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黒猫と私


 車に()かれそうになった黒猫を助けて命を落とす、だなんてベタな事故死をした時、その少女はとあるコンサートホールへと向かっている途中だった――。


 五線譜柄のバッグに楽譜とスマホと財布と少しばかりの身の回りの品と。それから今日この日発売されるとあるゲームの予約引換伝票と、肩には立派なヴァイオリンケース。

 おすまし顔で前を歩く黒猫さんが可愛くて、急いでいるのも忘れてニコニコとその後ろをついて歩いていたら、突如として車が歩道に突っ込んできた。

 それを見た瞬間、何もかも忘れて、ただびっくりして硬直している黒猫さんに飛びついていた。

 飛びついてすぐに思ったのが、『あ。ヴァイオリンは壊さないようにしないと!』だったことについては、自分で自分がいささか情けない。


 次に気が付いた時、自分は病院のベッドの上に沈んでいた。

 嫌でもわかる弱い心拍音と、どこかでわめいている母の声と。

 それから麻酔のせいなのか、ちっとも動かない体で、ぼうっと天井を見上げていたら、突如、目の前にあのキュートな黒猫さんのドアップが覗きこんだ。

 集中治療室に動物なんているはずがないのに、何故かその時はちっともおかしいだなんて思わなくって、「無事だったのね、黒猫さん」だなんて呑気に考えていたんだと思う。

 そう。

 その黒猫が、“喋り出す”までは。



「まったく。君はそそっかしいね、レディ」

「えー。あー、すごい。私、頭打ったのかな?」

 麻酔のかかった体と呼吸器の付けられた状態ではきっと大して声なんて出ていなかっただろうが、黒猫さんは長い尻尾でペシペシと枕を叩きながら、「頭も打ったけど、君の意識は正常だよ、レディ」と言葉を続けた。

「僕はキリエ。とあるゲームの販売促進と普及と広報のために今日こっちに出張してきたばかりの、神様の御使(みつかい)さ」

「えーっと……」

 頭がボーっとしているんだろうか。

 よく言っている意味が分からないが、取りあえず。

「うん、キリエちゃんね」

「僕は紳士だよ! 間違ってもらっちゃ困る、レディ!」

 ベシベシとシッポが今度は頬を殴る。

 まぁ正直、もふもふで気持ちがいいだけだ。

「おっと。こんなことを話している暇はないんだった。キミ。えーっと、名前は?」

「名前?」

 猫に名前を聞かれるだなんて初めてだ。

沫海(あわみ)凜々子(りりこ)。皆、リリって呼ぶから、キリエちゃ……キリエも、リリって呼んでね」

 そのもっふもふのすべらかな背中を是非なでなでしたい。

 でもどんなに頑張っても腕が持ち上がっている実感も気配も無くて、散々踏ん張ったあげく、ため息を吐いて諦めた。

「キリエ。私の腕、ちゃんと動いてる?」

 実感はないけど、ちゃんと無事だろうか。

 腕は。肩は。それに指は?

「まだちゃんと……ヴァイオリン、弾ける?」

 音楽は、リリにとって唯一の生きている証のようなものだった。

 音楽一家の一人娘に生まれた自分は、些細な怪我で引退した元ピアニストの母のいささか神経質な性質のせいで、とにかく手を使うような一般作業も運動もさせてもらえず、ただひたすら音楽の為だけに生き、生かされてきた。

 料理は勿論、学校の体育の授業もほとんど見学で、お湯を沸かしたこともないどころかブランコにだって乗ったこともない。

 良くも悪くも全部音楽の為の人生で、そしてついさっきも、今日発売のゲームという唯一の楽しみを母に認めてもらうために、特に興味も無いコンクールに出場するはずだった。

 今日のファイナルで優勝すれば、秋からは海外留学だ。

 それは少しだけ楽しみだったのだけれど……。

 この怪我じゃあ、無理かもしれない。

「やだなぁ……はやく治さないと」

 音楽以外何もできない自分が、もしこれで音楽さえできなくなったら、もう将来真っ暗だ。

 それは嫌だ。

 だから、どうかな? と再び問うたところで、じぃっとこちらを見る綺麗な金色のキリエの瞳に、ふと口を噤んだ。

 あぁ、なんだかこれ。

 とっても、嫌な予感がする。

「君が持っていたのは、ヴァイオリンケースだね」

「私、将来有望なヴァイオリニストなの。これでも結構、有名人なのよ」

 まぁそれは実力のせいというより、両親が有名なせいなのだけれど。

「だから早く、復帰しないと……」

「君にとってそれは、大事なものなんだね?」

「音楽くらいしか能がないし、それ以外のことなんて何もできないし。なのに音楽の才能さえなくなったら、もうパパとママの子でいられなくなっちゃう。十七歳で落伍者のレッテルをはられて世間に放り出されるのは、なかなかに辛いものがあるよ」

 ハァ、とため息を吐いたところで、チラリとキリエの眼差しが一度、どこか遠くを見つめた。

 それから急に立ち上がったかと思うと、ペロリ、と頬を舐められたから驚いた。

 はて。何だろう。自称“紳士”にキスされるだなんて、何事だろう。

 そう首を傾げてみたところで、ようやく、自分が泣いていることに気が付いた。

 あぁ。どうやら自分にとって音楽は、思った以上に手放したくないものだったらしい。

 もう二度と演奏できないのであれば……このまま死んだ方がマシだと思えるくらいに。


「レディ・リリコ。君は僕のせいで、怪我をした。いや、僕はちっとも怪我なんてする予定はなかったから、君は怪我のし損ないなんだけど」

「え、えぇー……」

 そうなのかぁ、と、落ち込む。

「でも僕のご主人様は、君にとっても感謝をしているらしい」

「ふふっ。キリエ、野良じゃなかったんだ。飼い主いるのね」

「にゃっ!? こんな毛並のいい野良、いるわけないにゃ!」

 あー、うん。そうだね。

「って、そんなのはどうでもいいんだよ!」

 うんうん。そうだね。

「それで、レディ。君に選択肢を与えるよ」

「選択肢?」

 猫が出す選択肢って、どんなのだろう。

 何か前に、有名なアニメかなんかで見たことがある気がする。

 えーっと。助けてくれたお礼に、猫の王子様の花嫁になるんだっけ?

 いやいや。それはないか、と、笑ったところで。

「君はこのままだと、あと数時間で死んでしまうよ」

「え。マジですか……」

 なんだかいきなり、予想外の方向に向かってしまった。

「でも僕のご主人様の手にかかれば、命だけは助けてあげることができる」

「キリエの飼い主さん、すごいね。もしかして、有名なお医者様かなにかなのかな?」

 あぁ、だから集中治療室なのに猫がいるのだろうか。

「違うけど……まぁ、それでもいいや。で、もう気付いていると思うけど」

「……」

「僕を庇ったせいで……君の右半身は、もう二度と動かない」

 あぁ、ほら。これだよ、もう……。

 どうせそんなことだろうと思っていたんだ。

 いくらなんでもおかしいと……思って、いたんだ。

「……もう一つの、選択肢って?」

「もしこのまま命を失うことを選ぶのであれば、レディの魂は、僕のご主人様が責任を持って、僕達の世界に連れて帰る」

「……えーっと?」

 何だろう。ちっとも意味が解らない。

 でももっと詳しく話を聞こうにも、どうにも目の前がくらくらとして、頭が回らない。

 色々なところでけたたましく音を鳴らしている機械達の様子を見ても、多分これって、そう悠長に考えていられる事態でもないのだと思う。

 だとしたら。

 だとしたら?

「えーっと。要するに私。もうすぐ死ぬのよね?」

「ご主人様が、君達の神様にお願いをしなければ」

「お願いをしてくれて、私が助かっても。もう二度と、ヴァイオリンは弾けないのよね?」

 それどころか半身不随って……。

 普通の生活すら、難しいんじゃないのか。

「そういうことだね」

 あぁ、だったらもう、決まっている。

 世の中には体が不自由になっても逞しく生きている人達がいるのだろうけれど、私には無理だ。

 元々生立ちのせいで他人と関わるのが苦手だし、誰かに面倒を見てもらいながら送る生活なんて性に合わない。

 それに一番大好きなことができない人生に、未練もない。

 もしかしたら、命さえあれば、なんて未来も有るのかもしれないけれど、少なくとも今この瞬間、どちらかを選べ、と言われて選べるほど、大切な命じゃない。

 私にとって音楽は、それこそ命よりも重たいものだったのだから。

 だから。

「自分で音楽を奏でられない人生なんて、考えられないわ。だったら大好きなパパや、厳しかったけどこれまで私に目をかけて育ててくれたママにも、それに私を知っているすべての人にも、『落ちぶれた元ヴァイオリニスト』じゃなくて、『若くして死んだ悲劇の天才少女』って記憶のまま、いなくなってしまいたい」

 これってなかなか、ロマンチックじゃない? と笑ってみせたなら、黒猫さんがどことなくしょんぼりと耳を垂らした。

 なんて可愛いのかしら。

「二度目の君の人生は、きっと幸せになるように、僕が全力でお手伝いするから」

「やった。その綺麗な毛並みを思う存分もふもふできるなんて、最高だわ」

「……レディ。最後にもう一度言っておくけど」

 何? なんでも聞くわよ、と目を閉ざしたら。

「僕は“紳士”なんだからね」

 そう言われて、思わず笑ってしまった。

 その反応に、不満そうにしながら。

 でもやっぱり尻尾はしょんぼりと、うなだれたまま。

「じゃあ行くよ」

「ええ」


「……さようなら。レディ・リリコ」


 ちゅっ、と額を掠めたキスと共に、ピー、ピーと、機械達が一層けたたましく警報を鳴らし始めた。

 麻酔のお陰だろうか。

 ちっとも痛みなんて感じなくて。

 でもボウっと意識が遠のいていく気配だけが、どうしようもなく鮮明で。

「リリ!」

 目の前に飛び込んできた相変わらず超絶イケメンなお父様に、あぁ、仕事で海外にいたはずなのに。駆けつけてくれたんだ、って、少しだけ嬉しくなって。

「一体貴女にどれだけお金と時間を割いたと思ってるの! こんな勝手なこと、絶対に許さないわよ!」

「やめないかッ、響子!」

 酷いことを言っている母は相変わらずで。

 やっぱり好きにはなれないけれど。

 でも、ぎゅっ、とわずかに感覚の残る左手を握りしめた冷たい掌が、どうしようもなく力強くて。


「……リリ……駄目よ。そんなの絶対に許さないわよ、リリ……」


 うっすらとこの目に飛び込んできた母の涙は……あぁ。見間違い、だろうか?







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