことを教えないでくれないか」
ぴくり、と眉を吊り上げて、低く唸るように言葉を紡ぐ従兄を見やる。
こいつのこんな顔なんて、滅多に見られたものではない。それも言うに事欠いて、いらないこと?
「どういう意味だ」
どうやらどこかでリリとのやり取りを聞いていたらしいことは分かるが、何故そんなことをスオウに言われねばならないのか。
無知であるのであれば、誰かが教えるべきだ。
自分であったから良いものの、門外不出の神聖古語をあのように軽々しく口にしてしまうような行いは誰かが教えて咎めてあげるべきであるし、彼女自身の事についてだって、誰かがもっと教えてあげておかねば、今後どのような弊害があるとも知れない。
何よりも自分が彼女に語ったことは、すべて彼女自身に関することだ。
それを教えることが、何故いらないことなのか。
「意味なんてどうでもいいだろ? 何でもいいから、君はあまりリリにいらないことをしないで」
「意味がどうでもいいのであれば、私が彼女に彼女のことを教えて何が悪い」
「アリストフォーゼ家は、リリにあえて何も教えていない。そうは思わないの?」
「……あえて?」
ふむ、なるほど。確かにそうだ。
アリストフォーゼ家当主ゼーレム・アリスト・フォー・キリエンヌ猊下のことは、自分もよく見知っている。
キリエンヌ公国がドレッセン王国に帰属しアリストフォーゼ辺境伯家として叙爵されている現在、彼が特異な立場であることに変わりはないが、それでも一年の大半をこのドレッセンの王都に滞在し、国家の典礼に関わっていただいている。
さればその国の王子として、ゼーレム卿の執り行う神事の数々にも慣れ親しんで来たし、幼い頃には導師として卿からの教えを請うたこともある。
その深い知識と才知は計り知れず、この上ない英明は師として仰いだ自分が誰よりもよく知っている。
だがあのリリを見ていると、それがあのゼーレム卿の実子だなどとどうにも信じがたい。
師は何故、我が子を才知ある娘に育てなかったのか。
世継ではないからか?
姉は外交上重要な役目を担って隣国に嫁いだ。その後の家督は次女であるリリではなく、弟の子を引き取って養子にしていると聞く。それゆえに、娘の教育を放棄しているのだろうか。
いいや。だがそれにしても、あまりにも無防備が過ぎる。
「スオウ。何か知っているのか? どうして猊下が娘に何も教えていないのか」
自分の家のことも。自分のことも。アリストフォーゼ家がどういう立ち位置であるのかも。辺境伯家の意味も。何も。
「それは……」
「リリ嬢があんまり可愛いんで、皆厳しくできなかったんじゃねぇの?」
顔色を濁すスオウの後ろから、ニヘラと緊張感のない顔で陽気な物言いをしながら顔を出したラウルに、ハァ、と、思わずため息が零れ落ちる。
相も変わらずこの男と来たら……緩すぎるにもほどがある。
「ラウル……君ねぇ」
「ちげぇの? スオウ殿下。だって殿下も、教える機会なんていくらでもあっただろう? 幼馴染なんだし」
「……」
いや、それは、とわずかに逡巡してみせたスオウは、間もなく面差しを崩すと、「確かにそうだ」と笑い出した。
「いや。中々鋭いよ、ラウル。確かに、あのキョトンとした無垢な顔が可愛くって。ついつい秘密にしたくなるんだよ。それで間違いに気が付いた時の、真っ赤な顔がまた可愛くって」
クスクス、クスクスと笑うスオウに、たまらず顔色を濁す。
無垢な顔? 真っ赤な顔? 言われずとも知っている。
何ら特別なものなんかじゃない。彼女はつい先程もそんな顔をして、可愛く……そう。とても可愛らしく。でもとても熱心に、『教えてください』と求めてきた。
彼女はちゃんと、真実を知りたがっているのに――。
「ラウル。何か用か?」
「その姫さんを寮まで見送ってきましたよという報告に。何か途中、道端で黒猫を拾って持って帰ってましたよ」
「黒猫……キリエとかいう、飼い猫か」
そういえばと思いだし、チラリとスオウを窺ったところで、すっかりと会話から離脱したらしいスオウは、早々と背を向けて机に広げられていた資料の整理などはじめていた。
もう、先程の会話をぶり返すつもりはないという意思表示。
こいつはいつもそうなのだ。
真っ向から議論をすることも無ければ、本心をさらけて言葉をぶつけてくることもない。
いつもいつもこうやって、すぐに背を向けて……。
「スオウ。言いたいことがあるならちゃんと言え。いつもそう言っているだろう」
どうにも苛立ちを抑えられずに物申したところで、どうせいつものように無害な顔をして、『別に何もないよ?』なんて笑って見せるのだ。
こいつはこうやっていつもいつも。何もかもはぐらかしてばかりだ。
小さな頃、自分達兄弟に次ぐ王位継承者として、初めて引き合わされたその時から、あるいは唯一対等な友にも、好敵手にもなり得るのではと期待したそれを完全に裏切られて以来、スオウが自分に真っ向から対等な立場で言葉を交わし、競ってくれたことは一度も無い。
彼の生母であるアデリア王女の配慮により、傍系が出過ぎぬようにと育てられたせいであることは理解しているが、それでもそれがどうしようもなく、自分を苛立たせるのだ。
だがどうした事か。この日ばかりはそんな誤魔化すような顔はせず、ただジッと此方を見やった静かな面差しが、妙にドキリと焦燥を掻きたてた。
何だ。何だというのだ。いつもならそんな顔をしないはずなのに。
今日に限って。“リリ”のことに限って……そんな顔。
「じゃあ言わせてもらうけど。リリは私にとって、妹みたいなものなんだ」
「……あぁ」
「君が君の立場と彼女の立場をちゃんと理解しているのなら、不用意に彼女に近付いたり、ちょっかいを出すのはやめてくれないか」
「……」
これを一体、どう理解すればいいのか。
この男がこんな顔をしたり、こんな物言いをするなんて滅多にないことだ。
何をそんなに、怒っているのか。
「逆ではないのか? 理解しているからこそ、私が彼女を家柄だけで厚く遇することは、むしろ理に適っている。長女をアンブロシアの王室に奪われている以上、ドレッセンにとっても、“キリエンヌの次女”は決して無碍にはできない相手だ」
「厚く、遇する? キリエンヌの聖なる家門を俗世に縛り付けることは国家の禁忌。それはこの国の絶対の不文律だよ。近付く必要が無いから、あえて誰も何も教えていないのに。なのに君はあえてそれを侵して、あの子を国家に巻き込むつもり?」
「……ッ」
「もしそんなつもりでリリに近付くのであれば、キリエンヌ最大の譲歩として国家に連なる家へと降嫁したセリアお祖母様の孫として、私は放ってはおけない。彼女は“君達”の道具じゃない」
そう厳しい眼差しで捨て置いて早々と踵を返したスオウに、しばし、続ける言葉が思い当たらなかった。
あいつのあんな物言いを、初めて聞いた。
自分に意見をするような言葉も、初めて聞いた。
ドレッセン王家とキリエンヌ教公家との“交わらず”の不文律――それは勿論存じているが、だからこそ王家にとってアリストフォーゼ家は何をもってしても傍に留め置かねばならない存在なのだ。
なのに可能性があるからと、それだけの理由で彼はリリを常識から遠く引き離し、さも世俗ならぬ場所へと囲おうとしているのだろうか。
だとしたらそれは……一体、どんな“執着心”なのか。
「……」
何やらもやもやと。訳も分からずに苛立ちが募る。
一体、何だというのか。
あの少女が。リリが。一体、何だと……。
「珍しいな。スオウ殿下があんなにも御執着だなんて」
いつもと変わらない飄々とした物言いのラウルの言葉が、自分の私情の入り混じった主観的な思考を宥めるようだった。
確かに珍しい。
そう。ただちょっと……珍しいアイツの様子に、動揺しただけだ。
もっと冷静に。物事は客観的に判断すべきだと、小さな頃から徹底して教えられている。
でもだからといって。
いいや。そうであればなおさらに。
「私はこの国の王太子だ。政局としてキリエンヌの姫の扱いを考慮して特別に扱うことは、間違っていない」
「殿下……?」
「リリ嬢とて、知らぬでは済まされない立場であることは理解しておくべきだ」
そうだ。それでいい。
顔を見て逃げるだなんて二度とさせてたまるものか。
困ったり、怒ったり、呆れたり、笑ったり。
どうしてそのすべてを、誰かに慮って遠ざけねばならないのか。
自分は王太子だ。自分が彼女を気に掛けるのは立場として当然であり、誰かに慮らねばならないことなど何もない。
「あってはならない」
それでいいのだ、と。
おもむろに指先が、古めいたヴァイオリンをなぞる。
彼女は自分の意思で、サインを綴ったのだ。
誰も何も教えていない。無垢な存在だというのであれば、その無垢が、自分で選んだのだ。
彼女が、選んだ。アリストフォーゼが、それを選んだのだ。
それが悪いだなんて、あるはずがない。
むしろそれはこの国にとっての僥倖。
誰にも文句など、言わせはしない。
そう……これは決して、個人的な感情で気になっているわけじゃない。
彼女の立場を重んじて、気にかけているだけだ――、なんて。
自分の感情を無理矢理に合理化させようとしていることには気が付いていたけれど。
それに気が付かないふりをした。




