星合の運命《さだめ》 星の運命シリーズ(仮)①
「まもなく終点、天の浦……天の浦……。」
独特の鼻声ではっと我に返った私の目の前には、快晴に映える夏真っ盛りの海が広がっていた。
心地よい電車の揺れにうとうとしていたようだ。
まだ人が残る車内の目も気にせず私は大きく伸びをする。
ほどなくして電車が大きなホームに入り、ドアが開くと同時に私はショルダーバッグを持って降り立った。大方の荷物は既に送ってしまってあるので、引っ越してきたばかりだというのに私はバッグ一つの身なのである。
今日、私――琴峰海優は、この街に引っ越してきた。というか、舞い戻ってきたという答えが妥当だろう。さらに正確に言うならば、この街の近くの村に舞い戻ってきたということになる。
訳あって生まれ故郷のその村を長年離れていた私が呼び出されたのはどうやら家の後継がどうのこうの、という何とも面倒くさい理由らしい。私を忌み嫌って村から追い出した父親が、顔も覚えていない妹と共に事故死した、という連絡を受けたのは梅雨入りをしてすぐのことだった。いまどき家の後継などという古臭い風習に縛られたくはなかったが、琴峰の家系は代々異能持ちであり、ある任務を義務付けられているから絶やすことは許されないと自分勝手な母親に説得され、一度追い出された経歴のある変人がこうして舞い戻ることになったのである。
しかしきっと、私はその任務の役には立たないだろう。
私は小さいころに、悪いものにその異能を抜き取られてしまったのだから。そして、それが原因で父親に村を追い出されたのだ。
役立たず。その烙印を押されて。
自動改札を出ると、左には地平線まで広がる大海原と日光にきらめく浜が広がっている。一方、右には行き交う人々と車、そびえる高層ビル、デパートやショッピングモールの建物、と都会と何ら変わりのない現代的な街が広がっている。なんとも不思議な風景である。
左から流れてくる潮風に多少の懐かしさは感じたものの、物心つくかつかないかの年でこの街を離れた私の心に止まるようなものは何もなかった。少し街を散策したい好奇心もあったのだが、本来の目的を忘れるわけにはいかないと、まだ自重心があるうちに浜に沿った道を歩き出す。
だんだんと街から離れていき小さな岬を左に、鬱蒼とした山を右に見ながら神社の横を通りかかろうとした時だった。
道を間違えたかと思わせる標識が目に入って、私は歩みを止める。
「この先 行き止まり」
先に目をやると、確かにアスファルトが途切れ、白いガードレールが立ちふさがっている。さらに先には入り組んだ磯さえもちらりと見える。
どうやらここが隠れ里の入り口のようだ。
私はためらうことなく一歩を踏み出した。
その刹那、身体に電流を流されたような強いショックが突き抜けて、目を見開いたまま硬直してしまった。それはほんの一瞬でありすぐになくなったが、思わず振り向くとそこには一歩踏み出す前にはなかった半透明の壁、というかシールドのようなものが目の前にあらわれた。
どうやらこれが村を実際にはない存在にしているもののようだ。
オカルト的に言えば、結界というのだろう。
それはまっさらな空に向かって伸びていて、あたりを包み込むように円を描きながら広範囲に広がっている。
そしてそれを追って私が進行方向へ視線を戻したとき。
道ができていた。
ついさっきまで確かにガードレールがあり、その先は磯になっていたはずなのに、今はそこにアスファルトの道が続いている。
村が少々変わっていることは承知の上だったので、私はそれほど驚くこともなく先に進むことができている。そうでなかったらどうなっていたことやら。
左からは海風、右からは木々が揺れる安らぎの音。
ビルだらけで熱のこもりやすい都会とは違って、ここは日差しこそ強いものの潮風のせいでいくらか涼しい。都会では感じられない自然の息吹を浴びながら道沿いに行き、入り江になっている地形をよけるように右に曲がると、目的地かと思われる集落がひっそりとたたずんでいた。
ここが今日から私の帰るところになる、葉月村だ。
異能を持つ者が集まり、年に一度だけ開かれる現世と天界とをつなぐ門を守るためだけに作られた村。
そう母親からさんざん聞かされてきた。
敷地が広そうな屋敷と数多の民家、小さな畑、浜には漁船。少し沖に出たところには先ほどの街でも話題になる赤い大きな鳥居が堂々と構えている。あまりに生活感がなく、人気も全く感じられないほどひっそりとしているので逆に怖くなってしまう。
しかしこの村は静かなのに何かがいる。何かが騒いでいる。
それが何なのかの見当はあらかたついていたが、とうの昔に力を失ったはずの私がなぜその気配を感じることができているのか。
今まではこんなことはなかったのに。
妙に殺気立っている気配が気味悪さを植え付ける。
「おい、そち。そちが琴峰の末裔か。」
ふいに背後から声をかけられて心臓が飛び出るくらいに驚いた私は慌てて振り返る。だが誰もいない。
代わりに背丈半分ほどのかわいらしい雌鹿が耳をばたつかせながらこちらをじっと見ていた。
そ、空耳かな。私は妙な冷や汗をかきながらまた歩き出そうとしたが、今度は服を引っ張られてどうにも動けなくなる。
「わらわを無視するとは、いい度胸だのう。地獄まで落としてやってもいいのだぞ。」
自分をわらわなんて言うとはどこの時代から来たやつだ、と言いたくなる衝動を抑えながらまた私の平凡な日常はどこへ行ってしまったのやら、と心の中で重い溜息をつきながら、私は仕方なく話しかけてきた鹿に向き直る。
「やれやれ、やっと向き合ってくれたか。長らく村から追い出されていたというからわざわざ迎えに来てやったというのに。」
そう言うと鹿は勝手に村に向かって歩き始める。
私は我慢していた重い溜息をつきながらその後を無言でついていく。
「それにしても村に来て早々しゃべる鹿に会ったというのに顔色一つ変えんとは、やはりこの村出身というのは本当のようじゃな。」
鹿が似つかわしくない人間の声でクスクス笑う。
こんなことで驚いていては早死にしそうだと、これが「日常」になるんだと割り切るしかなくなってくる。だからこんな皮肉が口をついて出た。
「こんなんで驚いていたらこの村で暮らせないでしょうから。で、あなた誰ですか。」
鹿なのは見ればわかるが、名前を聞いていない。
「おう、忘れてたわい。わらわは市寸島売命、宗像三女神の一人じゃ。今は村に居候させてもらっとって、皆には神子と呼ばれておるよ。」
なんと、神様かい。私はもはや開いた口が塞がらない。
しかも彼女は何のためらいもなく自分が神であることを暴露している。まあ先ほど可愛らしい鹿の顔でさらりと毒を吐いていたのだから、ただ者ではないと思っていた。しかし宗像三女神といえば、太古の書物『日本書紀』にも出てくる三人の女神のこと。芸能界で言えば和田ア○子並みの大御所であり、むろん只者どころの話ではない。
しかし、なんともじゃじゃ馬姫っぽい口調である。
村に入るとなおさら人の気配はなかった。中には長年誰も住んでいないかのような家もあり、今にも廃村となってしまいそうな雰囲気である。彼女いわく、村ができた当初は栄えていたらしいが月日が経つにつれ没落する家系が増え、今では当初の十分の一の家系しか残っていないらしい。時計は四時を回ったばかりで若造は仕事や学業で街に出ていて、村には年寄りばかりなんだとか。
「ほれ、ついたぞ。今日からのそちの家じゃ。」
目の前には一人で暮らすには何が何でも大きすぎる屋敷。
かなり年期の入った日本家屋だ。
「琴峰は一等家の家系じゃからな。家も大きいのじゃよ。」
確かにこの村にはカースト制がある。身分の差というわけではないが、一等家、二等家、三等家以下と、昔この村を作った神が力が強い順に決めたと言われている。その名残が家の大きさにも出ているのだろう。
中はきれいに掃除されていて、顔も覚えていない父親や妹が過ごしていたままになっているようだった。
そして私の部屋は屋敷の中で最も海に近い離れに決まった。
とりあえず玄関口に積み上げてあった見覚えのある段ボール箱を部屋に運び込み、今は縁側に座って彼女と共に庭を眺めている。
「海優と言う名だったな。海優はこの村のことを、どこまで知っているのじゃ? 」
私が向こうから持ってきた固焼きのせんべいをボリボリと噛み砕きながら神子は言った。
村のこと――母からは少し聞いていたが具体的には知らない。
「人にはない異能を持つ者が集まり、年に一度だけ開かれる現世と天界とをつなぐ門を守るための村。私が母から聞いていたのはそれだけ。何から門を守るのか、どうやって守るのか。そんなことは何にも聞かずに来ちゃったから。そもそも私が役に立つかはわからないけどね。」
私は投げやりに言いながらせんべいをかじる。役立たずの烙印を押された私は何も力になれない。そんな諦めを込めた言葉だった。
庭先から少し先にある海からの潮風が頬をかすめる。神子は何かと考えているのかしばらく黙ったままだ。ただ、せんべいをかじる音と微かなさざ波の音が穏やかにからみ合っていた。
そして、不意に口を開く。
「ここに門が開かれたのは神の気まぐれじゃ。そんなもんで毎年八月七日の夜五つから晩九つまで天界への門が開くことになっておる。だがその門はぶっちゃければ、通ってしまえば誰でも天界へ行ける門じゃ。一見よい話のようだが、世の中にいるのは善人ばかりではない。その悪い者たちのことを我らは魔物と呼ぶ。彼らが天界へ入ってしまえば、星々を手玉に取ることも可能になってしまう。それを防ぐために葉月村、そして神から力を授かった村人たちが生まれたのじゃ。この村のおかげで長い間天界とこの世界の平和は守られてきた。だんだんと村も廃れてきてはいるが、少ない人たちで何とか支えておる。海優は力になれるかわからないと言ったが、それでもよい。天界のために、平和のために、力を貸してくれんかね。」
神子の目から鹿とは思えない強い真剣な志が垣間見えた気がした。
でも彼女は知らない。私がすでに力を失ってしまっていることを。
それでも私はあの真剣なまなざしを見て、彼女の頼みを断ることはできないと悟った。
「だいたい村の事情は分かった。私に何ができるかわからないけど来てしまった以上、引き受けるよ。きっとこれも何かの運命なんだから。」
私が神子の頭を撫でると、彼女はくすぐったそうに小さな耳を揺らしながら目をつぶった。
「やれやれ。海優の物わかりがよくて助かったわい。安心せい、昔は呪い殺されたり力を吸われたりする者もおったらしいがな、魔物が襲ってきてもわらわが地獄まで落としてやるわ。」
その「力を吸われたり」がまさに私なのだが、と心の中で思ったが口が裂けても言えない。だが鹿の顔で自信満々に言い切る彼女が妙におかしくて、私は思わず笑ってしまった。神子は途端に機嫌悪そうに明後日の方向を向いてしまう。
「ふん、わらわをなめるでないぞ。それに他の家系もおるからのう、明日にでも紹介してやるわ。喜べ、海優と年の近いやつらばかりだぞ。まあ今日はゆっくりするがいい。」
三枚目のせんべいに首を伸ばした彼女が言うと、私はそれに頷いた。
妙なところだが、居心地は悪くないし、この空気は嫌いじゃない。
来たばかりではあるがつくづくそう感じられたひとときだった。
* * * * * * * * * * * *
人は禁じられたことをやってみたくなってしまう生き物である。
その夜、片付け半ばで床についた私であったが、夜の海を見てみたいという好奇心にかられて外に出ていた。
すっかり私を気に入ってしまった神子は今日から私の家に住むと言い出し、先ほどまで一緒に寝ていたのだが、「夜は魔物たちが動くからあまり出歩かんほうがいい。」と念を押されていた。
でも少しだけ。そう思って今に至る。
夜の海は静かだった。
もともと、ここ天の浦の海は比較的穏やかなのだが、みな寝静まっている時間帯なので余計にそう感じてしまう。
空には都会では決して見られないほどの星と明るい月が夜の闇を照らしている。そこにひっそりと、かつ雄大に立つ鳥居。
静かだがその情景は美しかった。
少し潮風にあたったところで、何も起こらぬうちに戻ろうとした矢先、強い殺気と気味の悪い気配を感じて私は反射的に左を向いた。
「ぬしの力……、我によこせ。」
どんよりと黒く、形をとどめない物体が一つ、こちらへゆっくりとやってくるのが見えて、私は思わず出そうになる悲鳴を必死にのみこんだ。
おそらくあれが神子の言っていた魔物なのだろう。
やはり神子の言うことを聞いておくべきだったと後悔するが、既に遅し。
見た目と気配からくる想像以上の気味悪さに体の芯から冷えがまわってきて、膝の震えが止まらなくなる。
守ってくれると言った神子は、今頃夢の中だろう。
「あ……う、こ、こないで……。」
漏れた声はあまりにも説得力がなく、私は力尽きたようにその場にしゃがみ込み動けなくなってしまった。
私はもともと力など持っていない。力が奪えないのなら、次に奪われるのは……命。
それはすぐ近くまで迫ってきていた。
「悪く思うな。これも、我が神になるための蓄えなのだ。」
目の前で止まったそれが視界を黒く染めていくのが分かった。
手放しそうになる意識。
殺される。
「嫌!! 」
無意識に口からこぼれた一言とともに、自衛するために体が勝手に動き、私は手でそれを払っていた。勢いでその手が自分の顔に当たる。
何かに触れた感覚はなかったのだが、感電したようなバチッという音がして、何とも言えないうめき声が聞こえてきた。
つぶっていた目を恐る恐る開けてみると、私を飲み込もうとしていた魔物が苦し紛れに言葉を残して闇に溶けていくところだった。
「くそ、もう少しだったのに。もう少しで強い力が……。」
それが消えると元の静けさが戻ってきた。私は何があったのか理解できずに魂が抜けたようにその場から動けないでいた。すると葉ずれの音がして一人の男が木々の間から飛び出してきた。
息を切らし刀を手にしているので、物騒に見えてしまうのは私だけだろうか。
その男は周りを用心深くうかがい、私を見つけると駆け寄ってくる。
「おい大丈夫か、お前。」
彼が私を覗き込む。二人の視線が交錯した。
端正な顔立ちに吸い込まれるような瞳。
私はこの人を知っている。
いつどこで会ったのか分からないが、確かに知っているような気がした。彼も私を見つめていた。
「お前の目、なんで片方だけ……。」
彼のその言葉に反射的に手が動き、とっさに右目を隠していた。
自分では確認できないが襲われた際に右目のコンタクトが飛んでしまったらしい。無我夢中で気が付かなかったのだ。
幼いころに魔物に力を奪われたとき、一緒に抜かれてしまった虹彩の色。無色になってしまった片目をコンタクトレンズを付けることで今まで隠し通してきた。オッドアイなんて言うかっこいい名前もあるけれど、私は違う。悪しき者と接触した穢れの痕跡。
その秘密を、知られてしまった。
私は恐怖でしかなかった。また村を追い出されるのではないか、嫌われてしまうのではないか。薄れかけていたトラウマに再び襲われる。
「貴様ぁ――、海優に何しとるんじゃ――!! 」
怒号とともに集落の方から何かがものすごい速さで突っ込んできて、鈍い音と共に男が悲鳴を上げて転がった。
「海優、大丈夫か。怪我はないか。何かされてないか。魔物はどこいった。」
息を切らした神子が私を質問攻めにするが、その前に私を襲っていると勘違いをされたあげく体当たりされた彼を心配するべきではないだろうか。とりあえず大丈夫だという旨だけ告げると、彼が腰を痛そうに押さえながら起き上がった。
「魔物に襲われてたところを助けたっていうのに、この仕打ちはひどくないか、神子。おかげでぎっくり腰になりそうだ。」
彼は皮肉たっぷりに神子を睨む。対称的に彼女はどこか吹く風だ。
「そちが悪いのだぞ、董麻。紛らわしいことをしているからじゃ。」
今にも取っ組み合いを始めそうな二人の間に私は強引に割り込むと、無理やり先ほどまでの経緯を話す。
「なるほど、何が何だか分からないままやつを退治した海優を、偶然気配を感じ取った董麻が助けたというわけじゃな。初対決だったにも関わらず、海優も中々やるではないか。」
よく分からないが私は力を失ってはいなかったらしい。幼いころ何があったのかは今になっては闇の中であるが、失ったと思っていたものが実はあったのだから結果オーライである。
とりあえず役立たずの汚名は返上になったわけだ。一緒に片目の色も元通りになってくれれば鬼に金棒だったのにと思ったが、まあ欲張りすぎというものだろう。事が片付いた後だったものの、助けに来てくれた彼にお礼を言う。
「あの、助けてくれてありがとう。私、琴峰海優と言います。昨日からこの村にお世話になることになりましたので、よろしく。」
いまだ腰を押さえながら刀を地面に突き立てて杖代わりにしている彼は、少し顔を上げると微笑を浮かべた。
「俺は鷲谷董麻だ。同じ一等家だから事情はよく知っている。まだ慣れないだろうが何かあれば力になる。」
ややぶっきらぼうではあったが彼なりの精一杯の配慮なのだろう。
私は差し出された手を握り返した。
「仲良くなれそうでよかったわい。鷲谷は風を司る、琴峰と並ぶ村一の力の持ち主じゃ。今年も無事二家が揃って頼もしいわい。」
鹿のくせにスキップし始めた神子は一人で勝手に盛り上がっている。
それを見た私と董麻は顔を見合わせて苦笑するしかなかった。
鳥居の方から冷たい風が吹き付けてきた。
「夜風で冷えそうだ。そろそろ家に入った方がよさそうだな。」
彼は刀を地面から抜くと海を背に歩き始める。私も片目を押さえながら神子と並んで続く。
わざわざ迂回して送ってくれたようで、彼とは家の前で別れた。
「私の目のこと、誰にも言わないでほしい。」
一応であるが念を押しておく。
「安心しろ、俺はこれでも口は堅い。」
彼の言葉に私は笑顔でうなずくと玄関の引き戸に手をかける。
「ああそれと、明日、他の仲間を紹介してやる。」
私は首を縦にだけ振ると、話があるからと言った神子と彼を残して家へ入った。
* * * * * * * * * * * *
「やっぱりそうなのか、神子。」
海優が家に入ったあと、声を潜めて董麻は言う。
「今時点では何も分からん。彼女は自分の力が失われていなかったことを知ったようだが、あの目を見ると彼の言葉は真実の可能性が高い。」
彼の言葉、で董麻は誰のどんな言葉なのか理解したようだ。
「せっかく逢えたのに。大事になりそうな予感しかしないな……。」
最後まで二人の顔色は冴えなかった。
* * * * * * * * * * * *
昨夜思いがけない夜更かしをしてしまった私であったが、翌日、董麻が三人の男女を連れてやってきた。
「たぶん物心ないころに会ったと思うけどはじめまして、あたしは南十字里緒。よろしくね! 」
朝から元気一杯の彼女は、いわゆる今どきのイケてるJK。
「……双子の弟の伊緒。あんたの運命は……。」
ボソボソと小さな声でつぶやいた彼は、持っていたタロットカードで私を占い始める。どうやらオカルト好きらしい。
「どうも白鳥高雅っす。俺、中三なんでよろしくっす先輩。」
大きなあくびをしながら言う彼は語尾に「っす」を付けるのが癖のよう。
里緒が言った通り私も幼い頃はここに住んでいたのだが、なにしろはるか昔のことで全く覚えていないのだ。初対面と言って違いないので私も一通り挨拶を済ませる。
その後、留守番をしているという神子を残して私たち一行は街へ向かった。都会さながらのゲームセンターやショッピングモールを楽しみ、やってきた目的がなんなのか忘れたころ、空には赤みが帯びていた。
「実はこれが海優の歓迎会みたいなもんなんだけど〜。あと一つだけ寄るところがあるから、もう少し付き合ってね。」
大量の雑貨や服、スーパーの袋を伊緒と高雅に持たせ、自分は手ぶらの里緒は満面の笑みで言った。ついでに私もいくつか買い物をしたが、その袋は董麻が進んで持ってくれるというので手ぶらである。
「村の中で年が近いのうちらだけだからさ、そういう年頃の話とかできる仲間のしるしってもん持ってるのよ。海優も今日から仲間入りだからそれを買ってもらおうと思って。」
今日たくさん物を買っていた里緒がてっきりプレゼントしてくれるのかと少々期待していた私だったが、そういうわけではなさそうだ。そんなことをポロリと言うと、彼女は物欲しそうな顔をする。
「そんなわけないでしょ〜。今どきのJKは金欠なのよ〜。」
逆におごってくれと言いそうな目である。
「……姉貴は金使いすぎ。」
重そうに荷物を持つ弟のごもっともな言葉にコーヒーを飲んでいた董麻が豪快に咳き込む。
里緒が二人に食って掛かろうとしたその時目的の店についた。
そこは創業何百年といわんばかりの趣のある貴金属店だった。
立てつけが悪い引き戸をどうにか開けると、こじんまりとした店内にびっしりとショーケースが並んでいる。中にはいろいろな貴金属品が丁寧に飾られていた。
「おじさんは年の割に四葉のクローバーが好きだからそういうデザインが多いの。うちらはここでおそろいのネックレスを買ったんだ。」
店の奥で商品を磨いている店主が、年の割には、は余計だと口をはさむ。確かにこの店は「四葉」という名前だった。
ちなみに双子姉弟は十字、董麻と高雅は二人そろって羽のデザインのものを持っている。それのどれにも四葉のチャームがついていた。
私はあれこれ迷ったあげく、竪琴に四葉のチャームがついたものに決めた。
会計のときに私が財布を出すと横からすっと手が伸びてきて、受け皿にお金が置かれる。
「俺が買ってやるよ、まあ……その……歓迎祝い……だ。」
決して安くはない金額を払ってくれた董麻にお礼を言うと、高雅が意味ありげな目で冷やかしを入れてくる。
「先輩太っ腹っすね、里緒先輩と違って。」「右に同じ。」
容赦ないつっ込みにもう反論する気力もないのか、うなだれる里緒をよそ目に、私は笑いをこらえるのに必死だった。
帰りはすっかり彼女の愚痴一色で塗りつぶされてしまったが、とても楽しい一日だった。
* * * * * * * * * * * *
この村での生活にも慣れてきたこのころ。
ドクン。
ふと目が覚めて時計を見ると、まだ十一時半を回ったばかり。
最近いつも同じ時間に目が覚める。眠りに落ちている意識を引き戻すような気味の悪い鼓動。まるで自分の中に違う誰かがいるような感覚に、日に日に恐怖を覚えた。
今日も神子が隣で寝息を立てている。
上半身を起こした私は、連日の熱帯夜のはずなのに背筋から冷えていくのが分かった。
部屋には私と神子以外に誰もいない。そう、誰もいないはずなのに。
「何をそんなに怖がっている、娘よ。」
耳からではなくまるで頭の中に直接響いてくるような声がして、私は反射的に部屋を見回してしまう。
「……誰。」
唇の端からこぼれた小さな声。それは薄暗い部屋に溶けていった。
横で神子がもぞもぞと動いたがまた動かなくなる。
「怖がることはない。楽園へ行けるのだから。」
低く怪しげな黒い声は私の精神をかき乱すには十分すぎた。今にも恐怖の悲鳴を上げたくなっている本心を必死に抑えながら、私は何度も同じ言葉を繰り返した。
「あなたは誰なの。ねえ……、誰。誰……。」
冷え切ってしまった身体を前かがみに丸めて頭を押さえる。
恐怖がゆっくりと忍び寄ってくる。
やがてその声は微笑し始めたかと思うと、急に魔王のような高笑いをたっぷりと響かせる。それはもう、私の頭の中を狂わせて、心まで壊しそうな依存性を持っていた。
もう聞きたくない、もう聞きたくない。耳から入ってくる声ではないのに、思わず耳を押さえてしまう。
「そうだな、昔からお前の中にいる者とでも言っておこう。」
その言葉を最後に、私の部屋は元の静寂を取り戻した。
肌寒さは消え、打って変わって熱帯夜の生ぬるい空気と汗ばむ暑さが戻ってくる。
それでも私の恐怖はぬぐえなかった。
いつの間にかまた眠りについて、朝、目が覚めると昨日のことは単なる夢だったのではないかとっも感じられたが、それは決して夢などではなかった。毎晩毎晩それは私に話しかけてきて、やめてと懇願してもやめてくれない。その上、肝心なことは何も教えてくれなかった。ただ、楽しい場所へ行けるとそればかりを繰り返すのである。
怖くて誰にも話せなかった。神子にも、里緒にも、そしてもちろん董麻にも。
話せば今度こそ追い出されてしまう。せっかくできた良い関係が壊れてしまう。そんな思いが私の中に積み重なっていった。
そして、いつか私は得体の知れないそれに呑み込まれてしまうのではないか。
そんな不安はその日まで拭えなかった。
* * * * * * * * * * * *
「あれは色を失ったのではない。塗りつぶされてしまったのだ。」
座敷で向かい合っている二人のどちらかが呟くように言った言葉。
「先代の言葉は間違っていなかった。まさかとは思ったが、やつは今年動くだろうな。」
「そうか……、やはりやつか。当の昔に仕留めたと思ったが、まさかこんなことになるとは……。」
董麻の言葉には多大な自責が含まれているように思える。
「おんしが悪いわけではない。だがやつは彼女を使って門を突破する気なのじゃろう。おんしが愛したあの方の面影を持つ彼女にとり憑くとはなんとも悲しいことだが、必ず仕留めなければならん。それがたとえ……。」
神子が何を懸念しているのか、そして言葉を濁した理由がなんなのかも董麻には分かっている。彼はしばらく黙っていたがやがて開き直ったように言った。
「分かっているさ。そのときは俺が彼女にとどめをさす。それが俺がここへやってきた任務であり、二人の運命なのだからな。」
神子は彼があえて自分の感情を押し殺したように見えた。
それはやっとのことで愛する人を見つけ、やり直そうと思っていた彼にとって苦渋の決断であったことを物語っていた。
時は刻々と、迫っている。
* * * * * * * * * * * *
ついにやってきた八月七日。村の人たちにとっては一年に一度の大一番らしい。私も初めてとあって朝から少々緊張気味ではあった。何より、あれから拭えないでいる不安も尾を引いている。
時刻は五時を少し回ったところ。戦の前の腹ごしらえをするために人々が鷲谷家に集まる食事会(という名の宴会)に呼ばれているのだが、その前に私は潮が引く前の穏やかな海を見るために浜へとやってきた。
山の背後へと隠れゆく太陽の光を帯びて空も橙色を濃くしている。
特別な理由で年中潮が引くことがないという天の浦の海も、今日ばかりは天界への道を作るためにせっせと準備をし始めていた。だんだんと水位が下がり浜があらわになる中で、入り口となる鳥居の白い土台も一年ぶりに姿を現している。
「海優。」
聞き覚えのある低い声に呼ばれてはっと振り向くと、そこには私が予想していた人物が立っていた。
「董麻も海を見に来たの? 」
横に並んだ彼は目を細めて穏やかに水平線を見ている。
その横顔を見て鼓動が速くなったのは気のせいだと自分に言い聞かせるのだが、そのせいで沈黙が妙に辛かった。
いたたまれなくて先に口を開いたのは私だった。
「ねえ、そういえば董麻は短冊にどんな願い事を書いたの? 」
村の中で今日は一年に一度の開門の日と決まっているが、世間では今日は旧暦の七夕だ。形だけではあるが村でも一家に一本の笹と一人一枚短冊が配られている。
途端に彼の頬が夕陽の色に染まったように見えた。
「言うか。短冊に書いた願い事を他人に言う馬鹿はいないだろ。」
お前は言えるのか、とでも言うような視線を向けられて私もむっとしてしまう。
「わ、私だって言わないもん。内緒、内緒。」
そうやって二人で何かと言い合っているうちにますます浜は広がり、海面のところどころに祠の頭が見え隠れしてきている。門を守るように無数にある小さな祠は普段は海の下に眠っているが、今日だけは仕事をする。それはろうそくの明かりが灯され、門の存在を示す道しるべとなるのだ。
空は少しずつ闇に包まれていく。
私はふとまた不安に押しつぶされそうになる。すべてはあの夜の不思議な出来事が原因だろう。
それを思い出しただけで背筋に寒気が走り、手が震える。
何もかもが怖い。そう、自分さえも怖いのだ。
「怖いのか? 」
突然うつむいてしまった私を妙に思ったのか、横から董麻の視線を感じる。そして小刻みに震える私の手をそっと握ってくれる。
「大丈夫だ、みんながいる。俺もいる。心配することはないさ。」
足元をじっと見ていた私は、彼の優しくしかし力強い言葉と温かい手に触れ、思わず涙があふれるところだった。
やっとの思いで顔を上げると、心配そうに私を見つめる彼の視線が飛び込んできた。
私は意識的に目が逸らせないでいる。
どうして彼に惹かれてしまうのだろう。
この村に越してきた時もそうだったように、まだお互い知らないことが多いはずなのに、なぜか惹かれてしまう。
まるで二人が惹かれあうことが運命なのではないかとも思ってしまう。
「せんぱ〜い! もう食事の準備がととのい……」
一瞬で現実に引き戻された私と彼は、ほぼ同時に海岸とは反対を向いた。
そこには私たちを呼びに来たであろう高雅と、彼の口を一生懸命押さえながら「何やってんのよ、今いいとこだったじゃない! 」とすごい剣幕で怒っている里緒、「高雅、それはさすがにKY。」と今日ばかりは姉に共感している伊緒、「そうじゃぞ、水を差すでない、たわけ! 」と前足で高雅のすねを蹴り飛ばす神子の姿があった。
私と董麻は勘違いされてもおかしくない場面を見られていたことに耳まで真っ赤になってしまう。
そのあと彼とは少しぎこちない間合いになってしまったが、私もまだ彼に言いたいことがあった。そして彼もまた私に対して何か言いたげな様子であった。
だが結局、二人とも口を開くことはなかった。
* * * * * * * * * * * *
夜も深くなって潮がすっかり引いた浜に立つ壮大な鳥居は、その周りに集まる祠の灯によって薄明るくライトアップされている。
それはまるで、夜空をまるっきり移したような景色。
よりによって若者が一番門に近い部分を、大人が元の海岸線あたりから村寄りを守るのが暗黙のルールらしい。董麻のお父さんを先頭にまだ大一番の前だというのにすでに少々酔いが回っている大人たちの集団が一致団結する閧の声があがった。
それに比べて私たち若者(と言っても育ちざかりの学生五人だが)の方がよっぽど冷静な気がしてきた。大人たちが頼りないように見えてくるのは私だけだろうか。
そうしているうちに九時を回った。
背後から木と木がこすれるような大きな音がして、鳥居の下にどこからともなく趣深い日本式の門が現れ、扉が開いていた。それは二メートル以上もある、大きな門だった。
それと同時にそれまでは全くなかった魔物たちの気配と殺気が際立って感じられた。
「来たぞ、魔物狩りの始まりだー! 」
私が村に来て初めて見たあのどんよりとした黒い物体たちが山の方から次々と姿を現し、それを与えられた力を呪符に込めて大人たちが祓っていくのが見えた。あちらこちらで雷や炎、水、木の葉などが宵闇を駆けて悪しき根を絶やす。
どうやら私たちは最後の砦を任されているようで、大人たちをすり抜けてきた強者を、高雅の水流が、双子姉弟の電流が、董麻の刀から放たれる強い風が駆逐してゆいく。一等家を継ぐ者の力はさすがとしか言いようがない。
私も負けていられない。
「ほれ海優、正面から二体来るぞ。」
隣にいる神子に言われてすぐさま念を放つと二体は苦しげな声を上げて闇に消えた。
魔物たちと格闘していると瞬く間に時間は過ぎ、気付けば針は十一を指している。最初は勢いに乗って大勢いた彼らも次第に数が減っていた。里緒、伊緒、高雅の三人はついさっき少し休憩してくると言って、持ち場を離れて集落の方へ行ってしまった。私は董麻と二人になってしまったが、それでも大人たちがある程度門前払いしてくれているおかげで手持無沙汰になってきた。ふと門が開かれている鳥居の方を見てみる。
門は開いているだけで誰が出てくることもなく、入ることもない。
神様がこの世界へやってくることなど早々ないのだが、良心を認められて神の門をくぐる者さえいないのかと思うと、この門の存在意義が疑問に思えてくる。もはや必要ないのであれば、神がなくしてしまえば一見落着なはずだ。
考え事をしながらかつ周囲に目を配っていると、それは突然襲ってきた。
「そろそろ頃合いだな、太陽の血を引く娘よ。」
あの魔の声が脳裏に響いてきた。それと同時に心と体を引き裂かれるような激しい痛みが全身を駆け巡り、私は両手で身体を抱えるとその場にうずくまるしかなかった。
「海優? おい大丈夫か、海優! 」
急に倒れ込んだ私に董麻が駆け寄ってきたが、彼がその後何を言ったのかは私には分からない。体が軋み唸るような凄まじい痛みに声を上げるのが精いっぱいで他を気にする余裕などこれっぽっちもなかったのだ。
何かが私の心の奥から突き破って出てくる。
彼のぬくもりは伝わってきたが、私は訳の分からない悲鳴を上げ続けていた。ここであいつに気を許せば、私は二度とこの身体に戻ってこられない、待っているのは闇の深淵のような気がしてならない。
涙目になる瞳から、ふいにコンタクトレンズが落ちたような気がしたが確かめることはできなかった。
「我は八岐大蛇。天界へ昇り、今度こそ神となるのだ! 」
激しい拒絶の悲鳴にもかかわらず、私の意識は強制的にブラックアウトさせられた。
* * * * * * * * * * * *
「いやぁ――――! 」
断末魔のような悲鳴を上げた直後にぐったりとして動かなくなった海優を、董麻は苦虫を噛み潰したような顔で見つめていた。神子とは目を合わせただけで会話が成立する。
やはり最悪の事態になってしまった、と。
彼女が意識を失っている間にやるしかないと傍らにある刀に手をかけた董麻だったが、それはか細いが信じられないほど強い力を持った手によって阻まれた。
「我がさせると思ったか、鷲の小僧。」
気を失っていたはずの彼女が不敵な笑みを浮かべながら、その手で董麻の手首をギリギリと握り締めている。
その双眸は虹彩の色を失っていた。
彼女は琴峰海優なのか。
いや、誰が見てもそれはまったくの別人としか思えなかった。
董麻は刀を持ち直して、彼の手を離して立ち上がった彼女から間合いを取った。もちろんまだ光を帯びながら開いている門を背に。
「やはり貴様か、海優にとり憑いていたのは。当の昔に葬られたはずだと信じていたのだがのう。」
董麻の隣に並んだ神子が最大の嫌味を込めて言った。
彼女はその笑みをいっそう深める。
「ほう、誰かと思えば宗像三姉妹の末っ子か。そうだな、我は昔葬られそうにはなったが紙一重で免れた。あのときの復讐と今度こそ偉大なる神になるために力を蓄えていたのだ。ふふ、この娘の中は快適だったぞよ。なにより人間どもの悪念がたんまり集まったわ。」
大勢の人々が行き交う都会には人が多いので悪念や悪心がたくさん生まれる。そこで大半を過ごしてきた海優の身体は大蛇にとって格好の巣だったようだ。
董麻は鈍い光を放つ刀の先を彼女に向けた。
「誰であろうと彼女に取り憑くものは容赦しないぞ。」
むき出しの敵意を向けられてもなお彼女は平然としていた。むしろその色がない双眸を細めながら徐々に近づいてくるのだ。
「鷲の小僧、いや海の神か。相変わらずこの女が好きだな。転生して記憶もないというのに惹かれあうとは、織姫と彦星のようだ。くだらない、愛なんて所詮幻にすぎないのに。」
彼女は小馬鹿にするような目を向けながらも歩みを止めない。
董麻と神子はその余裕に押されるかのように門を背に後ずさるが、彼の刃先は揺るがなかった。
「海原の神素戔嗚尊よ、貴様に殺せるか!? 太古に禁断の恋とともに愛した女を、殺せるのか!? 」
彼にできるわけがないとでも言うような、狂った高笑いをする彼女に、董麻は刀を握りしめたまま歯を食いしばった。
遠い昔の思い出が蘇ってきて決心が揺らぎそうになる。
こうなるとわかっていた、わかっていたはずなのに。
こうなるなら、あのとき言いたいことを言っておけばよかったとも思ってしまう。愛というものは時に強く、時に苦しいもの。董麻は絞り出すような声で言った。
「俺は今日こそこの手で貴様を殺さなければならない。たとえそれが愛する人を殺すことになったっとしても、必ず。」
彼の目に、もはや感情はなかった。いやなかったというより、押し殺されたというべきであろう。
その本気に彼女も危険を察知したのか、途端に鋭いまなざしに変わる。
「ふん、心得だけは認めてやる。だがお前はこの愛する女の手で殺されるのだ! そして我は神となる! 」
彼女は砂を蹴ると、凄まじい殺気や周りにまとう黒い怨念と共に一気に彼との間合いを詰めた。強行突破という手段に出たようだ。
しかし彼は冷静だった。
磨かれた刀が振り上げられる。
「許してくれ、海優。」
小さくつぶやかれたその言葉はそのあと彼が放った嵐のような風の中にさらわれていった。
「風よ、悪しきものを祓え! 」
刀が振り下ろされたと同時に、人間など軽く吹っ飛んでしまいそうな爆風が一帯を暴れまわった。木々が唸り声を上げ、砂が巻き上げられ、祠に灯っていた明かりが消える。
それが治まったとき、目の前には傷だらけの彼女が呆然と立っていた。
倒せなかったのか。
一部始終を見ていた董麻と神子は肩を落としかけた。
「ぐっ、せっかく力を蓄えたのに、それが全て水の泡……。死にたくない、我は、我は……。」
苦し紛れの戯言と共に彼女の身体から黒い大蛇の魂が抜け、今度こそ夜の闇に消えていった。糸が切れたように彼女は湿った砂の上に倒れる。
「海優! 」
董麻は刀を投げ出して彼女の元へ駆け寄ると、風に斬られた無数の傷でいっぱいの身体を抱きしめた。あれだけ彼が振り絞った力をまともに受けたはずなのに、海優はかすり傷ばかりで致命傷はなく、気を失っているだけだった。
奇跡なのか、それともこれが二人の運命だったのか。
そのとき、誰も行き来することがなかった門から、三つの影がこちらへやってくるのが彼の視界に入った。
そのうち人間ではない二つの影がものすごい速さで突っ込んでくる。
「「我が妹よ――!」」
なんと、神子と全く同じ姿の雌鹿が二匹。
その後ろをゆっくりとついてきた男はまだ若く、いくらか面影が董麻と似ている。
「おう、愛しの姉様方ではないか! 」
神子が言葉を発した。
どうやらその二匹は宗像三女神の長女田心姫命と次女多岐津比売命らしい。さすが三姉妹、性格も似たもの同士のようだ。
一方董麻はもう一人の男と向かい合っている。
「我が弟素戔嗚尊よ、どうやら昔のけりはついたようだな。」
董麻、いや素戔嗚尊は兄に向かって笑みを浮かべる。
「鷲谷の息子として潜入していたかいがありましたよ、兄上。それにこうして愛する人と再び巡り逢えたわけですし。」
その男――月の神、月読命――は重い溜息をつくと「一応禁断の恋なんだがなあ……。」とつぶやいたが、素戔嗚は聞かなかったことにする。
「まあ姉上は転生して記憶もないのだからよしとしよう。誰が何をしても二人の思いは断ち切れないようだからな。だが一度戻ってこい。今回の件も含めて色々と話がある。」
月読命は拒否は認めないとでも言うように素戔嗚の返事を聞かずに門の方へ歩いていってしまう。気にかけていなかったが、時刻はもう十二時十分前。あと十分で門は閉まってしまうのだ。
彼は砂浜へ移動するとまだ目を覚まさない海優の身体を横たえる。
空には月がなく、満点の星空が広がっている。
あのとき、彼女と誓約をしたときもこんな星空だった。
太古に恋をしたときと変わらない顔を見て、離れたくないという思いもないわけではなかった。だが彼女は自分が愛した人の名ではなく、琴峰海優としてこの世界で生きている。自分も素戔嗚尊としてではなく、鷲谷董麻として彼女と共に生きていくために、けじめをつけに行かなければならない。
彼はポケットから何かを取り出すと彼女の手に握らせ、閉じかけようとしている門に向かった。
「海優は連れていかないのか、素戔嗚。記憶はないが彼女は天照……。」
「いや、事を片付けて戻ってくる。その時は、鷲谷董麻として。」
過去の出来事のすべてを知っているうえで声をかけた神子の言葉を彼はさえぎった。何を言おうとしているのかは、分かっていたからだ。
彼の答えに神子は頷くと目を細めた。
「わかった、だが早く帰ってくるんじゃぞ。海優が寂しがる。それに早く好きだと伝えんと、別の男に……。」
笑みを浮かべて茶化してくる彼女に彼は顔だけの苦笑を漏らした。
他の男に取られてたまるか。そう口が裂けても言わなかった。
光を放つ門の前で彼は砂浜の方へ振り返った。
運命は、何度でも繰り返す。この星合の日に。
彼は柔らかい優しい笑みを残すと、門の光の中へ消えていった。
まもなくして門は閉ざされ、今年も壮絶な戦いが繰り広げられた天の浦に平和の静寂が広がった。
時計は八月八日、午前〇時を指していた。
* * * * * * * * * * * *
重い瞼を開いたとき、最初に飛び込んできたのは三つの鹿の頭だった。
「なんで神子が三人もいるの。」
私の第一声はそれだった。身体を動かすと節々がきしむように痛い。夢を見ているのかとも考えたが、次第に意識がはっきりとしてきて、明らかに三匹の鹿が、私を囲んでいるのが分かった。
「おう海優、気がついたか。紹介しよう、姉の……」
神子、らしき鹿が長ったらしい説明をしてくれたが、結局分かったのは居候のじゃじゃ馬姫が二人増えたという何とも面倒くさい事実であった。
そして周りを見て初めて、もう日付が変わり、門が閉じられていることを理解する。すでに潮は満ち始めていて、光の消えた星々が役目を終えて海に沈んでゆく。
私は心と身体が引き離されたあのときから今までの記憶が全くなかった。何者かに支配された自分は何かをしたのだろうか。しかしその何者かがまだ自分の中にいるという感じはもうなかった。
何はともあれ、すべて終わったようだ。
ふいに自分の手に何かが握られていることに気がつく。
開いてみると、羽のネックレスと一枚の短冊があった。
「……董麻? 」
そういえば隣にいてくれた彼の姿が見えない。
そのとき、私の脳裏に、ある記憶が流れ込んできた。それは遠い遠い昔の記憶だった。今のような星空の中に佇む私と彼。行われる誓約。彼を愛する私と、私を愛する彼。そして決別する二人。
その記憶だけでは私が誰なのか、彼が誰なのか、どういう場面なのか、何もかもが分からなかった。
しかし私たちが遠い昔に出逢い、愛し合っていたことは真実。
私が彼に出会って惹かれたのは偶然ではなかった。私と彼が出会うことは当の昔から決まっていたように感じられる。
これは運命だったのかもしれない。
短冊には端正な文字で、こう綴られていた。
「一年後、またこの場所で会おう。」
彼が私をどう思っていたのかはわからない。でも私は彼のことが好き。
彼がどうしていなくなったのかはなんとなくわかったが、あえて語らないでおこうと思う。彼も私同様、特別な隠し事をしていたようだから。
それに彼は約束をしてくれたが、私はたとえくれなかったとしてもまた逢えると信じている。
彼と私。太古に別れた二人が長い月日を経て今再び出逢えたのだから、また、必ず。
これが私たち――星合の日の運命。
待っているよ、ここで。
次に逢ったときは言うから。あなたが好きです、って。
私は傷だらけの身体をゆっくりと起こすと、天を仰いだ。
星々がひしめく夜空の中、こと座ベガとわし座アルタイルがひときわ眩い輝きを放っていた。
FIN.
こんにちは。作者の前野巫琴です。
「星合の運命」を読んでいただき、ありがとうございます。楽しんでいただけたでしょうか?
初投稿の作品なので、何か至らぬところがありましたらご助言くださいね。
さて、あとがきらしいネタバレを……。
今回は「七夕」を題材に執筆しました。
七夕と言えば、織姫と彦星の有名な話がありますね。中国から伝わったという説が有力ですが、『古事記』『日本書紀』には、姉の太陽神「天照大御神」と弟の海原の神「素戔嗚尊」が天の川を挟んで誓約を行ったという記述があり、それが由来であるという説もあります。今回はそのマイナーな説を題材に書き進めてみました。ちなみにタイトルの星合は、七夕の別名を指しています。
めげずに伏線を張りましたが、わかりにくいものもあるので、ここでいくつか解説しておきます。
①じゃじゃ馬姫、神子たちの秘密
主人公海優の前に最初に登場した神子は、宗像三女神の一人で終盤に二人の姉も出てきます。彼女らを選んだのはちゃんと理由があります。村の浅瀬に鳥居があるあたりで気付いた方もいるかと思いますが、私の中では舞台を広島の厳島神社を参考にしています。その厳島神社に祀られているのが宗像三女神だから、というのと、彼女らは先述の誓約で生まれたという二つの理由があって、採用しました。じゃじゃ馬姫、というのは単なる私の想像ですが。
②星の名を持つ登場人物
私、非常に星が好きでして「七夕」というテーマもそんなもんで選びました。今回の登場人物は一等家=一等星ばかり。おわかりでしょうか?
南十字→みなみじゅうじ座ミモザとレグルス、白鳥→はくちょう座デネブ、そしてメインのお二人、琴峰→こと座ベガ、鷲谷→わし座アルタイル。特にベガは別名織姫星、アルタイルは別名彦星なので、ここでも七夕につながっているというわけです。いやー、一等星全部書き出して苗字に出来そうな星座探すのは、大変でした。
③二人の運命とは?
結局メインの二人は何だったのか、というのがいまいち理解できなかった方もいると思いますので、簡単に解説。
元々姉弟だった天照と素戔嗚は禁断の恋ながらお互い愛し合っていたのですが、誓約を境目に二人は離れ離れになります。まさに織姫と彦星ってわけです~。そして本文で「運命の再会」。天照は転生して主人公、素戔嗚は昔退治し損ねた八岐大蛇を追って溶け込んだ鷲谷家の次男として。
お互い逢っただけで惹かれ合うって、なんだか素敵。書いててしみじみと思いました(おい)。
で、何が言いたいのかというと、天照の前世を持つ海優は織姫、素戔嗚本人の董麻は彦星なわけですから、月日が流れたとしても必ず二人は「めぐり逢う」はずですよね? だって織姫と彦星も年に一度必ず逢えるんですから。織姫と彦星、天照と素戔嗚。七月(旧暦は八月)七日は「めぐり逢う運命の日」つまり「星合の運命」ってわけです。董麻が残した短冊の言葉も七夕っぽいでしょう?
雑なネタバレではありましたが、どうでしたでしょうか。
作者の作品とあとがきはざっとこんな感じでありますので、イラッと来られない方は是非気長にお付き合いくださいませ。
これにて、あとがきを締めさせていただきます。ありがとうございました。