1-12 風のまにまに
新学期が始まって、今度は堂々とキリエを連れて学校に戻ったのは火月の最終日の事であった。
授業開始は五日から。四日には生徒自治大会という名の、生徒会主催の総会があったけれど、出席したところで別段学園側に要望があるわけでもないので、当然さぼった。
新しいヴァイオリンは生憎とこちらの気候や風土にあわせてメンテナンスをしてもらっているところで、まだ手元にはない。
だったら尚更、一応まだ手元に持っているこの小さなヴァイオリンで暇をつぶしていたかったのだけれど、残念ながら、そのための弓がまだ返って来ていなかった。
スオウは手ぬかりなくユーシスに掛け合ってくれているであろうし、今は生徒総会だなんだでスオウも忙しいはずだから、せっつくのも悪い。
仕方がないから裏庭の木陰で段々と涼しくなる季節の風を楽しみつつ、頭の中にだけ残っている前世に存在した名曲を忘れないようにと譜起こしする作業を行なった。
良く弾く曲やソロ曲なんかは結構すぐに出来たのだが、やはり音源も何も無く記憶だけが頼りというのは心もとないもので、協奏曲だなんてものは流石に至難の業だった。
それでも暇さえあれば、ついついこの長年書いているスコアを持ちだしてしまう。
前世の父が指揮者だったのでフルスコアは慣れ親しんでいたし、学校ではリーディングの勉強もした。同学年に比べればコンチェルトの経験も豊富な方ではあったが、流石に全二十パート以上一音違わず譜に起こそうだなんて、不可能に近い。いや、絶対に無理だ。
ひとまず弦以外のパート分けは捨て置いて、分かる限り起こしてはみているのだが、もう何年も完成を見ることは無く、きっと永遠に完成しないのではとさえ思っている。
大体、完成したところで楽器の種類も足りないこの世界では二度と演奏されることも無い曲だ。
それでも止めることのできないのは、それがきっとリリにとって、大きな心残りだから。
「たーらー、たららららー、たーらーんふふふふー……んふふーっと。やっぱりここの厚みは管楽器が入ってるわよね。ホルンが多分パート分けして……。で、たったったったー、ふっふーん……うーん、何となぁく、もうちょっと別の方から高いのきてた気がする。クラリネットに。あと何か足りない。えーっと……」
頭で考えてもいいけど、やっぱり譜おこしにはピアノが良いだろうか。聖堂に行こうかな、なんて思ったところで、突如吹き付けた下から巻き上げるような強い風が、バサバサと譜面を机の上から飛び去らせた。
それを、「あっ!」と慌てて手を伸ばして追いかける。
「もうっ。風月って、とっても気持ちいのに、風が強くて困っちゃう」
あわあわと楽譜を追いかけては一枚、また一枚。
なんとか二十枚目まで回収したところで、あと一枚が木の上に飛んで行ってしまって、手が届かない。
うーん、うーんっ、と懸命に手を伸ばして。
いや、もうこれ、木登りするしかないな。うん。木登りだわ、と、無駄におしゃれなフリルの縫い付けられた長い裾の制服を見下ろしたところで、クスクス、クスクス、と笑い声なんて聞こえてきたから、はたと振り返った。
「あら。スオウ様」
「リリ。先に言っておくけど、木登りなんて危ないことをしたら駄目だよ?」
「うッ……」
流石幼馴染……ばれている。
「ディーン、お願いできるかな?」
スオウがそう頼ったのは、彼の後ろに着いて来ていた青年で、うんと短く切った前髪と軽くはねたシナモンの色の髪に、温厚そうな面差しが、リリに「ん?」と首を傾げさせた。
はて。誰だったか。
知り合いの多くない自分であるが、なんだかこの人は見覚えがある気がする。
「構いませんよ。リリ嬢。飛んで行った楽譜はあとあれだけですか?」
そう自然と声を掛けられてビックリと肩を跳ね上げながら、「は、はいっ!」と思わず声をひっくり返らせた。
見慣れたこの学校の制服の、けれどそういえば腰には剣を携えていて、その珍しい出で立ちにも首を傾げてしまう。
はて。武芸科の学生なら制服が違うはずであるし、でも学生が刃物を持ち歩いているだなんて、この警備厳重な学校ではおかしな話であるし。
それに一体、どこで見かけたのだったか。
そう首を傾げていたら、「彼が誰だったか、思い出せない?」とスオウに問われてしまって、はわわっ、と頬を赤くして身をすくめた。
木に手をかけていたディーンも一瞬振り返ってリリを窺うと、すぐにクスリと笑いながら、軽々と気に足をかけて飛び乗ってゆく。
なんて身軽なのかしら。
「ご、ごめんなさいっ。でも見覚えはあるの! えっと……何処でだろう? どこかで、絶対に……」
「うんうん。それだけ覚えているだなんて、君にしては充分だ」
「もうっ! 馬鹿にしてるでしょう、スオウ様!」
「いやいや。感心してるよ。心から」
そうクスクス笑うスオウの言葉に頬を膨らませている内に、ザサッと小枝から飛び降りたディーンさんとやらが、ぱっぱと楽譜の皺を伸ばしてから、「取れましたよ」と差し出してくれた。
あぁ、なんて優しい。
「有難うございました。えっと……」
「ディーン・ステファン・テオドロスと申します。アリストフォーゼ嬢」
「ご、ごめんなさいっ。失礼な態度になってしまって。えっと、テオドロス様……」
やはりどこかで聞いたことがある気がするのだが、思い出せない。
あぁもう。こういう時に、自分の無勉強っぷりを後悔する。
でも覚えていないものは仕方がないので、お手上げです、とばかりに隣で肩を揺らして笑っているスオウを見やった。
「セリアお祖母様の所に行く私の護衛がてらに、何度かついて来てくれたことがあるんだよ。あの時はちゃんと紹介していなかったから、大丈夫。“セーフ”だよ」
「あっ。思い出した!」
途端にピンときた。
スオウはセーフと言ってくれたけれど、たしか一度、『彼はディーンだよ』と紹介された気がする。
「近衛のお家柄の。えっと、騎士長様の、ご縁戚? だったかしら?」
「ええ。グレッフェン騎士長は父の従兄です。あとちなみに、リリ嬢とはクラスメイトですよ」
そうクスクスと笑われて、リリは益々ぶわっと頬を染め上げた。
恥ずかしい……入学してもう半年にもなろうというのに、まさかクラスメイトの顔さえ覚えていなかっただなんて。
いくらなんでも自分、駄目過ぎるだろう。
「重ね重ね、ごめんなさいっ、ディーン卿。あの、改めまして。楽譜を取っていただいて有難うございます」
そう丁寧に一礼をして、差し出された楽譜を受け取った。
今更だけれど、その腰の剣は、なるほど。近衛の家柄の一部子息に許された特権というやつなのかと納得する。
多分彼も、生徒会の一員。学生であると同時に、在学中の王子様方の護衛を担っているのだろう。
ちょっと記憶が曖昧だが、もしかしたら公式HPにもいたかもしれない。
「昔から楽器が堪能でいらっしゃいましたが、もしかして作曲もなさるのですか?」
「えっ?!」
堪能って、何で知って、と思ったけれど、あぁそういえば、セリアのところに着いて来ていたと言ったか。あそこでは毎度のように楽器を演奏していたから、知っていてもおかしくはない。
「いいえ。これはただ元々ある音楽を忘れないように、書き留めておこうと思って」
「リリは昔から、私達の知らない曲を沢山知っているよね。すべて、キリエンヌの古曲なのかな?」
「え? どうしてキリエンヌ?」
はて、驚いた。それはたしか、先だってアンブロシアで前楽士長様が教えてくれた楽曲の生まれた地方の名前ではなかっただろうか。それが、どうしてスオウの口からピンポイントについて出てきたのやら。
「え? どうしてって……」
首を傾げたリリに、だがスオウはさらに首を傾げて、何やら考え込む。
考えて。考えて。それから、「あ」とおもむろに声を漏らすと、漫画みたいに、手のひらを拳で打った。
「リリ。まさかと思うけれど、君はもしかして、“自分の実家”のことさえ、よく知らない?」
「へっ」
いやいや。何かとんでもないことを言われた気がするぞ。
自分の実家? 流石にそのくらい知っているとも。
アリストフォーゼ辺境伯家――。
ド田舎すぎるせいなのか、辺境伯だなんて変な爵位で呼ばれている、他よりちょっと広い国境沿いの領地を預かっているらしい家柄で、父は特に王宮内での職についているわけではないけど、何故か公務とやらがいろいろあって、何故かアンブロシアと交友が深くって、何故か外交的に重要な位置付けがどうとか言われていて……何故か……何故か……。
「っ。あ、あーっ、あの。スオウ様……? ちなみに、その“知らない”って、うちは辺境伯家なんて変な爵位の、辺鄙なところに土地を持つ家柄です、というレベルの知識では足りないという意味……ですか?」
視線を誤魔化しつつ答えた瞬間、ふはっ! と思い切り噴出したスオウが、すっかりとお腹をよじって笑い声をあげだした。
これには傍らで、ディーンまでも頬をカリリと掻いていた。
うぅぅむ……大変腑に落ちないが、何とも口を挟みがたい。
でもなんかこの感じ。もしかして。いや、もしかしなくても。
「……キリエンヌ地方って、もしかして、うちの領地がある辺りのことなんですか?」
うぅ……道理で。キリエンヌの古曲を教えてくれた楽士長が、変な顔をしていたはずだ。
キリエンヌ出身の人に、外国の人がキリエンヌの古曲を教えるんだから。そりゃあ変だろう。変に決まっている。
「っ、ははっ。リリ。君ときたら。本当に知らなかったんだね」
「やっぱり……」
「ちなみにリリは、キリエンヌが元々どういう土地だったのかも知らないんだろうね?」
「どういう? 地方名でしょう? えーっと。アリストフォーゼ領は王国の北東部の高地だから。あの辺りの山とか丘とかが多い地方をそういうのかしら? あと、なんだか世界で一番古い聖堂とか何とかがあって、神聖な土地なんですよね? そのくらいはちゃんと知ってますよ?」
「うんうん。そうだねぇ」
含みのある物言いはなんだか明らかに何かを隠されているようで、「ちょっとっ」と頬を膨らませた。
一体何なのだ。
「ディーン。キリエンヌの歴史は一年の内に習うんじゃなかった?」
「ええ。でも範囲的には後期なので、まだやっていません。まぁ、習わなくても、普通に有名な話だと思いますが」
「だよねぇ。お伽噺とか絵本とか。結構、キリエンヌを題材にしたものって、この国にはあると思うんだけど。リリは小さな頃から、本よりも音楽だったからね」
「もう覚えましたーっ。私、キリエンヌ地方出身の……いや、でも育ちは王都だもの!」
「うんうん。そうだねー。仕方ないよねー」
「もうっ。スオウ様、すっごい棒読み!」
馬鹿にされてることくらいわかりますからね、と頬を膨らませて背を向けたところで、「ごめんごめん。あんまり可愛いから」と肩を掴んで、スオウがリリを引き止めた。
いいえ。許してなんてあげないんですから。
「あぁ、そうだ。母上からいただいた、バラの花びらの砂糖漬けの菓子があるんだ。それを分けてあげるから」
「甘いお菓子で釣ろうだなんてっ」
一体私を幾つだと思っているんです? と言いかけて、むっ、とリリも口を噤んでしまった。
スオウの母、つまりこのドレッセン国王陛下の妹君にあたるアデリア王女は、大変に物の趣味が良いことで有名な方であり、リリもよくスオウから、アデリアが自ら作ったという物や何やらを頂いてきた。
中でもバラの花びらやスミレの花なんかでアデリアが作る菓子は、凝ったガラス瓶に色とりどりの鮮やかな花びらと芳しい一杯の香り。それにキラキラと大きな砂糖粒が輝いて、とんでもなく美しいのだ。
それにときめかない女の子はいない……。
「おや。釣れたかな?」
「釣れっ……つれ……」
「うん?」
「……仕方がないから、ご機嫌取りに付き合って差し上げます」
「リリは本当に可愛いね」
クスクス笑うスオウに、ムゥ、と今一度頬を膨らませた。
なんだか完全に手駒にとられている感が半端じゃないのだが。
とはいえ、書き掛けの楽譜をトントンとまとめたところで、さりげなくインクの蓋を閉めたりと手を貸してくれる紳士っぷりは相変わらずで、文句なんて挟めようはずもなかった。
それで、なんだかんだと気が付いたら呑気に座ってお茶なんてしていて、ついでにお土産にアデリア王女のお手製のお菓子も頂いてしまって。
すっかり日が傾く頃合いになって慌てて席を立ったところで、スオウとディーンに寮まで送り届けてまで貰ってしまった。
至れり尽くせりだ。
でもそんなの、セリアおばあさまのところで過ごしていた頃のことを思えばごく普通の事であって、別に何らおかしなことでもなくて。
リリにとってみれば、ただ親戚のお兄様と世間話のついでにお茶をいただいた程度の話。
でもそれが、甘かった。
そもそもこの半年、学内でも大きな事件に遭遇すること無く、日々平穏無事に過ぎ去ってくれていたものだから、油断もしていた。
だから、気が付けなかったのだ。
学園という閉ざされた世界の、限りある校内の、裏庭とはいえ人目もあるような場所で、注目の的である人達と私的なお茶会をしていたという事実に。
それを見ていた人達がいて。
その日一日の内に、『スオウ殿下やディーン様とお茶をしていた身の程知らず』の噂が、女子生徒達の間に出回るだなんて。
えぇ、えぇ、ちっとも。
ちっとも、考えつかなかったのだ。




