1-1 リリ
あぁそういえば。そんなこともあったな――、と。
そう唐突に“最後”の記憶を思い起こしたのは、何故だろうか。
それはこの、西洋の古い劇場を思い出させるような白と赤茶煉瓦の瀟洒な学園の外観が原因でも、今日から親元を離れてこの学園で寮生活を送ることになったからでもなく、宛てがわれた部屋で、届いていた荷物を開けたら何故か、実家においてきたはずの“キリエ”が中ですやすやと呑気な寝息を立てていたからに違いない。
一体どうやって忍び込んだのだろうか。
「流石に、学校の寮にペットを持ちこむってどうなのかしら……」
ぬいぐるみ……とかってことにならないだろうか。
いや、十五にもなってぬいぐるみを学校に持ってくる淑女というのも恥ずかしいけど。
「ちょっと。起きてよ、キリエ」
取りあえずそうゆさゆさと揺すぶってみたら、一体何の夢を見ているのやら、「リリィ、晩御飯は煮干しじゃにゃくて生ハムタワーがいいにゃぁぁ」と、よだれを垂らしながら随分と贅沢な寝言を囁いた。
まぁ、キリエの“言葉”が分かるのは自分だけだから、周りにはただ猫がにゃぁにゃぁ言っているだけにしか聞こえないのだろうけれど。
いや、ここで……学校の学生寮でにゃーにゃー騒がれるのもそれはそれで不味いんだけど……と困っていると、タイミングよくコンコンと扉が叩かれたものだから、慌てて、わっ! とトランクを閉めた。
だがどうやらトランクの蓋がキリエのしっぽを挟んでしまったらしく、「にィやァぁぁ!」と悲惨な鳴き声と、ゴン、ドゴンッ、と、飛び起きてトランクで頭を打ったらしい音まで聞こえて、さっと顔が青ざめた。
あぁ……なんて悲痛な叫び声。痛そうっ。ものすごく痛そう。
「リリ様!? 何事ですか? 開けて宜しいですか!?」
そう慌てふためくおっとり優し気な少女の声色に、「ま、待ってッ!」と声を上げる。
しかしその焦りに焦った声がまずかったのか、「お開けしますわよ!?」と、返事を待たずに扉が開け放たれ、長いストレートの髪をぱっつんぱっつんの姫カットにした女性らしい体つきの女子生徒が飛び込んできた。
途端、床に散らばった荷物と、その隣で必死に尻尾の毛づくろいをしている黒猫を見つけて、「まぁ!」と声を上げる。
「まぁまぁまぁ。たしか、アリストフォーゼ家の……キリエさん?」
どうしてここに? と首を傾げる少女に、ピクリと顔を上げたキリエが、「んなぁ!」(勝手に馴れ馴れしく呼んでんじゃねーよ、小娘!)と鳴き声をあげた。
その様子に一つ、リリはため息を溢す。
「トランクを開けたら入ってたの……」
「ふふっ、リリ様ったらっ。ご冗談を」
いえね。ご冗談じゃないんです……。
「それで、何か御用でしたか?」
キリエのせいで散乱した荷物を隠すべく、ちょっと扉を狭くして問うてみたところで、察しているであろう訪れ人、ことクラスメイトのエマ・フランチェス・ウォールセン嬢も気を利かせて、一歩引き下がって見せた。
「お取込み中の所を申し訳ありませんでした。私の部屋、リリ様のお部屋の隣なんです。なのでご挨拶をと思ったのですが」
「あっ」
なんて社交的なお嬢さん。
きっとこういうところが自分は駄目なんだな、と反省させられてしまう。
「それはご丁寧に、有難うございます。こちらこそ宜しく……」
お願いします、と言いかけて、しばし言葉を噤んでしまった。
はて。隣の部屋? 彼女が? それはおかしい、と。
だが口を噤んだリリに首を傾げるエマの様子は、ちっとも嘘を言っている様子なんてないし、パッと見やったところで、確かに隣の扉の表札に、エマの名前が入っていた。
どうやら本当にそうらしい。
「あ、ごめんなさい。私、ちっとも気が付かなくて。宜しく、エマ」
そうニコリと微笑んで手を差し出したら、たちまちエマが頬を染めて、少し困ったようにその手を見た。
あぁ、そうか。この世界では、滅多に握手はしない。
いや、握手は確かに対等な間柄での挨拶手段として多用されるものであるが、貴族間では珍しいかもしれない。
でもリリの家も、エマの家も同じ家格。一応小さな頃から知っている間柄。
失礼ではないはず、と思って首を傾げていたら、やがて、少し恐る恐るとエマが手を差し出して、握手してくれた。
「アリストフォーゼ家の姫君にこのようにしていただけるだなんて。恐れ多いですわ」
「……えっ?!」
リリ様ったらなんて不躾な方! とかじゃなかったのは安心したけど、そう言われるとも思っていなかった。
何しろリリ……前世と同じ響きの名前を持つ彼女、リリ・クラウベル・アリストフォーゼは、二度目の人生を始めて十五年。見事に、引きこもりの非社交的人生を満喫しているのである。この世界の常識はおろか、自分の家の事さえよく分かっていない。
「ウ、ウォールセン家は私の家とも知らぬ間柄ではありませんし。いけませんか?」
でも少なくともウォールセン家に限っては、実家と親しい間柄であったはず。
そう思って口にした言葉に、エマはとても可愛らしい顔ではにかんで見せて、「有りがたき幸せでございます」と恭しく告げてから、「それでは、お時間をおとらせ致しました」と、何故だか今まで以上に腰を低くして隣の部屋に帰って行ってしまった。
う、うむ。
やっぱり、友達というのはそう簡単にはできないらしい。
「というか私、他人と付き合う才能ない?」
「そんなの今更だろ」
ごろごろと真新しいベッドを我が物顔で引っ掻き回すキリエの一言に、地味にうっ、と胸を抑えて。
まったく。私ときたら、何の進歩もないのだから、と、盛大にベッドにダイブした。
十五年前。事故によって命を落とした沫海凜々子は、どうやら、この地球とは何もかも違うファンタジーチックな世界へとベタな転生を果したらしい。
気が付いた時には赤ん坊の姿で、顔は怖いが立派な身なりの父と、絶世の美人といって差しさわりのない異国風の面差しの母、そんな母にそっくりな九つ年上の美人姉に囲まれて、大泣きしていた。
その頃からベビーベッドにはいつも黒猫が一緒で、そんな黒猫の声が聞こえるようになったのは、多分六つか七つの頃から。そして曖昧だった過去の記憶が鮮明になったのも、その頃からだった。
新しい自分――リリ・クラウベル・アリストフォーゼは、君主議会制のこの国に一定数存在する貴族という特権階級の娘であり、伯爵家……それも、外交上非常に重要な位置付けにある辺境を世襲する、この国唯一の“辺境伯家”とやらの次女であった。
そしてすなわちそれは、購入予約だけしてプレイすることなく命を落としてしまった前世での心残りの一つ。新発売ゲームのヒロインのことでもある。
何がどうなっているのかはちっともわからないが、取りあえず自分はこの世界の神様の御使であるキリエを助けたことで、彼の生まれた世界へと転生させてもらったということらしい。
とはいえ、キリエの声が聞こえるという以外に、何か特別な物語が始まったわけでも何でもない。
身分社会とはいえ、花と緑にあふれてどこまでものほほんと平和なこのドレッセン王国は、人も皆穏やかで国も平穏で、きな臭い駆け引きや面倒くさい政治的なアレコレも殆ど存在していないし、中でもとりわけ大きな所領を有する裕福な家に生まれたリリの幼少期も、極めて穏やかなものだった。
ゲームの内容については、事前告知の公式HPに書かれていた内容が持っている情報しか知らないが、情報通りなら、リリも母親のおかげでとってもかわいく育つはずだったし、伯爵家の跡取りについても父方の叔父の子が養子になるはずだから、跡継ぎの心配も無い。
すなわち、難しいことは考えず、のんびりとこの穏やかな世界を満喫すればいいだけの、すばらしい二度目の人生なのである。
おかげさまで、生来の上手く他人と付き合えない引き籠り体質を存分に発揮して家に籠っていたら、案の定、今まで友達の一人もいたことのないボッチが出来上がった。
残念ながら今世でも、未だに友達の一人もいたことが無い。
それを残念に思う一方、まぁそれで困っていないからまぁいいや、とも思っているわけで、公式設定通り、数年前には大変美少年な従弟も養子として入って来て、アリストフォーゼ家の方も安泰になったし、リリも貴族の娘にありがちな政略結婚がどうのこうのという話を一切両親からされることもなくのびのびとさせてもらっていて、実に気楽な人生を謳歌している。
かくして新たな世界で十五年。今年リリは予定通り、貴族の子女子息が多く集う、このカレッジに入学したわけである。
「えーっと。確かゲームの公式HPでは、リリ……“ヒロイン”の肩書は、聖ドレス・ノワ・カレッジの二年生になっていたから……ゲームスタートは、来年ってことになるのよね」
もう随分と曖昧になった昔の記憶を頼りに、食堂で貰ってきた生ハムをふらふらと宙で彷徨わせながら呟いたら、「そうにゃー!」と、生ハムに向かって見事なダイブをかましたキリエが叫びがてらに食料を奪っていった。
今日も相変わらず、見事な身軽さである。
「で、HPでは『生徒会書記』ってことになってたんだけど……」
「公式設定にゃー」
うっかり語尾が猫語になりながら、ごろごろとじゃれつきながら大きな生ハムを幸せそうに食むこの猫さんは、これでいて“紳士”を自称しているのだから失笑する。
「生徒会、ねぇ……」
ハァ、と一つため息を吐いたのは、無理もない。
キリエが言うところの公式設定、つまりかつて日本で発売されようとしていたこの世界を舞台にした乙女ゲームでは、このカレッジの“生徒会”が舞台となる、恋愛シミュレーションゲームであるはずだった。
ゲームは、ヒロインが生徒会に入ることによって始まるのである。
とはいえ、今世の知識によると、カレッジの生徒会といえばただひたすら煌びやかなご身分の方々が勢ぞろいした異空間と同義であり、生徒会専用の寮や食堂、施設やイベントなんかも盛りだくさんな、全校生徒憧れの組織のことを指す。
そんなところに、十五歳になるまでのらりくらりほわほわと人生を楽しんで、貴族らしいお茶会や社交をほとんどしてこなかったリリが勧誘されるはずもなく、今なお、一体ゲームでは何をどうやってリリがそんなところに加入することになったのやら、皆目見当がついていない。
いや……可能性としては……一つ、考えつかないでもないけれど。
そうなる予定は今の所微塵もないし、微塵も想像がつかないのである。
「だから、エマを避けるのか? リリ」
ハムを綺麗に平らげて、ペロペロと手に着いた油を丹念になめとるキリエの鋭い突っ込みに、リリは顔色を濁してため息を吐く。
とりあえずそれ以上手をべたべたにしないように、濡らしたタオルで丁寧に手を拭いて差し上げると、苦しゅうないぞ、とでもいわんばかりに胸を張って任せてくれた。
この猫、紳士じゃなくて、本当は王子様か何かの間違いなんじゃないだろうか。
「エマちゃんはそりゃあ可愛いわよ。すっごくいい人だし」
「でもエマは、もうすぐ生徒会に入る」
そう。その通りなのだ――。
自分は、かつての公式HPのおかげで、エマの存在をずっと昔から知っていた。
エマと今世で知り合ったのは、多分七つとか八つくらいの頃の事だ。
彼女の実家であるウォールセン伯爵家は、代々外交関係の要職を担ってきた家柄であり、現当主も外交官として王宮につとめている。
そのため、外交関係上重要な立ち位置……有体に言えば、隣国アンブロシアの王室と近親関係にあるアリストフォーゼ家とも関わり合いがあって、エマも幼少期から何度も父伯爵と共にアリストフォーゼ家に来たことがあるのだ。
まぁ、伯爵が娘を連れてきたのは多分、一人で家に籠ってダラダラと過ごす娘を心配したリリの父だか母だかが取り計らって、同い年でもあり、交流のあるウォールセン伯爵家の次女を娘の友人とすべく、何度も招いたのだろうが、生憎と他者との関わり方を知らないリリは、上手に彼女と友人という関係を構築することはできないまま、今に至っている。
そんな希薄な関係ながら、部屋が隣だったからと挨拶に来てくれるくらいに、エマというのは心優しい子なのだが、如何せん、彼女は間違いなく、もう数ヶ月の内に生徒会に入る。
公式HPでも脇役扱いだったので、エマに関する説明文は非常に短かったけれど、その説明には確か、『姉のノマが生徒会役員であったことから、入学後間も無く生徒会入りする。コネによる抜擢であったことに引け目を感じている』とあった。
だから彼女の姉が生徒会役員であることを知っているし、もう間もなく隣の部屋からいなくなることも知っていて、それが自然と、リリに不審な顔をさせてしまったのだ。
今もまだ彼女は隣の部屋にいて。でもどうせすぐにいなくなる。
どうせすぐに、離れてしまう。
「難しいこと考えてないで、友達になって下さいっていえばいいんだ。エマはきっとそれを待ってると思うぞ」
「なによ、無責任ねぇ。社交辞令かもしれないじゃない」
「社交辞令から始まる友人だって、いてもいいにゃ」
「……でも……」
「生徒会に近付きたくないのか?」
そう。その通りなのだ。
二度目の人生、もう自分は充分に満足している。
乙女ゲームは好きだったけど、現実とゲームを混同なんてしていないし、むしろただでさえ難しい立場の家に生まれた以上、あまり変なことに関わってボロを出すのが怖い。
そんなことより、変わらずボッチで、のんびりと好きなことをして生きている方が性にもあっている。
「お父様もお母様もとっても素敵だし、お姉様も義弟も大好きよ。それでもう私は十分。ヒロインなんて柄じゃないの。あとはヴァイオリンさえあれば……」
そう言ったところで、ふと荷物として一緒に寮に届けられていたヴァイオリンケースを探した。
そういえばまだ見ていないけれど、ちゃんと届いているだろうか。
「ここだぞ」
そうペシペシと尻尾で叩いた木箱に、ほっとリリも顔をほころばせながら、蓋を開ける。
リリが知っているヴァイオリンよりちょっとこぶりな、子供用のサイズ。
さすがにこれではもう小さすぎるのだけれど、何しろこの楽器はお隣、アンブロシア王国から輸入されるとても高価なものなので、この国ではそう簡単には新調できないのだ。
その隣国に嫁いだ姉が、『今度またうちにいらっしゃい。その時にぴったりなのをあげるわ』と手紙を寄越してくれたのは去年のことで、この夏、姉を訪ねに旅行する予定だ。
だからこの子供サイズのヴァイオリンはもう家に置いてきても良かったのだけれど、やはりそこは元音楽家の性なのか、手元にないとどうにも落ち着かない。
もうプロになるわけでもないのだから、練習をさぼったところで誰に怒られるわけでもないけれど、やはり一日一回は触らないと気になってしまう。
そういえば、今日はまだ弾いていない。
「家にいた時は良かったけれど……学校だと、弾く場所が無くて困るわ」
「部屋でいいだろ」
「いやいや。近所迷惑でしょう。ここ、学生寮なんだから」
共同生活において、騒音被害は大問題だ。
音楽学校に通っていた凜々子には、身に染みてその手の話題には敏感である。
「寮内にも音楽室はあるらしいけれど」
流石に貴族が勢ぞろいするこの寮のサロンで堂々と楽器を奏でる自信も度胸も持ち合わせていない。
早いところ、存分に楽器を楽しめる隠れ場所を探すべきだろう。
「そうだわ、キリエ! 貴方、この学校にも詳しいのよね?」
「詳しいも何も、この世界はすべて僕のご主人様のものだからね」
「だったらそういう場所、知らない?」
興味が無いのだろうか、お腹が膨れて満足したのか、ふあぁぁと欠伸してごろごろと猫ベッドで丸くなろうとしているのを、慌てて揺さぶり起こす。
そうすればたちまち、恨めしそうな目がチラリと持ち上がった。
「どんなところがいいにゃ?」
「えーっと。人気が無くて、というか滅多に人なんて来なくて、周りに音が漏れる心配も無くて、でも音響がいいととっても嬉しいんだけど」
「注文が多い」
「ないかな?」
ふあぁぁ、と一度欠伸をしたキリエは、しばしふよふよと尻尾をうろつかせると、「あぁ、あるにゃ」と答えた。
「どこ?!」
「東の庭に手入れ用の温室があって、脇の小道をずっといったら、森の中に古い旧聖堂がある。学校案内にも載ってないし、学生も近づかないくらい辺鄙な場所で、でも聖堂だから音響もいいはず」
「教会! 素敵!」
この国の教会の多くは石造りで、備え付けられたパイプオルガンなんかを響かせるために、壁面をわざと粗く加工し、天井をアーチ状にして音響を整えた作りが為されている。
そんなところなら、きっととんでもなくいい音が出るに違いない。
「もっと具体的に場所教えて!」
「もう寝るにゃー」
何時だと思ってるんだにゃ、と丸まってしまったキリエを、今しばらく、キーリーエーと呼びながらゆすったけれど、生憎とちっとも起きてはくれなかった。
そうしている内に、寮は門限時間を過ぎてしまって、結局この日は一日、楽器を奏でる間もなく、慣れない枕ですやすやと眠りにつくことになった。