1-16 謎の署名
あの日、寮の一階で何があったのかを、リリは知らない。
送り届けてもらう間、いい加減にしてくださいと言いたいくらいベッタベタに距離の近いラウル卿の態度に冷や冷やしながら帰寮したおかげで、当初の事情説明がどうとかいう話も忘れて、早々「お勤めご苦労様でした!」と自室に逃げ戻ったからだ。
その後、寮の監督生を呼び寄せた二人は、衆目の中、生徒会長の目の前で悪質ないじめを行なった生徒がいたらしいこと。調べの結果、三人の容疑者の顔が浮き彫りとなったが、本人の希望により大事にはしないことになったこと。だがもしも今後もこうしたことが続くようであれば、自分達監督委員が乗り出すことになる……なんて言葉で皆を真っ青にさせたらしい。
翌日、自分で何とかすると言った以上、どうにかしないと、とチラリと見やった先で、いつもなら堂々と高笑いをしていらっしゃる三人組が、身を小さくしてビクビクとこちらを見ていたのに気が付いた時には、あれ、おかしいぞ、と思った。
声を掛けようとしても即逃げられるし、だったらと置手紙で呼び出そうとしたら無視され、それどころか怯えたように避けられるようになってしまった。
これじゃあどうにもできないのだが……と困惑していたところ、ようやくエマから上記の件が噂になっていると知らされて、ディーン達が呆気なく解決してしまったことを知ったのである。
いやはや……まさかそんなことになっていただなんて。
おかげさまで、益々周りからは距離を置かれている気がする。
いや、それでちっとも問題はないけれど。
それ以来、物が無くなることもなければ、誰かに影口を叩かれるということも無く、平穏な日常が戻ってきた。
ただ目下の悩み事といえば……この、ラウル卿にお借りしたタオルをどうやって返せばいいのか、ということ。
折角平穏になっているのに、自ら二年の教室を訪ねて行って人前で生徒会役員様に個人的に借りた物をお返しするだなんてイベントを起こそうものなら、二年のお姉さま方に睨まれるに違いない。それは絶対に駄目だ。
かといっていつまでも借りっぱなしというわけにもいかない。
ディーンやエマにお願いするのも一つの手なのだが、善意で借りた物を人づてになぁなぁに返すというのも不誠実な気がしないでもない。
最悪、そういう手を取ることも考えうるが、さてどうしたものか。
そう考え込んでいる内にも、調整に出していたヴァイオリンがついに手元に戻ってきたため、悩みも忘れて一目散に聖堂へ向かったのは、ちょうど七日ほどが過ぎた頃だった。
結局あのまま古い弓も奪われたままで、もうひと月以上もまともにヴァイオリンを弾いていない。
このフラストレーションは言葉に譬えようもないもので、きっとあれこれ考えては頭の中がごちゃごちゃとしてしまうのも、このストレスのせいに違いないのだ。
うむ。そう思うことにする。
残暑にばてているキリエを部屋に残して久しぶりに赴いた聖堂は、前期までと違って日の角度が変わったせいか、降り注ぐ光の量が減って落ち着いた趣になっており、これはこれでまたとても素敵だった。
観客がいないのは残念だけど、そんなことはどうでもいい。
手早く調律して、よし、と早速弓を弦に乗せたところで、これまでのあの小さなヴァイオリンとは桁外れに美しい最高の響きが聖堂中を反響し、リリの背中をゾクリとさせた。
なんていい調整だ。この国にもよく有っているし、とても良く響く。
アンブロシアでこのヴァイオリンを奏でた時は低音の響きの良さに心奪われたけれど、調整のおかげか、高音の伸びがとてもいい。
この音を堪能するために、まずは低音の和音が印象的な、ゆったりと単調なこの国の聖歌を奏でてみた。
技巧的にも簡単で、面白味のある旋律ではないけれど、音が良ければそれだけでうっとり出来そうな曲だ。
予想通り、つい主旋律を口ずさんでしまいそうなくらいに、良い音だった。
「いいわね、リリ。絶好調よ」
自分で自分にそう語りかけつつ、続けざまに、よくセットで奏でられる聖歌を続ける。
今度は高音を多用した、しかし短調仕立てのしっとりとした曲だ。
うむ。やはり高音も文句なしに良い。
「た~、らららりらり、ら~……」
口からついて出た主旋律に、気分が乗ってくる。
「ら~、りらりりるり、れ~ろっろ~れり……」
はて。そう言えばこの曲の歌詞ってなんだっただろうか?
いつも音ばかり聞いていてまともに歌の方を聞いていないから、うろ覚えだ。
「えーっと。聖なる山に光降りてー……神の使いはましませり?」
なんかそんな歌だったような。
今更だけど、神の使いってキリエのことなのだろうか。
だとしたらちょっとこの曲のイメージが変わる。
思わずそうクスと笑ったところで、「聖なる山には一番、神の使いはましませりは二番だ」なんて言葉がすぐ傍でしたものだから、ぴやぁっ! と情けない声を挙げて肩を跳ね上げた。
恐る恐る振り返ったならば、扉の方ではなく、ずらりと並んだベンチの一つに、むくりと体を起こしたユーシス殿下がいらっしゃり、もしかしなくても、リリが来る前からそこに寝ていたのではという様子に、みるみる顔は青ざめた。
リリの馬鹿め。何故気がつかなかった!
「ご、ごめんなさいっ。先客がいらっしゃったとは思わなくてっ」
すぐに出て行きます! と走り出そうとしたところで、「またケースを忘れて行く気か?」と言われ、思わず足が止まった。
いえいえ。当然ケースも弓も忘れるつもりなんて毛頭ないですが……。
だが生憎と、身を起こした王子様は、軽く頭をこきこき言わせると、あっというまに前のベンチに置かれていたケースを取り上げてしまった。
またしても質を取られた……。
くそっ。この鬼畜王子め。
「え、えーっと……ケースを……」
「続きは?」
「えー……っと」
「途中で止めるな。気になるだろう」
「……はい」
途中でやめたのは貴方のせいなんですが、と言いたいのをぐっと我慢して、クルリと背中を向けると、極力後ろを気にかけないように気を付けながら、再びヴァイオリンに弓を這わせた。
聖なる山は一番。ましませりは二番……。へぇ。じゃあ本来の歌詞って、どんなのだったのかしら?
何となくそんなことを気にかけながら、チラリ、と少しだけ振り返ってみたならば、王子様はまるで王子様みたいに深くベンチに腰かけて(おかしなことを言っているという自覚はある)、瞼を降ろして聞き入っていらっしゃった。
はて。何やら随分とお疲れの顔色をしていらっしゃるような。
気のせいだろうか?
ついつい音のトーンを落としてしっとりと優しい音色に変えながら、最後の三番は一オクターブ下げて低音で奏でた。
こうすると哀愁がたっぷりになって、癒し、というのとはちょっと違うけど、随分と落ち着く。
でも流石に暗すぎるから、転調してみようか。
うん、良い調子だ。こっちの方がいい、と顔をほころばせていたら、いつの間にか開いていたユーシスの視線とバッチリと視線が絡んでしまい、思わず弓を止めてしまった。
あぁ……いかん。あとちょっとだったのに。また止めてしまった。
再び苦言の一つや二つ、飛び出してくるのでは、なんて怯えたのだけれど。
「今の曲調はいいな。まったく違う曲にも聞こえるし、だが歌詞にはよくあっていて、趣旨に逸脱はしていない」
「……そう……なんですか?」
残念ながら、歌詞はうろ覚えである。
でも具体的な感想をいただくのはそういえばとっても久しぶりで、何だか少しだけ、頬が緩んでしまった。
キリエは尻尾でしか反応してくれないし、スオウなんてもうすっかり聞き慣れて、笑顔でしか答えてくれない。やっぱりたまには、具体的な言葉が聞きたくなるという物だ。
「あ。じゃあこれは……」
そう再び弓を構えると、最初に引いていた方の曲を短調に変えて奏でてみる。
思わずクスクスっと笑ってしまいそうなくらい暗くなった曲調に、流石にこれは無いか、と思っていたのだが、思いの外王子様は黙って最後まで聞いてくれた。
「流石に無かったですかね」
「別の曲としては悪くない。君の低音はとても綺麗だ」
ぶわわ、と思わず頬に上った血の気に、慌てて背を向けて、適当な曲を奏でる。
ま、まったく……なんて心臓に悪い人なんだ。
褒めたり貶したり脅したり。ちっとも分からない。
「だが通りで。いつまでたっても弓を取り返しに来ないなと思っていたが、いつの間にやらフルサイズのヴァイオリンを手に入れていたとはな。来ないはずだ」
「うっ……」
背中を向けたまま、思わずビクリと肩を揺らす。
おかげさまで、音が一瞬跳ねてしまった。
「さしずめ先だっての公務の際に手に入れて来たのだろうが……さて。どうしたものか」
トン、トン、トン、とベンチの背を叩く指先の音に、いささか曲が緊張をはらんで行く。
「何か弁明があるようなら聞くが? レディ・キリエ」
「わ、私っ、もう謝罪は致しましたよねッ!?」
ついに痺れを切らしてギュンと振り返ったところで、その冷ややかな視線に射抜かれ、たちまち口を噤まされた。
く、くそうっ。王子様ってのはもっとこう、優しくて温厚で、ザ・王子様って感じの性格じゃないのか?! これじゃあ、大魔王様だ。
公式HPにあったキラキラ素敵スチルの微笑みは何処へ行った?!
「謝罪? 何に対する?」
う、ぅぅぅぅうんっ。ですよねっ。逃げ出した謝罪しかまだしてませんでしたよねッ。
「……あ、いや、その……お手紙の件でしたら、その……何というか」
うん、駄目だ。まったく言い逃れる余地が無い。
「…………ごめんなさい」
結局のところ、これしかないのだ。
そう項垂れるように頭を下げたところで、ハァァ、という深いため息が返ってきた。
あぁ、最悪だ。よりにもよってこんな人気のないところでこの人に出会ってしまうだなんて。
というか、もしかしなくてもこの場所って、この人が贔屓にしている場所なんじゃ?
キリエめ……分かっていてここにリリを誘導したんじゃないだろうな(近くまで連れてきたのはスオウだけど)。
「まぁいい……あの件については、仲介したスオウにも責がある。君のことを、キリエと呼んだのも、そもそもはアイツだ」
「えー……」
あんただったのか、スオウ様……。
「だがそうだな。謝罪する気があるというのであれば……」
がさっ、とベンチに置いていたらしい幾つかの書類に目を落としたユーシスは、その内の幾つかを捲ると、律儀にその上部をノートに挟んで隠しながら、ズイとリリに突き出してきた。
「何も言わず、ここにサインをしろ」
「……」
おい、何だよこれ。無茶苦茶こえーんですけど。
「……えーっと」
「あぁ、筆記具がいるな」
そうがさごそ今度はペンを取り出す王子様に、「いや、そうじゃなくて」とすかさず制する。
「で、殿下……とても重要な箇所が隠されている気がするのですが。一体これは、何の書類なのでしょうか……」
「知ったところで、逆らえないことは分かっているのか?」
おいちくしょうっ、何だこの人っ。全然高圧的な声色じゃないから騙されそうになるが、間違いなくすごいことを口にしているぞ。
まじでなんだ、この書類! 怖すぎる!
「ち、ちなみにっ、これは一度きりでどうにかなる類のものに関する書類でしょうかっ。それとも、一度サインしてしまえば永続的に何かに拘束されねばならない類の書類でしょうか!?」
「ふむ……中々にして……見た目に寄らず、鋭い質問の仕方をするな」
「ど、どうも……」
見た目に寄らず、のあたりが非常に不本意だ。
「安心していい。一度きりの事に関する類のものだ」
うむ、なるほど……じゃあ、生徒会加入のサインとかじゃないということだ。
一体何のサインなのか非常に恐ろしいのだが……でも一度きりなら。この何か一度で、これまでの罪が清算されるなら……。
「こ、これにサインしたら……過去のご無礼は忘れていただける、ということで……」
「まぁ、出来次第だな」
「……」
なんだそれ。出来? 出来不出来が関係あるものなのか!? 余計怖いわ。
「繰り返すが、内容を聞いたところで君に断る権利はない。アリストフォーゼ辺境伯嬢」
はい、ですよねッ、王太子殿下さま!
はぁぁぁ、と深い深いため息を溢しながら、恐る恐るとヴァイオリンを置いて、差し出された筆記具を受け取る。
何だろう、この書類。本当の本当に、何だろう。
どうかこのせいで大変なことに巻き込まれたり致しませんようにと、切に願いながら。
取りあえずベンチの背に書類を乗せて、かきかき、とゆっくりとサインを綴る。
あぁ……今更だけど。処刑とか処罰とかのサインだったらどうしよう……。それなら確かに一度きりだし。いや、でも出来不出来は関係ないはずだし。要するにこれって……。
「書けました……。あの。で、一体これは何の……」
「再来月。学芸祭のエントリーシートだ」
「…………」
ん? ん、ん?
「……は?」
がくげーさい? ってあれ? 幼稚園とか小学校で、小児達が可愛い恰好で演劇やったりお歌を歌ったりする。って、それは学芸会か。
じゃあこのお貴族様の学校でいう、学芸祭って一体……?
「心配せずとも、全学生強制参加のただのイベントだ。詳細はまた追って知らせる」
「……は、はぁ」
全学生強制参加? なのに何でエントリーシートが必要で、サインが必要なの?
そう首を傾げつつ、思わずツツ、と書類を引っ張ってみたところで、自分が綴ったサインの上にもう一つ。誰かのサインが有るのが見えた気がして。
え。え、えっ、と、さらに引っ張ろうとしたところで、スッとさりげなくユーシスに回収されてしまった。
あのう、王子様? なんかさ。
見てはいけないものが見えた気が……するの、ですが。
「……あのう……」
なんか名前、一つじゃなくて、上にもう一つ。
やたらと長い、煌びやかなお名前が見えた気がするのですが。
「……殿、下?」
「せいぜい、覚悟しておくんだな」
そうツイ、とわずかに持ち上がった口端に。
あぁ、なるほど。あのサンプルスチル……完全に勘違いだったわ、と理解した。
あのお煌びやかな微笑みのシチュエーションは、とっても甘く優しい王子様の微笑みなんかではなく、きっとこういう類の……『逃げたら貴様、覚悟しておけよ』的なやつだったらしい。
何か知らないけど。
ヤバいことに巻き込まれた、らしい……。
「ッッ。で、殿下ッ。やっぱり、ま、待ったっ! 待った、ということでっ!」
「私は一度受け取った物を棄却することはない」
「い、いやいやいやっ。もう一度。もう一度考え直すチャンスをッ」
「精々、腕を磨いておくことだ」
クルリと背を向けて去ってゆくその人に、「いやいやいや!」と慌てて追いかけたのだけれど、扉を出て行った王子様の、クスリという微笑みと共にバタンと閉められた扉が、「たはっっ」と、思い切りリリのおでこを直撃した。
く、くそうっっ。
「っ、っの、きちくおーじー!」
口をついて出た情けない叫び声に。
くすくす、くすくすと。
何だかその人が、笑っている気がした。
『おでこのお詫びだ』と言って、来週の大茶会の招待状が届いたのはその翌日の事で。
生徒会主催のお茶会だなんて御免だ、とゴミ箱に投げ捨てようとしたら、『なお、欠席は不敬罪と見なす』という注意書きが目に入ってしまい、見事に床に膝をついて撃沈したのは、その直後の事だった。
キリエさん。ねぇ、そこで呑気に欠伸をしているキリエさんや。
なんかもしかしなくてもこれ……へんなルートに、突入していませんか? とか。
助言係なら助言係らしく、とりあえず早急に説明をしていただきたい。




