遠ざかったガラスの靴
十一月も半ばに入った頃、近場の名所は回りきってしまった二人は、ワタルの提案で駅前のホテルに来ていた。高級感のある内装の部屋で撮影した写真からは、咽せ返りそうな色香が漂っている。
ここ数ヶ月、彼女は目覚ましい速度で色気を増していた。
それはワタルの時ですら漂ってしまうもので、学校での人気が大変なことになっていた。
告白されすぎて困ってる、なんて、自慢とも取れそうな愚痴をよくこぼしていた。実際、近くで見ているだけでも、上手く断ることに苦心しているのが伝わってきていた。
それを嫌味に思わないのは、その思いの向く先を知っているからだろう。
気持ちを伝え合ったわけではないけれど、アイドルが恋人になっているかのような、そんな気分をトシヤは味わっていた。
我ながら気持ちの悪いものだな、とは思っていたのだが、思いを伝えられない以上、仕方のないことだった。
「ねえトシヤ。最近、なんか手を抜いてない?」
そんな文句を言われたのは、撮影を終えて、ベッドの上で写真を確認していたときのことだった。
トシヤは首を傾げる。コウコではないことに気づいてしまったが、手を抜いているつもりは一切なかった。
むしろ、この娘をより美しく撮ってやろうと気合を入れていたほどだ。
「まさか」
「本当に?」
「抜くくらいならやめるって言うよ」
トシヤの答えに、彼女は小さく唸り声を上げた。言うべきか言うまいか……そんな顔をしていた。
「なんだよ。言いたいことがあるなら言えよ」
「いや、でも……」
「お互いのためにもなるだろ? なんか違う、って写真撮り続けるのもへこむし」
トシヤの催促に、彼女は小さく溜息を吐いた。よほどの内容が来るのだろう。
「じゃあ言うけど、下手になったよ」
身構えたトシヤの耳を貫いたのは、そんな言葉だった。
「そうか」
言葉は、すとんの胸に落ちてくる。勝手だなぁと思うけれど、反論が浮かぶより早く、当たり前だろうなという気持ちになってしまっていた。
何せ、その言葉はとっくの昔に予想していたものだったからだ。
「反論しないの?」
「しようと思えばできるけど、しても意味ないからな」
トシヤの言葉に、彼女は意味がわからないという顔をした。
わからなくて当たり前だろう。そう思いつつ、彼は頭を掻きながら、最近撮った写真を見せ始めた。
どれも、決して下手ではない。始めたばかりの頃と比べれば、格段に上達していた。
だが、彼女の指摘はそういう話ではないのだろう。
「ここまでと、ここから。何が違うか、わかってるか?」
トシヤが選び出したのは、八月と九月の写真だ。祭りの中で笑っているコウコと、彼岸花を背に誘惑しているもう一人の少女の写真。
何を言わんとしているのか伝わったのだろう。彼女は、辛そうに顔を歪めていた。化けの皮が剥がれるように、ずるりとウィッグがベッドの上に落ちた。
それと同時に、少女の顔がワタルのそれに変わった。
「……気づいてたの」
「わかったのは、ついこの間だよ。一緒に居たかったからな」
写真を流していって、また、撮り方の変わる場所がくる。
それは、正体に気づいてしまった後の写真だ。
気づかないふりをしていても、写真には如実に表れていた。精一杯の偽装工作が裏目に出た……それだけの話だった。
「……やめるの?」
酷く辛そうに、小さく震えながらワタルが問うてくる。あの夏の日とは逆に、彼が縋ってきていた。
その姿に、言葉を続けるのが辛くなる。何もかも押し殺してしまいたくなる。
けれど、それは逃避でしかない。
「やめたくないよ。でも、わかってるんだろ」
「そう、だね」
どうするかを決めるのはワタルだ。
望むのなら、このズレてしまった関係を、崩れていく関係を、無理矢理に続けることは不可能ではない。
でもきっとそうはならない。
そんな確信が、あった。
「……正直なところを言えば、キミとは続けたいと思ってるよ」
たっぷり、数分は続いた沈黙の末、現れたのはそんな言葉だった。予想通りの、言葉だった。
「だけど、無理なんだろうね」
「こんなにも、お互い好きなのにな」
トシヤは深く溜息を吐いた。
ワタルが曖昧に微笑む。
「だからじゃないかな。キミもそう思ったんでしょ?」
「……まあな」
好きだからこそ、相手に寄っていってしまう。寄せていってしまう。そういう性格だから、ダメになる。
「僕かキミが、あと少し違えばこうはならなかったんだろうけどね」
「そうだったら、好きになってなかったんじゃねーの?」
「かもね」
もしもの話に意味はない。わかっていても口にしてしまうのは、それだけ惜しいからなのだ。
自分を捻じ曲げてしまうほどに愛しているのに、だからこそ、通じてはいけないのだから。
「キミがあの時、もっとわかりやすく告白してくれてたらなぁ」
「そうしたらそうしたで、また別の問題が起きてた気がするけどな」
「そうかな? ……そうかも。僕は、好きな相手に合わせちゃうタイプみたいだしね」
「んなもんコウコのために色んなもの投げ捨ててたんだから、わかりきってたもんだろ」
「自分をそこまで客観視なんて出来ないよ」
ワタルの中でそれは当たり前のことでしかなくて、誰かに言われなくてはおかしなことだとは気づけないのだろう。
他人を中に入れなかった彼に、それを指摘できる友は誰もいなかったから、今回のことがなければ一生知らずに終えたかもしれない。
「でも、出来てたら、もっと、上手くやれたのかな。あの子を捨てないで、キミと一緒に居られたのかなぁ」
声を震わせた呟きに、トシヤは首を振る。
「……やめようぜこの話。もう、どうしようもないんだから」
「そう、だね。どうしようもない話。終わった、話だ」
つ、とワタルの頬に涙が伝う。大粒の雫が、その両目からこぼれていた。
その姿に、愛おしさが溢れかえって、トシヤは彼の頬に触れる。温かくて柔らかなそこから、雫が指先に伝う。
「ああ、やだなぁ。みっともない」
「気にすんなよ。そんなお前も、俺は……」
「好きでいてくれる?」
「もちろん」
「じゃあ……キスして」
何がどうじゃあだったのだろう。話題の転換に戸惑いながらも、誘いに喜んでいる自分を感じていた。
「喜んで」
小さなワタルの顎先を、くいと持ち上げてやる。
口づけを望みながらも恐れるお姫様のように、微かに震える彼の体を抱きしめるように、もう片方の腕を回す。小さな体を胸に収めれば、震えが止まっていた。
そのことに安堵して、ようやくトシヤは彼へと口づけを落とした。淡いピンク色の、きちんと手入れのされた艶々の唇に、重ねるだけのキスをした。
「んっ……」
普段思っているよりも敏感な、唇同士が触れるだけのそれは、小さな小さな快楽と、胸を満たす充足感を与えてくれる。
ここから足を進めれば、快楽を求めることが出来ると知っていても、二人とも唇を開くことはしなかった。そういうものを求めているのではなかったから。
何度も、なんども。離しては重ねる。先へは進まないで足踏みをしたまま、唇を甘噛みしたりして、たくさんのキスをした。
「……キスって、気持ちいいんだね」
「この先は、もっと、だけどな」
頬を赤く染めて、湿った吐息をこぼしながら呟いたワタルの言葉に、トシヤは照れ隠しようにそんな言葉を返していた。
過去を引き合いに出したそれは、不躾な行為で。
口にしてすぐ気づいた彼を、ワタルは眉を寄せて見上げていた。
「やらしーんだ」
「悪かったな」
「別にいいよ、キミだから」
だけど、と続けて、ワタルが腕の中から逃げていく。まるで、そうしなくては耐えられないというふうに。
「ありがとう。これで、少しは満足したよ」
「そか」
ワタルは今にも泣きそうな顔をしていた。とてもではないが、満たされたもののする顔ではなかった。
けれどそれは、トシヤも同じだったから、指摘なんてしなかった。
やがて二人は目配せをして、同時に口を開く。
「俺はお前をダメにしたくない」
「僕は彼女を取り戻したい」
だから……。
「終わりにしよう」
そうしなくてはならないというふうに、声を重ねて終わりを告げた。綺麗な綺麗なハーモニーになったそれが消えていくのを感じながら、二人は頷く。
これで終わりだ。もう、こうして二人きりで会うことはない。
わっと胸の中に湧いてきた切なさに耐えようとするトシヤに、ワタルが少しだけのワガママを言う。
「だけど……もう一度だけ、僕に時間をくれないかい?」
「どうして?」
ここで終わらせなければ、未練が残るような気がしていた。それは、ワタルも同じだと思っていたのに。
困惑をありありと示すトシヤに、彼は浅く笑みを作る。
「だって、気に入らないじゃない。最後の写真が、こんな出来だなんて」
伸びてきた手が、カメラを操作する。表示された今日の写真は、彼にとっては不満だらけだ。
「僕の撮って欲しい一枚を……キミの撮りたい一枚を、最後の一枚にしたいから」
それはコウコを連れ戻すということだ。
死者を連れ戻すために足掻くということだ。
「わかったよ。どれくらい待てばいい?」
また来週、ということにならないのはわかりきっていた。
コウコを連れ戻すには、たくさんの時間が必要だった。
「そうだな……一ヶ月。うん、ちょうど冬休みに入ったあたりにしよう。それ以上は、無駄だろうから」
「それで終わり、か」
「うん。それで、おしまい」
終わりは決まった。
なら、そこに向けて自分を調整していくだけだ。
二人はお互いにそう決めて、軋む心に目を瞑って、出来るだけ気安く別れた。
次の、最高の一枚のために。
愛の証明のために。




