いつかおまえを
高校二年から三年生へ進級する春休み。
午前中、私は制服で学校の図書室に来ていた。
借りていた本、沢木耕太郎の「春に散る」を返却する為だった。
「春に散る」は、広岡というボクシングには挫折した初老の元プロボクサーが主人公で、三人の不遇なボクサー仲間と約四十年ぶりに再会し、シェアハウスで生活を始める。佳菜子という霊感のある不思議な女の子が、何かと広岡達四人の面倒を見てくれる日々の中、翔吾という若い才能あるボクサーを、彼らがスーパー・ライト級の世界チャンピオンに育てる……そんな粗筋の作品だ。
タイトルから予想されたラストは、しかし、非常に感動的で、思わず涙した。
春休みに入って久々に長編小説を堪能した私は、晴れやかな気分だった。
そして、返し終わり、渡り廊下を通っていた時だったのだ。
私はふと足を止めた。
「守屋君……」
やはり制服姿にスポーツバッグを肩に掛けた彼が、正面から歩いてくる。
「神崎さん」
彼も足を止めた。
「守屋君、どうして?」
「俺はクラブだよ」
それだけ言うと、彼は通り過ぎようとした。
しかし、
「……あ、神崎」
「え?」
「これ、いる?」
彼は、ポケットから二つ折りの何か紙片を取り出した。
「映画の鑑賞券。知り合いからもらったけど、俺、行かないから」
「……「タイタニック」のリバイバル?!」
私は、思わず声を上げた。
それは、1997年に「ジェームズ・キャメロン」監督・脚本により、「レオナルド・ディカプリオ」「ケイト・ウィンスレット」主演で制作された不朽の名作映画「タイタニック」のリバイバルチケットだったのだ。
「嬉しい! 家のビデオでは観たけど、映画館で観たかったの!!」
「そりゃ、良かった」
彼は、フッと笑った。
「じゃ」
そう言って、行きかけた彼に、
「守屋君!」
思わず声をかけた。
振り返る。
「あ、あの……。あのね……」
しどろもどろになりながらも、思い切って私は言った。
「これ……一緒に行ってくれない?」
「俺?」
「うん。映画館に一人で行くの怖いから……」
足元の黒いローファーを見つめていた視線をゆっくりと上げ、
「ダメ……?」
上目遣いで、恐る恐る私は問うた。
そして、次の瞬間には真っ赤になっていた。
守屋君を映画に誘うなんて!
まるでデートじゃない……。
なんて大胆なことを言ったんだろうと思った時、
「ちょっと待って」
そう言うと彼は、制服のポケットから携帯を取り出し、何かを調べ始めた。
「じゃあ。今日、行こう」
「今日?!」
「明日から俺、漕艇部の合宿なんだ。12時35分から髪通りの「シネ・ルーブル」で上映始まるから、それでいい?」
「いいわ」
「悪いけど暫く図書室で時間潰しててよ。昼飯も済ませといてくれ。クラブ終わったら迎えに行くから」
そう言って、彼はサークル棟の方へと消えて行った。
守屋君と映画……!?!
しかも、あの私が一番好きな映画「タイタニック」を劇場で観られるなんて!
嘘みたい……。
私は、暫しその場に立ち尽くしていた。
***
「まだ、泣いてるのかよ。神崎」
「な、泣いてないわ!」
「瞳が潤んでるぜ」
彼はクスリと笑った。
映画の後、カフェ「ENGLAND・TEA」に来ていた。
私は、プレーンスコーンとアールグレイのミルクティー、守屋君はモカをオーダーしている。
「ああ! でも、やっぱりいい映画だったわ。あの沈没シーンの迫力! それに、ローズとジャックの純愛。理想ね」
温かいスコーンにクロテッドクリームをのせながら、うっとりとしたように、私は言った。
「そうか? 俺は、キャルに同情したね」
「あの意地悪のキャルに?」
「婚約者を寝盗られたんだぜ。撃ち殺したくもなるさ」
そう言って、彼は珈琲を啜った。
「それにしても」
と、私は言った。
「ローズは、天国でジャックと結婚相手と、どちらと再会したのかしら……」
ジャックを愛し、彼の死後、他の男性との間に子供をもうけたローズの生き方を理解するには、私はまだ幼すぎる。
映画の感想を話し終えると、私は、最近流行っているゲームの話や、お杏と買いに行った服の話など、本当にとりとめもなく、ほとんど一人で喋っていた。
相変わらず彼は無口だったけれど、黙って私の話を聞き、時々相づちを打ってくれた。
たまに会話が途切れ、無言になることもあったけれど、それすらも気にならない。
そんな風に、私は守屋君とカフェで過ごした。
それは、暖房がよく効いた店内の空気と同じで、不思議に温かく、心地よい時間だった。
***
「守屋君。これ……」
カフェを出た後、私は一枚の千円札を彼に差し出した。スコーンのセットは980円だったから。
「いいよ。そんなの」
「でも」
彼は素っ気ない。
「前にも言っただろ。男が女の子の為に出した金なんて、ほっときゃいいんだよ」
そう言って、彼は歩き始めた。
「守屋君、待ってよ」
私は彼の跡を追う。
「翠道町の方に出るんだろ。中央公園を通っていこう」
そう言うと彼は、市街地のほぼ中央にある大きな公園の中へと入っていった。
これって……。
あの、暮れのパーティーの帰り道と同じね……。
あの初めての口づけを交わした場所に再び、彼と共に足を踏み入れるなんて。
私はドキドキしている。
公園は広く、静かだ。
一定の間隔で設けられている石造りのベンチでは、アベックばかりが睦まじげに寄り添っている。
しかし、私達は肩先すら触れず、黙ってそこを通り過ぎようとしていた。
通り過ぎる筈だった。
しかし──────
「守屋君……」
私は言った。
「何」
「玲美さんのこと……聞かせて」
彼は、足を止めた。
私を見つめる。
守屋君……。
彼は、近くのベンチに腰を下ろすと、
「座れよ」
と、一言呟いた。
私は、黙って彼の隣に座った。
彼は暫く黙っていた。
その時間は私には長く、私は息苦しさを感じている。
言うんじゃなかった……。
私がそう後悔し始めていた時、彼はゆっくりと口を開いた。
「玲美は。向日葵のような女の子だった。明るくて、人なつっこくて。誰からも愛されて……。ボブカットの髪型で、いつも耳にお気に入りの銀のイヤリングを揺らしている。そんな娘だった」
彼は遠い目をしている。
「俺はいい加減な男で、ちょくちょく浮気もした。でも、それでも黙って微笑んで、俺を包み込んでくれる。そんな聖母のような女の子だった」
そう言うと、
「それだけさ」
彼の言葉は少なかった。
残酷なことを聞いてしまったのだろうか……。
でも。
聞きたかった。
確かめたかった。
何より……。
「今でも、玲美さんのこと……」
それは言葉にはならなかった。
私は自分で自分の言葉に衝かれている。
私は玲美さんの身代わりなの?
何よりそれが聞きたい……!
「俺は」
その時。
ざあっと一陣の風が宙を舞った。
それはまるで春一番のように強い風だった。
「いつか……」
「いつか……?」
彼は私の目を見つめた。
「おまえを」
彼は、立ち上がって言った。
「帰ろう。送っていくよ」
私にゆっくりと手を差し伸べる。
私はその手を取った。
彼の左手を軽く握る。
守屋君……。
それは浅い春の夕刻のことだった。
南南西の風は少しウエットだった。
了