向こう側で微笑んで
眼前には空虚な雑踏が広がっている。
何度シャッターを切ってみても、出来上がるのはロクでもない写真ばかりだ。
芯のない、空っぽでしかないもの。
けれどそれを、他人はいい写真だという。
それが欲しいと、言ってくれる人が居る。
トシヤの目には小手先で撮った写真にしか思えないというのに、何か強烈に訴えてくるものがあるという。
あるとすれば、それは飢餓感なのだろう。
彼の撮る写真には、決定的に何かが欠けている。
もう一度撮りたい景色があって、ずっとそれを探しているからだ。
他人には、その飢えが魅力的に映るというだけの話。
「お前は、今どこに居るんだ……」
ファインダーから目を離して、トシヤは空を見上げる。
向こう側に居て欲しい、たった一人の、愛おしい存在の名前を呼びながら。
***
トシヤが撮影を終えて家に帰れば、部屋の中が掃除されている。どうやら、出かけている間に妹が来たようだった。
テーブルの上には、『ちゃんとご飯食べること!!』という叱責の言葉と共に、作り置きにされた惣菜の名前が列記されている。
冷蔵庫を開ければ、タッパーに詰められたそれらが、きちんとラベリングされて並んでいた。
その威容に気圧されてしまって、食事をする気が遠のいていく。
いつもそうして、ほとんど食べないのだから、ダメな兄貴になってしまったものだなと思う。
「まぁ、少しだけ食うか……」
これから少し忙しくなるのだ。何も食べないで倒れては、迷惑を掛けてしまう人たちがいる。
家族ならばまだしも、ビジネス上の相手だ。
いつ途切れてしまってもいいと思っている縁だが、迷惑を掛けてしまうのは申し訳ない。
くじ引きの気分で適当にタッパーを引きずり出して、皿に出さずそのまま食べ始める。
味は……よくわからない。妹の料理の腕を考えれば美味しいはずだが、ずいぶんと長いこと味というものが遠のいてしまっている。
湿った何かが擦り潰れて、泥のようになっていく感覚を味わいながら、トシヤはベッドにもたれかかる。
ちょうどそこからは、壁一面に貼り付けられたコウコの写真が見える。
その中心、目が合うように貼り付けられているのは、最後の日に撮ったワタルの写真だ。
今見れば、どれも稚拙な写真だ。もっといいやり方もあったろうにと思わなくはない。
だが、当時はそれが全力で、二人ともが喜んでいたのだから、大人気ない感情でしかない。
ワタルに隣に居て欲しいから、もっと別のやり方があったはずだと思っているだけなのだ。
……そうしようと二人で決めたのに、弱い自分が嫌になる。
「そろそろ、印刷しなおさないとな……」
直射日光が当たらないような配置にはしてあるが、それでもずいぶんと色褪せてきている。
まるで記憶が劣化していくように、色鮮やかだったそれらは、もうほとんど輪郭だけのものだ。
目を閉じれば、今でもあの匂いが、熱が鮮明に思い出されるのに、形に出力したものが先に劣化していくというのは、おかしな話だった。
トシヤがいつまでもそうして割り切ることが出来ないのは、ワタルに置いていかれたような気がしているからだ。
絶縁は二人で決めたことだったとはいえ、あまりにも唐突にワタルとの縁は切れた。
いいや、切られた、という方が正確だろう。最後の写真を渡した次の瞬間には、もう連絡が取れなくなっていたのだから。
〈今まで本当にありがとう。愛してる〉
そう末尾に書かれたメールだけを残して、ワタルはいなくなった。
冬休みが明けて、会話せずとも存在は感じられるだろうと思っていたトシヤの甘っちょろい期待を、彼は打ち砕いていった。
――誰にも知らせずに、彼は転校して行った。あの豪邸は売り払われ、ミハルにすら連絡が付かなくなった。
それは、ワタルのダメになりたくないという願いを叶えるためだったのだろう。
会話できるような距離にいれば、いずれは話しかけてしまう。
お互い好きあっているのだから、思春期の猿が、それを上手く抑制できるはずもない。
そもそも、全ては抑制できなかったところから始まっているのだから。
そうして置き去りにされたトシヤは、心の穴を埋めるように遺されたカメラで写真を撮り続けて、いつの間にかお金を稼げるくらいにはなった。
とはいえそれは、写真家と言えるようなものではなく、ほとんど趣味の延長のようなものだと、彼は思っている。
それでもわざわざ連絡を取ってくる輩がいるくらいには評判がいいらしいのだから、ワタルの目利きは正しかったのだろう。
ミハルと同じように、彼もまた、モノを見抜く目があったということなのだ。
(漫画みたいなことがあれば、幸せなのにな)
フィクションのように、劇的な再会があれば、と思う。
だが、そんなことが起きるほど大っぴらに活動していないのだから、夢のまた夢だろう。
普通起こらないようなことを描くから、フィクションは感動的なのだ。
そんなことを考えていると、いつの間にかタッパーが空になっていた。
正直、食べた気はまったくしなかったが、これで倒れるということはなくなっただろう。
「寝るか……」
タッパーを片付けて、歯を磨いて布団に潜り込む。眠らなくてはならない。
明日は仕事の約束がある。必要としてもらえる間は、応え続けようと思う。
飽きられたなら、その時は……。
***
それからしばらくして、いつものように依頼のメールをチェックしていると、奇妙なメールに出くわした。
曰く、うちの庭を撮って欲しい。記載された条件は、まるでトシヤのことをよく知る人物が彼を呼び出すために設けたとしか思えないようなもので、画面の前で顔を顰めてしまった。
あまりにも怪しいとしか言いようがなかった。とはいえ、こんな木っ端の人間を嵌めたところで相手にメリットがあるとは思えないし、誰かに紹介でもされたのだろう。
最近は人物ばかり撮っているが、一時期は風景専門だったから、その時期にお世話になった人の関係者なのかもしれない。
「まあ……他の人との兼ね合いかな」
呟きながら同時に届いていた依頼のメールを整理すると、まるで狙ったように暇な時期に指定がされているのがわかった。
ますます怪しいが、記載されていた住所や連絡先を調べてみても、不審な情報は出てこない。
だが、その二つは、どこかで見たようなことがあるような気がしていた。
「どーすっかねぇ……」
しばらく唸りながらメールと睨めっこしていたトシヤは、やがて決心したように返信を書き始める。
どうせちゃらんぽらんな人間なのだ。
罠ならば、どうとでも好きにして貰えばいい。
メールを送信すると、向こうもちょうどチェックをしていたのか、すぐに返信が来た。
冷静ながらも喜びの滲む文面を見ていると、疑ったのが申し訳ない気分になってくる。
これは、気合を入れて撮らなくてはいけないかもしれない。
カレンダーに幾つも予定を書き込むと、庭を上手く撮れるように練習に出掛けることにした。
そうして、ちまちまと練習をしながら他の依頼をこなしていると、あっという間に撮影日になった。
場所は、トシヤの住まいから遠く離れた市にあった。地図で調べてみると実家の近くだったので、それが既視感の原因なのかもしれないと、電車に乗り込んだ。
だが、駅が近づくにつれ、既視感がどんどん強まっていく。遥か昔に、自分はここに来たことがあるような気がしていた……。
そして、駅に降り立って、気づく。
「ここ、ワタルの家の……」
あの頃と比べれば、駅前は随分とひらけている。幾つものビルが林立し、タクシー乗り場が別の場所に作られていたりと、再開発がされていた。それでも駅の逆側は相変わらず田園風景なのが、なんだかおかしかった。
少し懐かしくなると同時に、まさかを期待し始めていた。あの住所が、ワタルの家のものなのではないかと……。
いいや、それは流石に期待しすぎだろう。きっと、偶然の一致に違いない。
そう気を取り直したトシヤに、懐かしい声が話し掛けてきた。
「やっほ、御子神くん。久しぶり」
振り返れば、少し歳を取ったミハルがいた。スーツ姿の彼女は、買い物の途中という様子ではない。だから、どうしてここにいるのだろう、とは思わなかった。
「……ええっと、つまりそういうことですか」
「そう。私が依頼者だよ」
「なんのために?」
まさか庭を撮ってもらうのが目的ではないだろう。それに、向こうはトシヤの実家の連絡先を知っているのだから、こんな騙し討ちのような真似をする意味がない。
「んー、その辺は外では出来ないよ。察してよ、わざわざ君じゃなきゃいけなかったってことをさ」
つまり、ワタル絡みなのだろう。
彼が今更会いに来てくれるとは思わない。そうなってくれれば満たされる気持ちはあるが、あり得ないだろう。
ならば、その事情を知っているはずのミハルが会いに来ることの意味は……。
「わかりました」
トシヤは答えに気づいてしまった。
出来れば違って欲しいと向けた目から逃げるように、ミハルは車へと走っていく。
それが、答えだった。
***
ミハルに連れて行かれた先は、予想通りあの家だった。人の気配のしない豪邸は、それでも手入れが行き届いていて、不気味な清潔感を保っている。
「買い戻したんですか」
「うん、まあ……ここはここで、思い出の詰まってる場所だからね」
「そう、ですね」
トシヤにも、思い出がある。そのどれもが尊いものだ。
ミハルの先導に従って家の中に入れば、懐かしさが溢れてくる。爽やかな風のようなのに、苦しみが胸を焼いた。
昔は緊張したリビングで、今は何も感じることなくソファに座れば、ミハルはカバンからアルバムを取り出しながら問いかけてくる。
「さて……じゃ、何から話そうかな。君は、何が知りたい?」
「細々したものはどうでもいいです。……あいつは、取り戻せたんですか?」
知りたくないわけではないが、今は過程なんてどうでもよかった。
大切なのは、ワタルが成し遂げられたかどうか。それだけだった。
「風情がないね~。普通、好きな人の離れてた間のことはなんでも知りたいってなるもんだと思うけど」
「俺とあいつは、そういうのではないので」
「ワタルも似たようなこと言ってたなぁ。通じ合いすぎ」
浅く笑いながら、ミハルはアルバムを開いた。彼女や、他の人が撮ったと思しき写真が詰め込まれたページをスキップして、最後のページにたどり着く。
「ま、見てもらったほうが早いというか……私には、判別がつかなくてね」
見せられたのは、大判で出力された、一枚だけの写真が収まったページだった。
それを見たとき、浮かんだのは悲しみではなく、安堵と幸福感だった。
「やっぱり、死んでたか」
「君はそういうのすぐわかっちゃうんだね」
トシヤの態度に、ミハルはどこか呆れたような笑みを浮かべていた。同じように、苦笑を返した。
「昔より、敏感になった気がしますよ」
拝見します、とアルバムを受け取って、トシヤは写真を念入りに見始めた。
体を覆い尽くすような献花の中、眠っているような穏やかな顔で棺に横たわっているワタルは、惚れ直してしまいそうなくらい美しい。
その透き通るような美貌は、男にも女にも見える。たぶんきっと、見るものが望んだ性別に見えるのだろう。
だからトシヤには、ワタルにもコウコにも見えた。
そしてそれは、彼の努力が実を結んだことを示している。
最高の自分になるのと同時に、彼は取り戻せたのだ。
「頑張ったな」
アルバムを撫でながら、そう呟く。
ここに至るまで、果たしてどれほどの努力を費やしたのだろう。成果が出なくて、くじけそうになった日もあったに違いない。
だが、ワタルはやり遂げたのだ。
やり遂げて……そして、それを永遠にしに行った。
もう二度と手放してしまわないように。
「大丈夫……? 泣いてるよ」
「えっ」
言われて、涙が流れているとに気づいた。視界がほとんど揺れていなかったから、よくわからなかった。
「感涙ですよ、感涙」
「強がっちゃって」
「ははは」
笑い声は震えていた。
悲しみがないとは言わない。生きていて欲しかったという思いは、ある。
だが、願いが叶ったのならば、祝福すべきことなのだろう。
そのために、自分たちは別れたのだから。
「なーんか、妬けちゃうな。君たちはずっとお互いのこと好きだったんだね」
「まあ、改めて認めるのは恥ずかしいですけど、はい」
トシヤ自身、よく気持ちが枯れないなと思う。
それは、別れ方のせいなのだろうか。
「それで、どうなの?」
「できたんだと思いますよ。少なくとも、自分の目にはそう見えます」
「そっか~……なら、あの子は幸せだったんだね」
柔らかな目をしたミハルの言葉には、ワタルの苦悩が滲んでいる。
「……あの、訊いていいかわかりませんけど」
「ん? なになに、なんでも訊いて!」
身を乗り出してまでの言葉に、思わず笑ってしまった。話したくて仕方ないのだろう。
「まあ、細かい話は後で訊くんですけど……お墓の場所って、訊いても大丈夫ですか?」
トシヤの言葉に、ミハルはニッコリと笑った。
「うん。行ってあげて。たぶん待ってるから」
伝えられた場所をメモすると、改めてここに至るまでの話を聞き始める。
それは、とても幸せで、満たされていく話だった。
***
それから、どれだけの時間が経っただろう。
期せずして忙しくなってしまって、結局、墓参りに行くことができたのは、ミハルと会ってから数年もしてからだった。
「久しぶり」
山奥の静まり返った寺院に、ワタルの眠る墓はあった。つい最近ミハルがやってきたのか、墓石は念入りに掃除されている。
「場所は聞いてたんだが、少し忙しくてな。来るのが遅れちまったよ」
それでも、話し掛けるのだけでは手持ち無沙汰で、軽く拭うように掃除をしてしまう。
「最期の写真、超綺麗だったよ。あれを俺が撮れなかったのが、悔しいよ」
それはミハルの前では言わなかった言葉だ。取り戻せたからこそ、また撮ってやりたかった。
「写真といやさ。俺結構上手くなったんだよ。この前なんか、変なおっさんに賞状もらっちゃってさ。ウケるだろ?」
そのために、こんなにも上手くなったのに。
ワタルは手の届かないほど遠くへ行ってしまった。
「今なら金もあるし、いろんなところでお前を撮ってやれるよ。世界一周旅行にでもいってみようぜ。そうやってたくさん集めてさ、写真集作ろう。装丁超豪華にしたやつな」
それは見果てぬ夢だ。
ワタルはもう土の下で、もう二度とその笑顔を見ることはできない。
そう、わかっていても、口にしてしまう。
「有名にさ……上手くなったらさ、もしかしたらお前とまた会えるんじゃないかって思ってたんだよ。思って、たのにな」
墓石を撫でる手が止まる。
……視界が、ぐらぐらと揺れている。喉がひくついて、苦しくなる。
「なんで何も言わずに死んじまったんだよ。ずりぃよ。あんな、クソ綺麗になったくせに……せめて、一言、声掛けてくれりゃ、俺は」
呼ばれたって、死ぬことを止めはしなかっただろう。みっともなくわめいたかもしれないが、最終的には認めたはずだ。
別れたあの日のように、そういう振る舞いができていたはずだ。
だからこれは、ただの愚痴でしかない。置き去りにされた男が、二度と満たされなくなったことへの、届かない抗議の声でしかない。
「……まあ、いいよ。もっともっと上手くなって、お前が夢枕に立って呼びに来るようにしてやる」
それは誓いだ。
いつか来る死の果てで、お前に会いに行くという宣言。
「楽しみにしてろよ、バカ野郎」
涙を拭ったトシヤは、お供え物をして、頭を下げると墓を後にする。
休みが取れたのは今日だけだ。明日から、また忙しい日々が始まる。
その中で研鑽を続けるのだ。至ってしまったワタルに、届くようにと。
『待ってるよ。最高に可愛い僕のまま、キミが来るのを、ずっと待ってるよ』
風に乗って、そんな声が聞こえた気がした。
*
*
*
『もう、待ちくたびれたよ』
『悪い悪い。でも、これからはずっと一緒だ』
『うん……じゃ、始めようか?』
『おう』
永遠の輝きは、すぐそこにある。
ファインダーを覗けば、君は笑っているだろう。
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