女と仕事は両立しない その8
随分と、回り道をしてしまった。
僕はようやく、真綾さんの部屋の前へと、再び辿り着いた。
今回は、追い返されるわけにはいかなかった。
僕は意を決して、再び扉を叩いた。
「……真綾さん、信士です」
「ワン!」
イチの声が中から聞こえた。どうやら、部屋には居るらしい。
「開けてください、真綾さん。助けていただけませんか?今の僕の力ではどうにもならないんです」
今度は扉を叩く、しかし出ては来ない。あまりうるさくし過ぎると、近所迷惑になりかねないので、一旦僕は叩くのを止める。
「あの、出来れば入れてください。ここでうるさくしていたら……」
「その心配は、ないぞ」
「真綾さん!」
扉の向こうから声が聞こえて来た。
「……ここの住人は、皆、夜は出かけるから、騒いでも問題ないぞ。だから好きなだけ騒いで、そしたらもう帰るんだ」
「どうしてなんですか!?僕、何かしました?へそを曲げてないで出て来て下さいよ!」
「五月蠅いぞ、裏切り者」
「何ですかそれ?僕は真綾さんを裏切ってなんか……」
「真綾には、別の飼い主に餌を貰う白状者を養う義務はないぞ」
「!」
―――これは、もしかしなくても、恵ちゃんのことを指している!?
「そ、そんなんじゃないですよ!笹垣さんは、単に昼ご飯を食べるだけの、そりゃあ多少の好意はありますけど、まだ付き合ってもいないわけで……」
もしかして、妬いている?いやいや、それとも何か違う雰囲気がする。しかし、恵ちゃんの存在が、彼女が僕を拒絶している核心なのだ。これを解決しなければ、前に勧めない。
「あの、僕が彼女と、笹垣さんと付き合ったりしたら、まずいことでも?」
「付き合う?―――ないない」
「え?」
「何か勘違いしてるよ、信士くん。別に君が、誰と付き合っても、極論、子作りまでしちゃっても、それで腹立てたりしないもん、私」
流石にこの齢で子作りはしないが、どういうことだろう?
「別の土俵でやり合ってるなら、別に気にしないってことだよ。でも、同じ土俵なら別、だから―――」
裏切り者、と呼んだのか、僕の事を?
その言葉を受け、嫌な汗が背中を伝う。―――いや、まさか、そんな。
「笹垣恵は、信士くんを、飼って、利用している。他人の匂いの染みついた飼い犬なんて、いらないもん」
―――そんな馬鹿な。
「そんなことあるわけないじゃないですか!」
「でも、事実だぞ?そんな子は、要らない」
納得いかなかった。
「それこそ、真綾さんの思い込みですよ!どこにもそんな証拠は……」
「あるよ、証拠」
「はい?」
まさか、あるの!?
その時、僕の背後から、カンカンと階段を上がる音が聞こえて来た。
ガチャ!
それと同時に、先程まで、僕の目の前の開かず扉が開いた。
「早く入る!」
僕はその声に弾かれるように、部屋の中に飛び込んだ。
「な、何ですか一体……」
「しっ!」
玄関先で真綾さんに手で口を塞がれる。
そのまま空いた左手で真綾さんは、シーッと人差し指を口に当て、目でこちらに来い、と合図を送って来た。上がれ、ということだろうか?
部屋の中はフローリングで、思ったよりも整理されていた。というよりも、何もない―――と言ったほうがいいかもしれなかった。
ある物と言えば、冷蔵庫と一人掛けのソファ、後は転がっている携帯ゲーム機くらいなもので、ゴミ箱にお菓子の袋が棄ててある以外、ゴミらしいゴミも転がっていない。
「綺麗な―――というか、殺風景な……」
「必要な物だけあればいいもん。ゴロゴロするには何もないほうが楽だぞ」
小学生の頃、授業前に体育館で一人床に寝そべったことがあるが、確かにだだっ広い空間で寝そべるのは気持ちが良い。
「あれ?イチは?」
「クゥン……」
イチは部屋の隅で大人しく丸まっていた。
「声を出した罰だぞ。まったく、喋るなって言ったのに」
ということは、真綾さんに反して僕にその存在を教えてくれたということか。ありがとう、イチ。
「あの……何で中に?というか、証拠って、一体……」
真綾さんは無言で、壁に耳を当てたまま、こちらへ来いと手招きする。
僕は戸惑いながらもそれに習い、壁に耳を当てる。
『……最悪』
聞き覚えのある声が、隣の部屋から伝わって来た。レオ○レスも真っ青な壁の薄さのせいか、その声は明瞭に聞き取れた。
『……まったく、あんなところで会うなんて。間が悪いというか……』
これは、先程の僕のことか?
「……恵ちゃんですかこれ?まさか、隣に……」
さっき僕の後ろで階段を上って来たのは、彼女だったのか?だから、真綾さんは中に入れてくれたのか、見つからないように。
「そうだぞ、ここは金剛寺学園裏商売の一つ、夜のアルバイトをする女の子ご用達のアパートメント。夜は殆ど誰もいないし、昼まで皆寝ているからとても静かで、快適だよ?」
真綾さんがそのとても静かという点に加え、朝、誰にも会わずに出かけられるところを気に入ってここに住んでいるのは明白である。
「もしかして、彼女が僕の話を何か……」
「静かに」
電話の着信音が隣で鳴る。「はい、メグです!」と元気な声が隣から聞こえて来た。どうやら恵ちゃんが電話に出たようだ。
『あ、はい!明日同伴ですね!宜しくお願いします!ええ、とっても嬉しいです!待ち合わせは大時計の……はい、分かりました。それじゃ、楽しみにしてますね!』
どうやら、店の他の客との会話らしい。僕以外の男性と親しげに会話しているのを聞いていると、とても複雑な気持ちになる。
しかし、これは営業トークだ。冷静に、聞き流さなければ。
だが、電話を切ったらしい彼女の次の言葉を聞いて、僕は凍り付いた。
『ふん、どいつもこいつも、私のこと何も分かってない癖に、いい気なものよね。男なんて、全員私の夢を叶えるための、餌だっていうのにさ』
自分の耳で聞いても信じられない、いや、信じたくなかった。歯の根が合わず、カチカチと顎が震える。
「……いっつも彼女、こんな感じで愚痴っているんだ。もっと酷い時もあるけど、まだ、聞く?」
真綾さんは僕を見つめ、窺うように訊ねる。
「……これを聞いてたから……人に利用されて、ホイホイとついていったから、僕に冷たかったんですか?」
暫くの沈黙のあと、俯いた顔を上げると、真綾さんは悲しそうな顔をしていた。
「……さっきも言ったけど、似てるけど、違うぞ?信士くんが誰に利用されて騙されてもいいけど、信士くんの判断基準が『彼女だけ』になってたのが問題なんだってば。だって、彼女が命令したら、きっと従ってたでしょ?」
否定出来なかった。恋は盲目とは言うけれど、確かに僕は、彼女を中心に物事をとらえていた。
「やきもちでも、なんでもなくて、帰属意識の問題だぞ。信士くんは真綾の、真宮寺真綾事務所の大事な一員なのに、個人の仕事を優先して、真綾達に対する意識を怠ってた気がしたんだ。だから、一緒にいたくなかったんだもん」
別の飼い主に飼われた犬が、餌だけ食べに事務所に居る、そのようなことなのだろう。
しかもその犬は、先刻までその事務所の主に飼われていたはずなのに、である。
彼女は―――そう、純粋に問うているだけなのだ。どっちの人の言葉に従うのか、と。
恵ちゃんを取れば、自分一人で仕事をするのが筋だということだろう。それは真宮寺真綾税務士事務所に所属しながらでは、出来ないことなのだ。
「一つだけ―――教えてあげる」
真綾さんは神妙な顔つきで、僕を見つめ、恐る恐る、次の言葉を口に出した。
「真綾の両親ね、人に裏切られて―――死んじゃったの」
「―――え」
「会社をやっていたんだけど、詐欺に逢ってね。まるで三文小説みたいだけど、それで一家は破滅、パパは首を吊って、ママは倒れて、そのまま死んじゃった」
僕は、二の句を告げずにいた。あまりにも衝撃的なことを聞かされ、思考が追いつかない。
「人を信じた結果が、これだよ?」
「……だから、人を信じるなって、言うんですか?」
彼女は寂しそうに首を横に振る。
「違うぞ。真綾は、それよりも確実なことを信じているだけだよ。パパとママがが居なくなってから、真綾は親戚の家に預けられて、一人で離れの倉庫で暮らしてた。と、いうより隔離されてお手伝いさんみたいな扱いをされてね。貰ったお小遣いを計算して、コツコツ使ってたんだ。真綾の周りにいたり、家族皆を追い込んだ人達は殆どが間違った人間だったけど、私が数字で管理して考えたことは、何も間違ってなかったよ?」
だから彼女は―――人を信じない、のか。
「だから勉強して、ここに入ったんだ。外の全部から逃げて、引き篭もって、そして―――復讐するために」
穏やかな物言いではない。明らかな敵意を持って、彼女は語っていた。
復讐、とは、何に対しての?世間なのか、それとも……。
「真綾の傍にいるのは、真綾を裏切らない動物達か、しずかちゃんだけだった。他の人の傍じゃ、私自身が、真宮寺真綾で居られないから」
僕は、自分が酷いと思った。今この瞬間、彼女に対して―――同情していることにも。きっと彼女は同情なんてしてほしくてこんな話をしたわけではないのだから。
悲しい人だ―――でも、それは彼女のせいではない。そういう性質を持ってしまったが、その中で彼女はやれることをやっている。同情など、きっと彼女はいらないに違いない。それこそ、失礼なことに違いない。彼女が欲しいのは、もっと別の信じれる何かなのだ。
それでも、僕はそのことが―――。
「真綾を裏切るつもりなら、そんな子は要らないぞ」
真綾さんは目に涙をためて、堪えていた。
どちらがいいか、で決める話では既になかった。ただもう、僕の中で、結論は出ていた。
「……すみませんでした」
「……それは、どういう意味なの?」
真綾さんは鼻をすすり、僕を睨む。
「僕が、間違っていました。事務所の一員だと言ってくれた真綾さんの信頼を裏切って、一人の女性に傾倒して、判断を誤っていました」
「……それで?」
「結果として、事務所にも迷惑をかけました、だから……」
――もういい。
先ほどまでのとげとげしい声ではない。優しく語り掛けるような口調で彼女は言った。
「迷惑かけたのは、真綾も一緒だから、二人でしずかちゃんに、謝ろ?だって、我儘で仕事ぶっちしてたのは、お互い様だし」
そう言って、真綾さんははにかんだ。
その笑顔はやっぱりとても、素敵だと僕は思った。
「……僕、何を見ていたんでしょうね」
「幻想?」
ストレート過ぎる答えに、僕は思わず吹き出す。
小声で、僕らは笑い合った。何か少しだけ、通じ合った気がした。
「あの、こんなこと言っておいてなんですが、真綾さん一つ、お願いがあるんですが」
「ふふ~ん、言いたいことは、分かるよ、恵ちゃんのことだよね?」
「……敵わないなあ。あれだけ言っておいてなんですが、その、助けたいんですよ……お客様として、ですけど」
「あれだけ、裏切られるようなことを、言われたのに?」
「はい。僕が請けた仕事ですから、最後まで責任を持って勝たせるのが、事務所の名を汚さないことかと思うんです。だから、僕に助言して下さい。お願いします」
僕は深々と頭を下げる。
「ほ~んと、お人よしだねえ」
僕は壁際に座ったまま、真綾さんに頭をよしよしされる。こそばゆいけど、ちょっと気持ちいい。
ぎゅ。
「え?」
そのまま僕は抱きしめられ、胸に顔を埋められ、押し付けられる。
僕の思考が、追いつかない。
「な、何ですか、これ……?」
「マーキング。二度と他に浮気しちゃ、駄目だよ?」
「……はい」
僕らはしばらくそのまま、重なる。
それはとても、温かかった。
連続投稿終わりです。明日からちょっと出かけるので暫く更新しません。年明けか大みそかにまたお会いしましょう。




