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十七歳は御多忙申し上げます

いつかおまえを

作者: 香月よう子

 高校二年から三年生へ進級する春休み。

 午前中、私は制服で学校の図書室に来ていた。

 借りていた本、沢木耕太郎の「春に散る」を返却する為だった。


「春に散る」は、広岡というボクシングには挫折した初老の元プロボクサーが主人公で、三人の不遇なボクサー仲間と約四十年ぶりに再会し、シェアハウスで生活を始める。佳菜子という霊感のある不思議な女の子が、何かと広岡達四人の面倒を見てくれる日々の中、翔吾という若い才能あるボクサーを、彼らがスーパー・ライト級の世界チャンピオンに育てる……そんな粗筋の作品だ。

 タイトルから予想されたラストは、しかし、非常に感動的で、思わず涙した。

 春休みに入って久々に長編小説を堪能した私は、晴れやかな気分だった。


 そして、返し終わり、渡り廊下を通っていた時だったのだ。

 私はふと足を止めた。


「守屋君……」

 やはり制服姿にスポーツバッグを肩に掛けた彼が、正面から歩いてくる。

「神崎さん」

 彼も足を止めた。

「守屋君、どうして?」

「俺はクラブだよ」 

 それだけ言うと、彼は通り過ぎようとした。


 しかし、

「……あ、神崎」

「え?」

「これ、いる?」


 彼は、ポケットから二つ折りの何か紙片を取り出した。


「映画の鑑賞券チケツト。知り合いからもらったけど、俺、行かないから」

「……「タイタニック」のリバイバル?!」

 私は、思わず声を上げた。


 それは、1997年に「ジェームズ・キャメロン」監督・脚本により、「レオナルド・ディカプリオ」「ケイト・ウィンスレット」主演で制作された不朽の名作映画「タイタニック」のリバイバルチケットだったのだ。


「嬉しい! 家のビデオでは観たけど、映画館で観たかったの!!」

「そりゃ、良かった」

 彼は、フッと笑った。


「じゃ」

 そう言って、行きかけた彼に、

「守屋君!」

 思わず声をかけた。

 振り返る。


「あ、あの……。あのね……」

 しどろもどろになりながらも、思い切って私は言った。

「これ……一緒に行ってくれない?」

「俺?」

「うん。映画館に一人で行くの怖いから……」

 足元の黒いローファーを見つめていた視線をゆっくりと上げ、

「ダメ……?」

 上目遣いで、恐る恐る私は問うた。


 そして、次の瞬間には真っ赤になっていた。


 守屋君を映画に誘うなんて!

 まるでデートじゃない……。


 なんて大胆なことを言ったんだろうと思った時、

「ちょっと待って」

 そう言うと彼は、制服のポケットから携帯スマホを取り出し、何かを調べ始めた。

「じゃあ。今日、行こう」

「今日?!」

「明日から俺、漕艇部クラブの合宿なんだ。12時35分から髪通りの「シネ・ルーブル」で上映始まるから、それでいい?」

「いいわ」

「悪いけど暫く図書室で時間潰しててよ。昼飯も済ませといてくれ。クラブ終わったら迎えに行くから」

 そう言って、彼はサークル棟の方へと消えて行った。


 守屋君と映画……!?!

 しかも、あの私が一番好きな映画「タイタニック」を劇場で観られるなんて!


 嘘みたい……。


 私は、暫しその場に立ち尽くしていた。



 ***



「まだ、泣いてるのかよ。神崎」

「な、泣いてないわ!」

「瞳が潤んでるぜ」

 彼はクスリと笑った。


 映画の後、カフェ「ENGLANDイングランドTEAティー」に来ていた。

 私は、プレーンスコーンとアールグレイのミルクティー、守屋君はモカをオーダーしている。


「ああ! でも、やっぱりいい映画だったわ。あの沈没シーンの迫力! それに、ローズとジャックの純愛。理想ね」

 温かいスコーンにクロテッドクリームをのせながら、うっとりとしたように、私は言った。

「そうか? 俺は、キャルに同情したね」

「あの意地悪のキャルに?」

「婚約者を寝盗られたんだぜ。撃ち殺したくもなるさ」

 そう言って、彼は珈琲モカを啜った。

「それにしても」

 と、私は言った。


「ローズは、天国でジャックと結婚相手と、どちらと再会したのかしら……」


 ジャックを愛し、彼の死後、他の男性との間に子供をもうけたローズの生き方を理解するには、私はまだ幼すぎる。


 映画の感想を話し終えると、私は、最近流行っているゲームの話や、お杏と買いに行った服の話など、本当にとりとめもなく、ほとんど一人で喋っていた。

 相変わらず彼は無口だったけれど、黙って私の話を聞き、時々相づちを打ってくれた。

 たまに会話が途切れ、無言になることもあったけれど、それすらも気にならない。

 そんな風に、私は守屋君とカフェで過ごした。

 それは、暖房がよく効いた店内の空気と同じで、不思議に温かく、心地よい時間だった。



 ***



「守屋君。これ……」

 カフェを出た後、私は一枚の千円札を彼に差し出した。スコーンのセットは980円だったから。

「いいよ。そんなの」

「でも」

 彼は素っ気ない。

「前にも言っただろ。男が女の子の為に出した金なんて、ほっときゃいいんだよ」

 そう言って、彼は歩き始めた。

「守屋君、待ってよ」

 私は彼の跡を追う。

「翠道町の方に出るんだろ。中央公園を通っていこう」

 そう言うと彼は、市街地のほぼ中央にある大きな公園の中へと入っていった。


 これって……。

 あの、暮れのパーティーの帰り道と同じね……。


 あの初めての口づけを交わした場所に再び、彼と共に足を踏み入れるなんて。

 私はドキドキしている。


 公園は広く、静かだ。

 一定の間隔で設けられている石造りのベンチでは、アベックばかりが睦まじげに寄り添っている。

 しかし、私達は肩先すら触れず、黙ってそこを通り過ぎようとしていた。


 通り過ぎる筈だった。


 しかし────── 


「守屋君……」

 私は言った。

「何」

「玲美さんのこと……聞かせて」


 彼は、足を止めた。

 私を見つめる。


 守屋君……。


 彼は、近くのベンチに腰を下ろすと、

「座れよ」

 と、一言呟いた。

 私は、黙って彼の隣に座った。


 彼は暫く黙っていた。

 その時間は私には長く、私は息苦しさを感じている。

 言うんじゃなかった……。

 私がそう後悔し始めていた時、彼はゆっくりと口を開いた。


「玲美は。向日葵ひまわりのような女の子だった。明るくて、人なつっこくて。誰からも愛されて……。ボブカットの髪型で、いつも耳にお気に入りの銀のイヤリングを揺らしている。そんなだった」


 彼は遠い目をしている。


「俺はいい加減な男で、ちょくちょく浮気もした。でも、それでも黙って微笑んで、俺を包み込んでくれる。そんな聖母のような女の子だった」


 そう言うと、

「それだけさ」

 彼の言葉は少なかった。


 残酷なことを聞いてしまったのだろうか……。

 でも。

 聞きたかった。

 確かめたかった。

 何より……。


「今でも、玲美さんのこと……」


 それは言葉にはならなかった。

 私は自分で自分の言葉に衝かれている。


 私は玲美さんの身代わりなの?

 何よりそれが聞きたい……!


「俺は」


 その時。

 ざあっと一陣の風が宙を舞った。

 それはまるで春一番のように強い風だった。


「いつか……」


「いつか……?」

 彼は私の目を見つめた。


「おまえを」


 彼は、立ち上がって言った。


「帰ろう。送っていくよ」


 私にゆっくりと手を差し伸べる。

 私はその手を取った。

 彼の左手を軽く握る。


 守屋君……。


 それは浅い春の夕刻のことだった。

 南南西の風は少しウエットだった。


 




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― 新着の感想 ―
[良い点] 思わず映画デートに誘ってしまった純の恥じらう様子がたまらなく可愛いですね……! そして守屋くん、「おまえを」で言葉を止めるあたりが……とてもカッコいいです。照 [一言] タイタニックの頃の…
[良い点] 守谷くんが高校生なのに、大人びて見えるのは、玲美さんのことがあるからなのかな。 守谷くんの語る玲美さんがとても素敵で、純は複雑ですね。守谷くんは忘れたいと思っているみたいですけど。 [一言…
[良い点] 純ちゃんと守屋くんのエピソード、楽しませていただきました! 相変わらず守屋くんが大人びてますね♡ 玲美さんの謎が段々と明らかになっていくのが楽しみでもあり、純ちゃんのことを思うと複雑でもあ…
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