姫の素顔
無骨な青年が、何を考えているかわからない仏頂面で顧問の教師と向き合っていた。
御子神トシヤという彼は、今、重大な選択を迫られていたのだが……。
「じゃあ、やめます」
口にした当人が驚くくらいすんなりと出た退部の申し出は、若い顧問を驚かせた。
自分がそれをほのめかせていたくせに、いざ言われると狼狽して言葉が出てこないというのは、滑稽というほかなかった。
きっと、彼の中ではトシヤは激しく食い下がってきて、指導者らしくうまく説得して別の道に進ませてやる、というのが理想的なストーリーだったのだろう。
実際、トシヤも自分はもっと食い下がってみっともなく執着するものだと思っていたのだから、どうしてこんなにもあっさりやめると言えたのかが、不思議でならなかった。
「退部届、どうすればいいですか」
「ん、お、学校側の、が、あるから……」
衝撃から立ち直れない顧問が、いそいそと退部届を探して持ってきた。
親の署名が必要なようで、この場で書いて渡すということはできなさそうだった。
「じゃあ、これ書いてきたら、渡しに来ればいいですか」
「あ、ああ。いなかったら受付のところに置いておけばいいから」
「わかりました」
トシヤは退部届を受け取ると、ありがとうございました。と深々と頭を下げて体育教員室を後にする。
廊下で退部届を皺にならないようしまいこむと、鞄を背負って歩き出した。
ちょうどこれから部活の時間というのもあってか、辺りはざわざわと騒がしい。
楽しそうに道具を持って活動場所に移動する生徒たちは輝いている。
もうこの喧騒に身を浸すこともないのだなと思うと、少しだけ寂しいような感じがあった。
(俺って薄情だったのかな)
部活をやめるときというのは、もっと激しい感情が浮かんでくるものだと思っていた。
中学で引退したときは、漠然と高校でもやるだろうという気持ちがあったから、そうならなかったのだと思っていた。
だが、いざこうなってみて、なんら動じていないということがおかしいような気がしている。
しかも怪我が理由なのに涙すら出てこないというのは、少し自分が恐ろしく思えた。
適当に部活動をしていたのなら、意外でもない。
けれど、トシヤはたしかに活動に励んでいたし、楽しんでもいた。
推薦こそ受けなかったが、それなりの結果だって出していた。
それくらい、打ち込んでいたはずなのに。
「まぁ、案外そんなもんなのかな」
すっとやめていく先輩もいたし、どんな理由にせよ、やめるときはそういうものなのかもしれない。そう結論付けて、気持ちを切り替える。
これからはこの時間に暇ができてしまうのだ。家に帰って遊び惚けるというのもいいし、なにか別の、文化系の部活に入るというのもありだろう。
いっそ、ガリ勉君にクラスチェンジというのもありかもしれない……そこまで考えて、トシヤは鞄を下ろした。
「課題の、いれてきたっけな」
たしかしまってきたはずだが、と廊下に座り込んで中身をあさる。
どこをどう探しても、課題のプリントは見当たらなかった。
(めんどくせーけど戻るかぁ)
この授業は教師が面倒くさいから、無視するわけにもいかない。
誰かが課題を忘れると、授業の開始を遅らせて、それじゃ社会でやっていけないだのと説教をし始めるのだ。あれは本当に不快でたまらない。
はぁ、と溜息を吐いて、トシヤは教室に戻るために歩みを進める。
誰かが開けっ放しにした廊下の窓から、ウォーミングアップをする運動部の掛け声が聞こえてきていた。
少し前までは自分もああして声を張り上げていたのに、こうして離れてみるとやかましいことこの上なかった。
そう感じてしまうということは、もう心のどこにも未練のようなものはないのだろう。
(それか、離れたくてしかたないとか、かねぇ)
いやなものだと感じようとしているだけ、なのかもしれない。
いつの間にか立ち止まってたのに苦笑して、また歩き出す。
そうして進むと、いよいよ自分の教室が近づいてくる。
遠目に、そのドアがピッタリ閉じているのが見えた。
最後に出て行った人が閉めるのが暗黙のルールになっていたが、実際それを守っている人などほとんどいない。
ほかの教室を見れば、ドアが中途半端に開いているものばかりだ。
(誰かいる……のか?)
戸はカタカタと音を立てて震えている。教室の窓が開いている証拠だった。
別に悪いことをしているわけでもないのに、いつの間にか、息を潜めて足音が鳴らないように歩いていた。
(まさか、教室でそういうことしてんじゃねーだろうな)
見つかれば退学間違いなしだが、だからこそ燃え上がるというのもあるのかもしれない。
向こうにバレないよう、ドアにつけられた小窓をゆっくり覗き込んで……。
――思わず、息を呑んだ。
沈みかけた夕陽の差す、うっすらと明るい教室の窓際に一人の少女が立っていた。
リボンの色こそ違うが、この学校の制服を着た彼女は、ふわふわとしたクセのある栗色の長髪を風で膨らませて、ぼうっと外を眺めていた。
照明を消しているからか、外のほうが明るくて、その顔はよく見えない。
窓枠に腰掛けているから、身長もわからない。
ただ、スカートから覗く足が細長く色っぽいこと。シャツの先から覗く、机に添えられた手が壊れてしまいそうなくらい白いこと。
そして、細められた目が、ぞっとするくらいに綺麗だということくらいはわかった。
(だれ、だ)
あんな美人、見たことがなかった。
リボンの色は上級生でも下級生でもない。少し古いタイプの制服だろう。近所のお姉さんがあんなリボンをつけていたようにも思う。
(まさか幽霊か?)
それにしては生々しすぎる。
いや、何か強烈な未練があるからこそ、そういう生々しさがあるのかもしれないが……。
「――綺麗だ」
ともかく、彼女は美しかった。思わず見惚れてしまうほどに……。
――トシヤは彼女に一目惚れしていた。
すっと、懐に手を差し込んで、不躾に携帯で写真を撮ってしまうほどに。
ぴろん、と間の抜けた音がやたらと大きく響いた。
「誰!」
突き刺すような声が響いた。
女にしては、低い声だった。
あっ、と声をあげそうになるのをこらえれば、窓の外に向いていた顔が、小窓を睨みつけているのに気づく。
……目があった。
薄暗くて見えにくい顔にはまった二つの瞳が、いやにくっきりと見えた。
丸っこいアーモンド型の目……それを彩る長い長い睫毛までもが輝いて見えた。
爛々と光るそれを見ていると、まるで金縛りにあったように体が動かなくなる。
今ならまだ逃げられるのに、足はピクリとも動かなかった。
彼女がすたすたと歩いてくる。ドアが開く。目の前に現れた姿を見て、意外と背が大きいんだな、なんてどうでもいいことを考えていた。
「……盗撮魔」
詰るような調子の言葉に反論できるはずもない。
写真を勝手に撮ったのは事実なのだ。
「ああ……ごめん」
謝りながら、どこかで見た顔だなと思っていた。
制服も少し違うのに、普段からこの顔を見ているような気がしてならない。
「貸して」
言われるがまま携帯を渡せば、表示されている写真を見て、彼女は笑った。
口角だけがうっすらと上がる、特徴的な笑い方。
「へえ、キミ、才能あるね」
その笑い方で、ふっと名前が浮かんだ。
「お前、姫か?」
「……よく、わかったな」
トシヤの言葉に、少し目をしばたたかせていた彼女はそれを肯定した。
姫、というのは彼のクラスメイトで、彼女と同じような栗色の髪を、男だてらに長く伸ばしている灰谷ワタルのあだ名だ。
「女装癖の変態だとは知らなかったな」
「そういう御子神クンこそ、盗撮癖があるとは知らなかったよ。部活はどうしたんだい」
「ああ、やめてきたところだ」
「ふぅん……」
普段、クラスで見せている気さくな顔ならば、ここは慰めでもしてくれそうなものだったが、どうやらワタルの本性はそうではないらしい。
「そろそろ携帯返せよ。写真なら消すからさ。秘密にすりゃいいんだろ?」
「いいや、消さなくていいよ。その代わりに、部活をやめたばかりのキミに協力して欲しいことがあるんだけど……どうかな?」
「拒否権なんかないんだろ」
ここでNOと言えるはずもない。
ワタルは色々な人に気に入られているから、首を振れば何をされるかわかったものではない。
それに、どうせ暇なのだ。自分の首が掛かっているとはいえ、内容次第では協力するのもやぶさかではない。
「でもま、内容次第だな。あんまりヤバイのは、無理」
「盗みとか?」
「させたいのか?」
「違うともさ」
くるり、その場で反転したワタルが、トシヤの手をとって教室に引き込んだ。
ドアをぴったり閉めると窓際へと戻っていく。
そして背を窓に押し付けて、きゅっと目を細めて笑った。いつもの笑い方とは違う、ズル賢い笑顔。
――どきりとした。
「写真をね、撮って欲しいんだよ。この格好の写真を、できるだけたくさん」
「どうして俺に? お前の取り巻きにもっと上手い奴もいるんじゃないか」
「君が携帯で撮ったコレに才能を感じたから、じゃダメ?」
「……俺、写真のことなんかわかんねーぞ」
そうして求められるのは悪い気分ではない。
だが、ろくに写真なんて撮ったことがないというのが正直なところだった
「それはこれから勉強してもらうさ。でも、すぐにいいところまでいけると思うよ」
くすくす笑うワタルは、本当に女の子にしか見えない。
声が女声よりだったというのも大きいのだろう。普段の格好だとわかりにくいが、女らしい格好をするとそれがはっきりとわかった。
もしかすると、普段はもっと低い声を作っているのかもしれない。
「わかった。わかったよ撮ればいいんだろ。携帯返せよ」
「こんなチンケなカメラで撮ってもらうつもりなんかないよ。まあ、こっちもそう大したカメラじゃないけど」
そう言ってワタルが取り出したのは、彼の掌にすっぽりと収まりそうな小さなカメラだった。
小柄な女優がコマーシャルをしている、有名なブランドのものだ。
それだけ小さくても、子供の頃よく見たカメラのような形をしているのだから、少し驚いてしまう。
「お願いできる?」
「……機能とか、わかんねーぞ」
「そんな大したカメラじゃないって言ったでしょ。起動して、シャッターボタンを押すだけだよ」
面白そうに笑っているワタルからカメラを受け取って、電源を入れる。
キュインと音がしてレンズが伸びた。
「うおっ……カッコいい」
「ズームは根元のところを回せば調整できるから」
いっぱしのカメラの顔になったそれを構えて、うまく映るような場所を探す。
たぶん本当は教室の電気をつけたほうがいいんだろうが、ドアを閉めているのを考えるに、バレることを気にしているみたいだからやめておいた。
素人なりに構図を考えながら、ふらふらとワタルの周りを歩き回る。
何度もなんどもファインダーを覗き込んでは、納得がいかなくて移動する。
さっきの一枚は、うまいこと雲が光を和らげたとか、色々重なった奇跡の一枚だったんだなと思いつつ、ようやくベストポジションを見つけたトシヤはシャッターを切った。
一瞬の後、液晶に表示された写真は、どうもしっくりこない。ろくに検討もしないで、すぐに消した。
それから、それを何回か繰り返して……。
「なあ、どうもこれじゃない感じが出るんだが」
「おやどうしてだろう。さっきはあんなにうまく撮れたのに?」
「まあカメラが違うってのもあるんだろうが……うーん」
このカメラでは見えすぎて粗が気になってしまうのかもしれないし、心情の問題なのかもしれない。
トシヤだけではなく、ワタルを含めて気分が乗っていないのかもしれない。
そういう気持ちを引き出すのもカメラマンの腕なのだろうが、たった今始めたばかりのトシヤにあるはずがない。
ならば、自分の求めるものを素直に伝えるしかないだろう。
「笑ってくれるか」
「十分笑ってると思うけど?」
トシヤの言葉に、ワタルは片方の眉を持ち上げてひょうきんな顔を作って見せた。
たしかに彼は笑っている。笑っていると言える顔だ。
けれど見たいのはそんな顔ではない。
トシヤは軽く首を振る。
「そういう作り笑いじゃない。いつもの口元だけの笑みでもない」
「じゃあ、どういうものが欲しいんだい」
「心からの笑顔だ。ついさっき、外を眺めていて、ふいに出てきたやつみたいな……」
「そんなこと言われてもね。僕にできるとでも?」
言ってワタルは肩をすくめる。
トシヤとしても、無茶な注文をしているというのはわかっているのだ。
けれど、いい一枚を撮るためにはこなしてもらう必要がある。
「やれよ。撮れっていうなら、お前もベストを尽くしてくれ。写真ってのは、そういうチームプレイなんじゃないのか」
「おー、体育会系は言うことがハードだね」
そこまで言うほど激しいことを言っているとは思えなかったが、ワタルなりの茶化しなのだろう。
少し待ってくれ……そう言ったワタルは、目を閉じて黙り込んだ。
何かを思い出すようにしながら、唇が小さく動いている。呪文を唱えて、自己暗示でも掛けているかのようだった。
トシヤはその姿を見つめながら、カメラを構えて黙っていた。
ファインダーを覗き込んで、ただただその瞬間が来るのを待っていた。
そして――。
「いいよ」
小さく、唇が震える。ゆっくりと瞼が開いていく。
口角が持ち上がる。開いた瞼がしぼられて、目が横に広がっていく。
どこか甘える風に、顔が傾いで――。
かしゃり――。
シャッターが切られる音が響いた。会心の出来だと思った。
液晶を見れば、どこか超然としていながらも、生々しい笑顔を浮かべたワタルがそこにいた。
思わず笑みを浮かべながら液晶を見せると、ワタルも少し驚いた様子だった。
「すごいじゃない」
「自分でも、ちょっと引いてる」
「どうして? 才能があるってことじゃないか」
褒められるのは嬉しいのだが、ある日突然こんなものが撮れるというのは、なんだか自分に不釣合いな気がして恐ろしいとトシヤは思う。
才能の一言で片付けてしまっていいのだろうかとも思うのだ。
そういう才能の塊たちと戦ってきたからこそ、尚更。
「うーん……まぁ、モデルがよかっただけだろ」
「はは、誤魔化しにきたね。ま、美しいのは当然だけどね」
くすくすと笑ったワタルが、その場でくるくると回ってみせる。頭がどうかした人のようだ。
「だって、この姿は僕の理想像なんだからさ」
「女装した自分が理想の彼女とか終わってるだろ。そんな変態だから、あれだけ女に囲まれても平気な顔できるのか?」
「口が汚いなぁ。自覚はあるからいいんだよ」
「へいへい……でも、その格好を灰谷って呼ぶのは抵抗があるんだが」
「あー、気分が乗らないってやつ?」
率直に言えばそうだった。
その名前を呼べば、目の前の存在が男だと思い出してしまう。
わかっていて撮っているのだから、どうしようもないといえばそうなのだが……。
どうせなら、可愛い女の子を撮っていると思い込みたいのだ。
「じゃ、名前でも付けようか?」
「なんだよ、ハーマイオニーちゃんとかか」
「なにそれ? んーどうしようか」
悩んでいるワタルを見て、軽口のつもりで思いついた名前を口にした。
「コウコでいいんじゃねぇの」
「漢字に子をつけて読み替えただけじゃないか。安直過ぎない?」
「こういうのは、わかりやすいほうが切り替えやすいだろ」
「かけ離れてるほうがそうだと思うけど……ま、この辺はキミの好みに合わせるとしよう」
コウコ、コウコと何度か名前を呼んで、しっくりこないという顔をしつつもワタルは薄く笑った。
「じゃ、これからはこの姿の時はコウコって呼ぶように」
「オッケー。よろしくな、コウコ」
「うん、よろしくねトシヤ」
そうしてワタルが浮かべたのは、今日見た二つの笑みとも違う、満面の、といえそうな美しい笑顔だった。
あまりの美しさに、我知らずのうちにシャッターを切っていた。
「おやおや? そんなにいい笑顔だった?」
「みたいだな……」
どうしてそんなことをしてしまったのかはわからないが、いい写真が撮れたのだから気にしないことにした。
それからカメラを返して、連絡先を交換すると、トシヤはそそくさ帰ろうとする。
「ところで、キミは何かを取りに来たんじゃないの」
そんな彼にスカートからズボンに履き替えながらワタルが告げた。
下着までこだわっていたのか、可愛らしい三角形の布がアレの形に膨らんでいるのが見えて、咄嗟に目を逸らした。
「どうかした?」
「ん、いや、なんでもない。そうだよ、忘れてた」
机を覗き込めば、使う予定のない教科書の上にプリントがあった。
ここに無ければ、延々文句を言われながら、改めてプリントを貰うしかなかった。
「はぁ~助かったぁ」
トシヤが机から引っ張り出したプリントを見てワタルが告げる。
「ああ、それならすぐに終わるはずだよ。もしわからないところがあれば、メールで訊いてよ」
「お、写真を撮る代わりにそういうサービスありか?」
「まあ、そんなところだよ」
それなら、今度のテストはいい点が取れるかもしれない……そんなことを考えながら、トシヤはワタルと別れる。
校門で振り返り、両手で視界を真四角に区切ってみる。
「まさか、こんな才能があったとはな……」
しばらく何かをする気は無かったのだが……。
部活の代わりに打ち込める何かを、見つけられたような気がした。