5-31 終幕
夢を見た。
つやつやとニスの塗られた堅い舞台に、高い天井、熱いくらいの煌々とした照明に、ダンダンと床を踏みしめ歓迎の合唱をおりなすオーケストラ。
洗練された高度な文明によって築かれた反響板が、ゆっくりと吐き出す呼吸を震わせ、会場の緊張感を高めてゆく。
指揮台でに立ったパパがタクトを振ると、昔懐かしい、愛おしいチャイコフスキーの音色が飛び込んできた。
あぁ。なんて美しい音楽だろう。
一際甲高いB#。
最高に緊張感の高まる一二六小節目。
最高潮のオケを導くように弓を跳ね上げた瞬間の高揚感に、思わずぎゅっとこぶしを握りしめる。
そのこぶしを包み込んだ大きな掌に、はっとして傍らを仰ぎ見たら、どこか呆れたような顔をした彼に、ぽぽと頬が染まった。
掴まれた手の甲の指間に、指が絡む。
堅く握っていたはずの手が、柔らかく解きほぐされてゆく。
うっとりとしたカデンツァに意識が奪わるころには、心は優しく凪いでいた。
第一、第二ヴァイオリン。ヴィオラ。チェロにコントラバス。美しい弦の旋律を抒情的に彩るフルートと、優しい音色のオーボエ。クラリネットにファゴット……いや。音色がとても軽い。これは……リコーダー? だろうか?
音楽性を高めるホルンやトランペットの金管音は聞こえてこない。かわりに音の調整も音域もないボロボロのラッパ音がして、びっくりして顔を向けてみれば、いつぞやのニール楽団のお兄さんが混じっていた。
燕尾服の中に、ひとり粗末な下町のコート姿だ。とっても目立つ。
音色を引き締めるドンとした響きは、肺まで震わせるティンパニー……ではなく、いつぞやの超絶技巧の老人が奏でる木箱の音色だ。もう少しましなものは無かったのだろうか?
華やかで憂えに満ちたカンツォネッタ。じわじわと主題を待ち構えるアレグロ・ヴィヴァチッシモ。小刻みな音色と華やかで軽快なロンド。
とっても素敵な楽譜なのに、ちっとも完成されていない可愛らしいソナタ。
ちぐはぐな音色を、なのに楽しそうに指揮するパパが、チラリと笑みを浮かべてこちらを見た。
瞬間、ポン、と苦笑交じりに背中を叩いた感触に、はっとして隣を見れば、ママがいた。
不思議だ。二人が、笑っている。
『リリ。楽しいか?』
ママとは逆の隣で、手を握る彼が問う。
リリの居場所はもう、あそこじゃなくて。
でも全然完成されていない、なのに賑やかな舞台の音色が、心地よい。
『私は……』
私は……。
一体、なんて答えたのだろうか?
良く覚えていない。
ただそこで、目が覚めた。
◇◇◇
「……何の夢、見てたんだっけ?」
「リリ?」
薄明りの中にぼんやりと浮かんだ人影に、ぼうっと夢うつつだった意識が降りてくる。
あぁ、そうだ。私、寝てて。何か夢を見てて。
「ひうっ」
途端、ベッドの傍らまでやってきた“旦那様”のみだらな姿に、自分のあられもない恰好を思い出し、シーツの中に飛び込んだ。
「今更隠れても遅いと思うぞ」
「……っ」
コツン、と頭に当たった冷たい感触に、恐る恐ると手を伸ばす。
お水……いや、メットェリアの茶葉で煮出した冷たいお茶だ。先日、領地の方から戻ってきたばかりのゼノ台下が持ってきてくれたお土産である。
喉は……わけあって非常に乾いていたので、有難く寝転がったまま口にする。しようとしたんだけど、案の定、カップを傾け損なってこぼれてしまった。
「わっ。わわっ」
「君はいつまでたっても無精者だな」
でもそう言いながら、呆れたようにこぼれた口元を拭ってくれることを知っているから、無精が治らないのである。旦那様のせいなのである。
えーっと、それで。何だっけ? 何の夢、見てたんだっけ?
「まだぼうっとしているな」
「……何か……幸せな夢を、見てた気がします」
「……」
チラリ、とその視線が、カップを掴むリリの腕を見ている気がして、肩をすくめた。
この腕を怪我して一年と少し。アリアがいつも差し入れてくれるメットェリアのお茶のおかげで随分と良くなったけれど、もう一年以上もヴァイオリンを弾いていない。
時折どうしようもなく胸が痛くなることがあったけれど、それでも何とか生きている。
後悔なんてせずに、生きている。
「何だかもっと……ふわふわした。優しい夢だった気がします」
思う存分に、好き勝手に、満足いくまで音楽を奏でた日々は楽しかった。
今でも王宮の舞踏会場に立つたびに、観衆の前で独奏したパガニーニを思い出す。
庭園でお茶会をすると、薄布の向こうの宮廷楽士達の姿を目が追ってしまう。
でもそれはもう、過去の夢だ。
一度失いかけた物を取り戻さんと、がむしゃらに、火傷しそうなほどに熱い熱を必死に爆発させていたような……そんな日々。
でも今の気持ちは、そうではなくて。もっと柔らかくて、ほのかに温かい……。
「家族の……夢、かな?」
パパと、ママの? いいえ……それとも……“旦那様”の?
「この状況でその発言は……子供でもせがんでいるのか?」
「ひうっっ?!」
にや、とからかうように笑う彼は、リリが困れば困るほどに追い詰めてくるのだ。知っている。知っているけれど、思わず逃げ出してしまうのは、もはや反射神経である。
「折角目が覚めたようだからな。リリ、選ばせてやる。書類の整理がいいか? それとも家族計画を促進するか?」
「夜も明けきらない内からいの一番に書類整理が選択肢に上がるって、どういう神経ですかッ?!」
「昨日はリリのせいで、放置したままベッドになだれ込んだからな」
「私じゃなくてユーシスさまのせいでは?!」
とかごちゃごちゃ言っている内にも、あっけなくカップが没収されて、再びシーツにうずもれてしまった。
まぁ、書類仕事よりはいいんだけど……。
◇◇◇
えーっと。
お久しぶり、パパ、ママ。元気にしてるかな?
リリ、こと沫海凜々子は、このたびとある猫に導かれてやってきたとある異世界のとある王国のとある王子様と、結婚をいたしました。
生憎とヴァイオリンは弾いていません。というか、弾けなくなってしまいました。
でもママを見習って、沢山の音楽家を育てて、それに沢山家族を作って……ちゃんと楽しく過ごすつもりですから。
どうぞ安心して。喜んで、お嫁に出してちょうだいね。
ちょっと我儘かもしれないけれど。宜しくね。
親愛なるパパ、ママ。
私を生んでくれてありがとう。
二人の傍で、ちゃんと生きてあげることが出来なくてごめんなさい。
でも二人の娘は、こうしてちゃんと……ちゃんと、生きています。
ちゃんと、生きててよかったって、感謝をしています。
だからどうか、安心してね――。
さようなら。おやすみなさい、凜々子――。
リリはここで。最愛の人の傍で、生きていきます。
◇◇◇
「ユーシスさま。書類の山はあとで何とかしますから。全部無事に片付いたら、ご褒美にピアノを弾いてください」
「何がいい?」
「そうですねー……」
楽譜は書いた。沢山書いた。
だからバッハでもショパンでもモーツァルトでもいいんだけど。
でも。
でもやっぱり……。
「キレーネ讃歌がいいです」
夕暮れ時の生徒会室で見たあの日のように。
あの音色でまどろみたい。
貴方の音を頼りに。
この世界に、まどろみたい――。
第五章 完




